地球高温化?・・・・・88
2009年07月08日
~ 今 日 の 雑 感 ~
地 球 高 温 化?
埼玉県川口市は、「地球温暖化」という言い方が、環境被害の実態を周知させるためには、あまりに表現が軽すぎると、いう理由で、この四月から、独自の取り組みとして「地球高温化」という言い方を用いることに決めました。
確かに、同市が主張するように、「地球温暖化」という言い方は、ぬくぬくとした温かさを意味するため、むしろ心地よいイメージさえ与えかねず、危機感を認識するにはあまり適当でない言葉なのかもしれません。
この「地球温暖化」という言葉の元は、「グローバル・ウォーミング」という英語の日本語訳で、日本では法律としても明記されている公の言い方なのだそうですが、それを、自治体単位で別の言い方に変えるという例は、未だかつて聞いたことがないと、環境省は驚いているということです。
近年、言葉はとみに形骸化され、昔、使っていた言葉が、今は使えなくなったり、意味が変わったり、表現の仕方が軽くなって、実感が伴わなくなった物も多々あります。
特に、障害者に対する言葉などは、その最たるもので、侮蔑的な表現は好ましくないということから、ほとんどが婉曲的な言い方になったため、かつての時代劇が、テレビでは放送できなくなってしまったという例もあります。
これにより、名作と呼ばれている映画や小説、テレビドラマなどの文章や台詞が虫食い状態になり、何を言っているのか判らないことや、臨場感も失せて、単なる凡作になり下がってしまったものも少なくありません。
最近は、「障害者」の「害」の字が気に食わないという人たちも現われ、「害」を平仮名にしてはどうか?-----とか、「障害」などという言葉は、無くしてしまおうと言う者まで出て来ています。そもそも、「健常者」などという言葉があるから、差別用語が生まれるのだという訳です。
しかし、そうやって、どんどん言葉を事実から遠ざけて行くことで、物ごとの本質から目を背けていけば、誰も、親身になってその人たちのために考えなくなってしまうのではないかと、懸念します。
「へ~、きみ、障害者じゃないの。なら、全部自分でやれば」などという風潮が世の中に出来上がることになるやもしれません。「後期高齢者」という言葉を「長寿高齢者」に、「付きまとい犯罪」を「ストーカー」に、「売春」を「援助交際」に、「もみじマーク」を「ベテランマーク」に、「強姦」を「レイプ」に、「エイズ」を「HIV」に------。
いろいろな言葉を、ことごとくファジーに作り替えることで、オブラートに包んで行こうという訳です。
それに対して警鐘を鳴らしたのが、今回の川口市が決めた「地球高温化」ではないでしょうか?
言葉には、むろん配慮が必要です。しかし、あまり極端な言い替えは、物事を軽く、甘く考えるという方向へ引き摺って行くという弊害があることも事実です。
安易なカタカナ表記や、思いやりの押し付けともいえる言い方は、逆に無関心社会を加速させる原因にもなるのだということを、もう一度考えてみる必要があろうかと思います。 続きを読む
他人の子供じゃダメですか?・・・・・87
2009年07月08日
~ 今 日 の 雑 感 ~
他人の子供じゃダメですか?
今年の二月上旬、香川県の県立病院で、体外受精の手術の際、別の夫婦の受精卵を誤って、妻のお腹に戻されてしまった夫婦が、県に損害賠償を求め提訴したというニュースがありました。
この報道を聞いた時、わたしは、無性に腹が立ちました。

病院側に対してではありません。提訴に踏み切った夫婦に対してです。
確かに、病院側は、お腹に入った受精卵が、本当に他人の卵子であったのかと、いう確認をするための説明責任を、妊婦側に十分果たしていなかったという手落ちはあったでしょう。また、そもそも、手術の際に受精卵を取り間違えるなどという初歩的なミスを犯すこと自体が、医師として重大な怠慢だといわざるを得ません。

そのために、その妊婦は、せっかく授かったお腹の子供を中絶せざるを得ないことになってしまった訳です。
しかし、わたしが疑問に思うことは、それよりも何よりも、どうして、その夫婦は、そこまで自分の子供に固執していたのかということです。
結婚すれば、自分の本当の子供が欲しいということは、十二分に判ります。そのうえで、男の子がよかったとか、女の子の方がいいとか、そして、更に、五体満足でなくては困るとか、頭が良い方がいいとか、顔が可愛い方が嬉しいとか、欲を言ったらきりがありません。
でも、どうしても子供に恵まれないのであれば、そして、体外受精を望んだのであれば、もしも、そのお腹の子が自分の子供でなかったとしても、そこまでして子供が欲しかったのですから、生まれた子供は自分たちの子供として大切に育てるという選択を何故しなかったのでしょうか?
自分の子供は生かすが、他人の子供は殺しても構わないというのでしょうか?これは、一種の犯罪行為に等しい問題です。世の中には、様々な理由で親に捨てられた子供や、親を亡くした子供が大勢います。どうして、そういう子供の親になるという選択肢を持たないのでしょうか?
こんなことを言っては失礼かもしれませんが、そこまで固執して生んだ実子が、必ずしも博士や大臣になる訳ではないでしょうに。
単に、自分たちの遺伝子を残したいという自己満足のために、非難される病院の方が気の毒です。それも、お腹の子供は、すこぶる順調に育っていたというのですから、人ごとながら、残念な気持ちでいっぱいです。
わたしは、もともと、自然の摂理に反した体外受精や、代理母というものには賛成出来ません。別に、運命論者ではありませんが、やはり、子供というものは、その親を選んで生まれて来るものでなないかと思うのです。
人間が生まれるということは、宇宙が出来るにも等しい、極わずかな確率の産物なのであるといった学者もいます。
事件に巻き込まれて否応なく妊娠してしまったような場合や、妊婦が幼すぎて、自分のしたことに責任が持てないような場合は別でしょうけれど、知識もある立派な大人が、自分たちの欲のためだけに胎児の命を犠牲にするなど、論外もいいところではないでしょうか。そういう夫婦には、はっきり言って、子供を養育する資格などないと思うのです。
親とは、身勝手な生き物です。このほど国会で議論されている脳死は人の死か-----という問題でも、他人の子供の脳死は「死」であるが、自分の子供の脳死は「死ではない」と、言い張るものです。
たとえ、夫婦間に子供が出来なくても、それを運命と割り切って、傍が羨むような円満な家庭を築いているご夫婦だっています。
もし、自分たちの間にどうしても子供が出来ないご夫婦がいらしたら、それは、子供がいないということで、子供のいる他の夫婦には出来ないことをせよとの使命を課せられているのだと考え、積極的に世の中に貢献して頂きたいと思うのです。

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