あなたの思考柔軟度・・・・・1036
2011年05月12日
~ 今 日 の 雑 感 ~
あなたの思考柔軟度
東京のとある場所に三軒の食堂が看板を出しました。
一軒目の看板は、「東京一美味しい店」というものです。
二軒目の看板は、「日本一美味しい店」でした。
ところが、三軒目の食堂が看板を出した途端、客はほとんど、その三軒目の食堂へ入ってしまったのだそうです。
では、三軒目の食堂が出した看板はどのようなものだったのでしょうか?
それは、「入口は、こちら」というごくありふれた文句が書かれた看板でした。
客は、店の入口が判らなければ入りようがないですから、店が食堂だと判るのならば、あとは入口の場所を示した方が手っ取り早く客を入れられますよね。
ここで、思考の柔軟度が判るのだそうです。
もしも、先の食堂の看板の文句に思考が縛られていると、おそらく三軒目の看板は、「世界一美味しい店」だろうと、考えてしまうのだといいます。
では、もう一つ。
A ある動物実験で、ネズミの巣箱に小さな穴をあけて、外へ餌をまいた。
B ネズミはしばらく巣箱の中で寝ていたが、その後見た時は、穴から尻を出し、頭を抜こうともがいていた。
C そして、次に見た時ネズミは巣箱から出て、餌の近くにいた。
これらの観察から、「ネズミは巣箱から出る時、尻の方から先に出る」という報告がされたのだそうですが、果たしてこの報告は正しかったのでしょうか?
いいえ、Bの時点でネズミは尻から出ようとしていたのではなく、ネズミは既に一度巣箱から出て餌を食べたあとで、巣箱に戻ろうとして頭がつかえ、それを引き抜こうとしていただけだったのです。
これは、わたしたちが、如何に先入観や固定観念というものにしばられやすい日常生活を行なっているか----ということが判る実験なのだそうです。
物事を考える時、一つの方向からだけではなく、もっと別の見方はないだろうか?----と、疑いの目を持つことが大切なのだと言います。
一つの出来事が皆の気持ちを和ませる素晴らしいことだとしても、「いや、待てよ。彼らにとっては素晴らしいことかもしれないが、別の人たちにとって、それは本当に素晴らしいことといえるのだろうか?」と、疑問を懐くことが大事なのだそうです。
そうした違う方向から物を見る目線を出来るだけたくさん養うことが、人間の幅を広げることにもなるのだということなのでしょうね。
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おかしなCM・・・・・1035
2011年05月12日
~ 今 日 の 雑 感 ~
おかしなCM
放送される度にいつも首を傾げてしまうテレビCMがある。
某黒酢のCMだ。
そのCMには、一人のベテラン女優が出て、こんな台詞を言う。
「わたし、悔しいの。どうしたら、〇〇の黒酢の良さが皆に伝わるんだろうか・・・・?」
この台詞を聞くたびに、そこまで言う必要があるのだろうか?----と、疑問を感じてしまうのだ。
こう言っては何だが、ただの黒酢のCMである。
効果のある人にとってはありがたい黒酢なのだと思うが、それを「悔しいの」とまで表現するのは、どういうことなのか?
何をそんなに悔しがる必要があるのだろう?
しかも、その女優は、本当に悔しそうに言うのではなく、正に笑顔なのだ。
その笑顔と、「悔しい」という言葉のあまりのギャップに、こちらは異様ささえも感じてしまうのである。
人が普通「悔しい」という言葉を使う時は、絶対に負けられない試合をイージーミスで落とした時とか、楽勝だと思い込んでいた試験が不合格だったとか、信頼していた友人に裏切られたとか、あらぬ疑いをかけられたとか、とにかく、人生において相当なインパクトをもたらす出来事に遭遇した場合に限るのではないか----と、思うのだ。
それを、黒酢の効能が皆に判ってもらえないことぐらいで、「悔しい」とまで言うのか?----と、いうことなのである。
確かに、これを生産している側のメーカーの人が、自分たちが心血を注いで開発した製品の良さが判ってもらえないというのなら、「悔しい」気持ちもあるだろう。
しかし、それを言ってしまっては、製品の良さを判らない消費者が悪いということになってしまう。
だから、あえて女優の口を借りて言わせているのだろうが、如何せん、言い方があまりに軽すぎる。
彼女の演技からは、その悔しさがまったく伝わって来ないのだ。
だから、ここは、「わたし、とても残念に思うのね。こんなに素晴らしい黒酢なんだから、もっと皆さんに知ってもらいたいわ」ぐらいの言い方で抑えておいた方がむしろ真実味があるのではないだろうか?
「悔しいの」----では、あまりにわざとらしい。
それに、ニコニコ笑って言うのも何だかなァ・・・・と、思ってしまう。
CMが視聴者に好印象を与えるか否かは、こんなちょっとしたことでも左右されるものなんですよね。
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