~ 炎 の 氷 壁 ~ 21
2009年03月11日
雄介たちパトロール員は、横手山を中心として二手に分かれ、黒鳥真琴の行方を追うことにした。神崎パトロール員をリーダーとするパトロール班は、熊の湯温泉方面へ続く北側一帯の徒歩による捜索に、また、時任パトロール員をリーダーとするパトロール班は、渋峠方面へ続く東側ゲレンデの捜索をスキー装着により重点的に行なうことになった。時間は、既に正午近くになり、志賀高原のこの時期の日没時間を午後五時半と見積もっても、捜索にかけられる時間は、ごくわずかに限られている。パトロール員たちは、まずは、スキー客やホテル関係者などへの聞き込みと、ゲレンデ外の危険区域に不明者が迷い込んだ形跡はないのかなどの視点から、慎重に捜索を開始した。
雄介も、時任の指示で、山岳コースを滑るスキーヤーたちから情報を得ようと、黒鳥真琴についての背格好や年齢を例に挙げながら、聞き込みに回る。更に、コース付近の事故多発地帯とも呼ばれる危険区域へもあえて足を踏み入れて、何とかわずかな痕跡でも摑もうと、パトロール員たちは、皆血眼で彼女の消息を追い求めた。
途中からは、志賀高原山岳遭難対策協議会所属の山岳パトロール員たちも合流しての捜索活動となったものの、残念ながら、黒鳥真琴の消息は依然判らず、この日の捜索は、日没をもって打ち切らざるを得なかった。
寒さと疲労でクタクタに萎え切った身体を、ようやくスキーパトロール本部まで運んで来たパトロール員たちは、事務所内の粗末な長椅子やパイプ椅子に座り込んだまま、誰一人として口を利こうともしない。それを見た高木主任は、各パトロール員自前のマグカップや湯呑茶碗に、自らコーヒーを注ぐと、彼ら一人一人の前のテーブルにそれらを置いて、その労をねぎらった。
「みんな、ご苦労さん。捜索は、明日もまた早朝から再開する予定だから、今日のところは早めに宿へ戻って、ゆっくり身体(からだ)を休めてくれ」
パトロール員たちは、高木主任が淹れてくれたコーヒーを飲み干すと、それぞれに腰を上げて、
「お疲れ様でした-----」
「お先に失礼します」
などと、口々に挨拶を交わしながら、帰宅の途に就いた。そんな中、雄介はゆっくりと可児パトロール員のそばまで行くと、その耳元で、こう囁いた。
「可児君、きみ、今夜確か本部の宿直勤務だったよな?」
「そうですけど・・・・」
「それ、おれが替わるよ」
「------えっ?いいんですか?」
「ああ、おれ、今夜は泊まるホテルが決まっていないんだよ。だから、ちょうどいいんだ」
雄介は、正直に説明する。可児は、それ以上の穿鑿(せんさく)をすることなく、単に無邪気に喜んだ。
「やった!ラッキー。おれ、実は、今夜の宿直、誰か交替してくれる人がいないかと思っていたんですよ。でも、今日は皆捜索で疲れているし、そんなこと頼める雰囲気じゃなかったものだから------。ありがとうございます」
可児が笑顔で礼を言うと、それを横目で見ていた神崎が、一言、小憎らしそうな小姑的口振りで、
「どうせ、今日が彼女の誕生日か何かで、一緒に夕食でも食べようなんて、安請け合いしちゃったとか言うんでしょ?あんたって、ホント、女に甘いんだから・・・・」
「-------その通りです。すみません」
図星をさされた可児は、ペロリと舌を出しておどけてみせると、高木主任に、夜間当直勤務を雄介に替わってもらったことを改めて報告し、脱兎の如くスキーパトロール本部を飛び出して行った。
その後は、神崎も去り、高木主任も、雄介に、
「きみの宿泊先は、明日手配することにしよう------」
と、言ってから、加えて、宿直の際は、火の元だけには用心するように助言し、
「それと、もしも、黒鳥真琴さんに関する連絡が警察や遭対協から入ったら、時間は何時(いつ)でも構わないので、必ずおれに電話をしてくれよ」
そう言い含めて、念のため宿泊先の電話番号と自分の携帯番号の両方を雄介に教えると、それじゃァ、また明日と言い置いて、悠然とした足取りで部屋を出て行った。
本部の事務所内に残ったのは、雄介と時任の二人だけになった。
「時任さんも、もうホテルへ帰って下さい。あとは、おれ一人で大丈夫ですから」
雄介は、努めて元気に言う。
「-------そうだな」
時任は、生返事で応答(こた)えながらも、何処となく帰宅を迷っている様子で、一向に腰を上げようとはしない。雄介は、そんな時任の気持ちを先読みして、黒鳥真琴の行方不明に関することでしたら、時任さんには、何の責任も落ち度もありませんよと、諭した。すると、時任は、小さく頷きつつも、それでも何か納得の行かない顔付きで、
「彼女は、あの時、おれがかけた電話を、いったい何処で取ったんだろう?考えてみるに、電話の向こうは、やけに静かな感じで、おれは、てっきり、彼女が、泊まっているホテルの自室にいるものとばかり思っていたんだが・・・・」
と、独り言のように言う。それを聞いた雄介は、
「でも、そうなると、黒鳥真琴は、その時、何処かの建物内にいたかもしれないということですよね?だったら、志賀高原一帯のホテル、旅館などの宿泊施設や、公共のコンベンションセンターなどには、既に捜索の協力依頼がなされているんですから、何処かから情報が入っていてもおかしくないですよ。そうでしょう?」
と、あくまで時任の自責に伴う懸念を振り払うように否定する。すると、時任も、それもそうだなと、かすかに苦笑を漏らし、それじゃ、おれも帰るとするかと、ようやく椅子から立ち上がった。そして、雄介の傍らまで来て、彼の左肩にそっと手を載せると、
「雄介、お前も疲れているんだから、少しは眠れよ。隣の部屋に仮眠用の蒲団も用意してあるからな」
まるで、実の兄が弟を気遣うような穏やかで優しい眼差しを向ける。雄介は、内心、気恥かしいような、それでいて嬉しいような、胸が詰まる心地がして、小さく頷くのがやっとだった。
「じゃァ、また、明日------」
時任は、そう言って微笑むと、雄介に軽く右手を上げて帰りの挨拶をし、退室して行った。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
最近、何名かのブロガーさんの記事で、共同浴場のマナーに関する話題を取り上げていました。
洗面器を置いての場所取りや、浴室内での大声での会話、浴場を出る時の後始末についてなど、マナーの悪さが目立つという記事もありました。銭湯や、最近多くなって来た飲食付きの温泉施設など、共同浴場の種類も様々になり、天然温泉を謳(うた)う施設も大幅に増加している今日、田舎の天然温泉の共同浴場ヘ入りながら、シャワーがないと、不満を言う旅行客の姿も目につきます。湯船につかる時は、まず、身体を洗ってからとか、タオルを湯船に入れてはいけないとか、洗髪は、洗髪用の場所ですることとか、その温泉の種類の効能に加えて、いろいろな注意書きが掲げられている浴場もありますね。
しかし、それらは、皆、不特定多数の旅行客などが入浴する共同浴場に関するマナーです。わたしたちが、普段利用している地元の人たちのみが入浴出来る共同浴場には、これとは全く別の地元マナーが存在するのです。
まず、最初に場所を取った人の邪魔は絶対してはいけません。最初にその場所に座った人が浴槽に入っている間も、あとから来た人は、たとえそこが空いていても、座ることは許されません。もし、知らずに割り込んだりしたら、とんでもない非常識者だと、白い目で見られるばかりか、中には、面と向かって叱られる場合さえあります。また、湯船へタオルを入れることも、ついこの間までは、当然のことで、これを注意などしようものなら、出て行けと、追い出されるのが関の山でした。更に、お年寄りが入っている時は、若い者は出来るだけ遠慮して入浴時間も早々に切り上げるのが一般的で、わたしが子どもの頃は、「子供が長風呂などするものではない」と、言われ、せいぜい十分も入れば、上がるように急かされました。
脱衣所でも、こうしたマナーは厳しく言われ、年長者が衣服を脱ぎ着している時は、たとえ裸でも、その人の脱ぎ着が終わるまで、子供はそこで待っていなければなりません。そうやって、小さい頃から徹底的に共同浴場の作法を擦り込まれたものですから、正直、わたしは、最近の温泉施設での入り方が苦痛でならないのです。幼い頃から、熱いお湯が当然で、水など埋めようものなら叱りつけられ、すごく熱いお湯でも我慢をして入るように躾けられた身としては、あのぬるま湯のような物を、温泉と呼んでいること自体も、どうなのかと、疑問に思うのです。
雄介も、時任の指示で、山岳コースを滑るスキーヤーたちから情報を得ようと、黒鳥真琴についての背格好や年齢を例に挙げながら、聞き込みに回る。更に、コース付近の事故多発地帯とも呼ばれる危険区域へもあえて足を踏み入れて、何とかわずかな痕跡でも摑もうと、パトロール員たちは、皆血眼で彼女の消息を追い求めた。
途中からは、志賀高原山岳遭難対策協議会所属の山岳パトロール員たちも合流しての捜索活動となったものの、残念ながら、黒鳥真琴の消息は依然判らず、この日の捜索は、日没をもって打ち切らざるを得なかった。
寒さと疲労でクタクタに萎え切った身体を、ようやくスキーパトロール本部まで運んで来たパトロール員たちは、事務所内の粗末な長椅子やパイプ椅子に座り込んだまま、誰一人として口を利こうともしない。それを見た高木主任は、各パトロール員自前のマグカップや湯呑茶碗に、自らコーヒーを注ぐと、彼ら一人一人の前のテーブルにそれらを置いて、その労をねぎらった。
「みんな、ご苦労さん。捜索は、明日もまた早朝から再開する予定だから、今日のところは早めに宿へ戻って、ゆっくり身体(からだ)を休めてくれ」
パトロール員たちは、高木主任が淹れてくれたコーヒーを飲み干すと、それぞれに腰を上げて、
「お疲れ様でした-----」
「お先に失礼します」
などと、口々に挨拶を交わしながら、帰宅の途に就いた。そんな中、雄介はゆっくりと可児パトロール員のそばまで行くと、その耳元で、こう囁いた。
「可児君、きみ、今夜確か本部の宿直勤務だったよな?」

「そうですけど・・・・」
「それ、おれが替わるよ」
「------えっ?いいんですか?」
「ああ、おれ、今夜は泊まるホテルが決まっていないんだよ。だから、ちょうどいいんだ」
雄介は、正直に説明する。可児は、それ以上の穿鑿(せんさく)をすることなく、単に無邪気に喜んだ。
「やった!ラッキー。おれ、実は、今夜の宿直、誰か交替してくれる人がいないかと思っていたんですよ。でも、今日は皆捜索で疲れているし、そんなこと頼める雰囲気じゃなかったものだから------。ありがとうございます」
可児が笑顔で礼を言うと、それを横目で見ていた神崎が、一言、小憎らしそうな小姑的口振りで、
「どうせ、今日が彼女の誕生日か何かで、一緒に夕食でも食べようなんて、安請け合いしちゃったとか言うんでしょ?あんたって、ホント、女に甘いんだから・・・・」
「-------その通りです。すみません」
図星をさされた可児は、ペロリと舌を出しておどけてみせると、高木主任に、夜間当直勤務を雄介に替わってもらったことを改めて報告し、脱兎の如くスキーパトロール本部を飛び出して行った。
その後は、神崎も去り、高木主任も、雄介に、
「きみの宿泊先は、明日手配することにしよう------」
と、言ってから、加えて、宿直の際は、火の元だけには用心するように助言し、
「それと、もしも、黒鳥真琴さんに関する連絡が警察や遭対協から入ったら、時間は何時(いつ)でも構わないので、必ずおれに電話をしてくれよ」
そう言い含めて、念のため宿泊先の電話番号と自分の携帯番号の両方を雄介に教えると、それじゃァ、また明日と言い置いて、悠然とした足取りで部屋を出て行った。
本部の事務所内に残ったのは、雄介と時任の二人だけになった。
「時任さんも、もうホテルへ帰って下さい。あとは、おれ一人で大丈夫ですから」
雄介は、努めて元気に言う。
「-------そうだな」
時任は、生返事で応答(こた)えながらも、何処となく帰宅を迷っている様子で、一向に腰を上げようとはしない。雄介は、そんな時任の気持ちを先読みして、黒鳥真琴の行方不明に関することでしたら、時任さんには、何の責任も落ち度もありませんよと、諭した。すると、時任は、小さく頷きつつも、それでも何か納得の行かない顔付きで、
「彼女は、あの時、おれがかけた電話を、いったい何処で取ったんだろう?考えてみるに、電話の向こうは、やけに静かな感じで、おれは、てっきり、彼女が、泊まっているホテルの自室にいるものとばかり思っていたんだが・・・・」
と、独り言のように言う。それを聞いた雄介は、
「でも、そうなると、黒鳥真琴は、その時、何処かの建物内にいたかもしれないということですよね?だったら、志賀高原一帯のホテル、旅館などの宿泊施設や、公共のコンベンションセンターなどには、既に捜索の協力依頼がなされているんですから、何処かから情報が入っていてもおかしくないですよ。そうでしょう?」
と、あくまで時任の自責に伴う懸念を振り払うように否定する。すると、時任も、それもそうだなと、かすかに苦笑を漏らし、それじゃ、おれも帰るとするかと、ようやく椅子から立ち上がった。そして、雄介の傍らまで来て、彼の左肩にそっと手を載せると、
「雄介、お前も疲れているんだから、少しは眠れよ。隣の部屋に仮眠用の蒲団も用意してあるからな」
まるで、実の兄が弟を気遣うような穏やかで優しい眼差しを向ける。雄介は、内心、気恥かしいような、それでいて嬉しいような、胸が詰まる心地がして、小さく頷くのがやっとだった。
「じゃァ、また、明日------」
時任は、そう言って微笑むと、雄介に軽く右手を上げて帰りの挨拶をし、退室して行った。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
最近、何名かのブロガーさんの記事で、共同浴場のマナーに関する話題を取り上げていました。
洗面器を置いての場所取りや、浴室内での大声での会話、浴場を出る時の後始末についてなど、マナーの悪さが目立つという記事もありました。銭湯や、最近多くなって来た飲食付きの温泉施設など、共同浴場の種類も様々になり、天然温泉を謳(うた)う施設も大幅に増加している今日、田舎の天然温泉の共同浴場ヘ入りながら、シャワーがないと、不満を言う旅行客の姿も目につきます。湯船につかる時は、まず、身体を洗ってからとか、タオルを湯船に入れてはいけないとか、洗髪は、洗髪用の場所ですることとか、その温泉の種類の効能に加えて、いろいろな注意書きが掲げられている浴場もありますね。
しかし、それらは、皆、不特定多数の旅行客などが入浴する共同浴場に関するマナーです。わたしたちが、普段利用している地元の人たちのみが入浴出来る共同浴場には、これとは全く別の地元マナーが存在するのです。
まず、最初に場所を取った人の邪魔は絶対してはいけません。最初にその場所に座った人が浴槽に入っている間も、あとから来た人は、たとえそこが空いていても、座ることは許されません。もし、知らずに割り込んだりしたら、とんでもない非常識者だと、白い目で見られるばかりか、中には、面と向かって叱られる場合さえあります。また、湯船へタオルを入れることも、ついこの間までは、当然のことで、これを注意などしようものなら、出て行けと、追い出されるのが関の山でした。更に、お年寄りが入っている時は、若い者は出来るだけ遠慮して入浴時間も早々に切り上げるのが一般的で、わたしが子どもの頃は、「子供が長風呂などするものではない」と、言われ、せいぜい十分も入れば、上がるように急かされました。
脱衣所でも、こうしたマナーは厳しく言われ、年長者が衣服を脱ぎ着している時は、たとえ裸でも、その人の脱ぎ着が終わるまで、子供はそこで待っていなければなりません。そうやって、小さい頃から徹底的に共同浴場の作法を擦り込まれたものですから、正直、わたしは、最近の温泉施設での入り方が苦痛でならないのです。幼い頃から、熱いお湯が当然で、水など埋めようものなら叱りつけられ、すごく熱いお湯でも我慢をして入るように躾けられた身としては、あのぬるま湯のような物を、温泉と呼んでいること自体も、どうなのかと、疑問に思うのです。
ちょっと、一服・・・・・⑬
2009年03月10日
< 東京大空襲のミステリー >
昭和二十年三月十日の未明、アメリカ軍による、東京の住宅地への絨毯爆撃が行われました。三十二万発もの焼夷弾が投下され、約二時間半の間に十万人の市民が命を落とすという、未曾有の大惨事となりました。これが、いわゆる東京大空襲です。人々は、焼夷弾の炸裂による激しい炎がすさまじい勢いで街を舐めつくす最中を、必死で逃げまどい、熱さに耐えかねて次々に飛び込んだ隅田川は、溺死したおびただしい数の死体で、真っ黒になったそうです。
ところが、東京がそんな大空襲に見舞われているなどという情報は、長野県の片田舎までは、届きませんでした。その時代の全国的な情報収集手段といえばラジオと新聞ぐらいのものでしたので、そのラジオ放送も、すべての番組が軍の統制下に置かれていたため、大本営が情報管理を行っており、日本に不利と思われる放送は、まったく発表されなかったというのが現実のようです。それが証拠に、戦争中に名古屋で起きた大地震で、多くの学徒動員の子供たちが軍事工場の建物の下敷きになって亡くなったことも、決して報道はされませんでした。
そのような訳で、当時、中野農商学校(現在の中野実業高校・この四月からは中野立志館高校)の三年生だった一人の少年は、まさか、自分がこれから専門学校(現在の大学に相当する)の入学試験を受けに行こうとしている東京の地が、そのような有り様になっているなどとは夢にも思わずに、母親が手作りしてくれたキビ餅と蒸(ふ)かしたジャガイモを新聞紙でくるんだ、ささやかな弁当を持って、国鉄長野駅から東京行きの汽車に乗り込んだのでした。
しかし、その汽車も、大宮駅を過ぎた辺りから走り方がひどく遅くなり、やがて、赤羽駅に着いたところで、ついに停まってしまいました。汽車は、もうそこから先は走らないというので、乗客たちは、皆大きな荷物を抱えながら、不安そうに汽車を降りて行きます。少年も、同じように下車したのですが、何せ、初めて来た場所ですから、このようなところで降ろされてしまってはここからどうやって試験会場まで行けばいいのか見当もつきません。しかも、降り立った場所は、何故か見渡す限りの瓦礫の山が連なり、辺り一面が煤けたように黒ずんで、満足な建物一つない有様です。
それもそのはず、なんと、この日は、東京大空襲が行われた翌日だったのですから------。
「いったい、ここは何処なんだ?本当に、東京なのか・・・・?」
少年は、押しつぶされそうな不安に襲われました。でも、ここで躊躇している暇などありません。試験日は、明日なのです。何としてでも、試験会場までたどり着かなくては、期待をかけて自分を送り出してくれた家族に申し訳が立ちません。
辺りは、既に夕闇が覆い始め、寒さも身に沁みる早春の街を、瓦礫を踏み越えながら、歩き始めました。途中、何度か通りすがりの人に会場の住所を訊ねてはみましたが、皆自分自身のことで精一杯で、懇切丁寧になど教えてくれる人はいません。少年が、「もう、明日の試験には間に合わないかもしれないな・・・・」と、半ば諦め掛けた時のことです。はるか遠くの真っ暗な闇の中に、ポツンとほんの小さな灯りが一つ、光っているのが見えました。少年には、その赤い小さな灯りが、何故か、唯一の希望の光のように思えたのです。
「よし、あの灯りを目指して、行くだけ行ってみよう。着いた所が何処でも、それで諦めがつくかもしれない」
少年は、そう気持ちに言い聞かせ、それからは、わき目も振らずにただまっすぐ、その灯り一つを頼りに歩いて行ったのでした。何キロ歩いたのか、足が棒のようになった頃、ようやく、その灯りのある所へとたどり着くと、そこは、二階建ての大きな古びた木造の建物でした。灯りは、そこの玄関灯だったのです。少年は、意を決して、建物の中へと入って行きました。もう身体はクタクタで、廊下の隅でもいいから、一晩休ませてもらいたいと思ったのです。
建物内には、背広姿の一人の若い男の人がいました。少年が事情を話すと、その男の人は、何とも不思議そうな顔をして、
「専門学校の試験を受けに来たって、何処の学校だね?」
と、訊くので、少年が、学校名を答えると、その男の人は突然笑い出し、
「その試験会場なら、この隣の校舎だよ。ここは、別の学校の試験会場だが、よかったら、泊まって行きたまえ。それより、きみ、何か食べる物を持っていないかな?ぼくは、今日は朝から何も口にしていないんだよ」
と、言います。
「・・・・・・・!」
少年は、あまりの偶然に驚きながらも、今朝家を出る時に母親から渡されたキビ餅を、その男の人に渡しました。男の人は、何度も礼を言いながら、そんな粗末な食べ物でも、うまいうまいと言って、頬張るので、少年もつられて、笑ってしまいました。
翌日、少年は、その建物の隣の校舎で、ちゃんと入学試験を受けることが出来、見事に、合格しました。そして、その専門学校卒業後は、明治大学(学部・現在の大学院に相当する)へ進学したそうです。
現在、少年は、八十一歳。この三月十日がやって来ると、その時の奇跡のような出来事を、改めて思い出すのだといいます。
**注釈**
昭和二十年当時の学制は、小学校六年、高等科二年、中野農商学校三年(この少年の場合)、専門学校三年(もしくは、大学の専門部三年)、大学(学部)三年というような進学システムになっていました。その上の進学を希望する者は、大学院というシステムではなく、修士(マスターズコース)、博士(ドクターズコース)と、進む訳です。または、小学校六年卒業ののち、中学校五年(女学校四年)、高等学校三年、大学(学部)という進学の方法もありました。その他にも、中学校卒業後(または、中学在学中)に、陸軍士官学校、海軍兵学校等への進学システムもありました。
では、引き続き、「炎の氷壁」を、お読み下さい。
昭和二十年三月十日の未明、アメリカ軍による、東京の住宅地への絨毯爆撃が行われました。三十二万発もの焼夷弾が投下され、約二時間半の間に十万人の市民が命を落とすという、未曾有の大惨事となりました。これが、いわゆる東京大空襲です。人々は、焼夷弾の炸裂による激しい炎がすさまじい勢いで街を舐めつくす最中を、必死で逃げまどい、熱さに耐えかねて次々に飛び込んだ隅田川は、溺死したおびただしい数の死体で、真っ黒になったそうです。

ところが、東京がそんな大空襲に見舞われているなどという情報は、長野県の片田舎までは、届きませんでした。その時代の全国的な情報収集手段といえばラジオと新聞ぐらいのものでしたので、そのラジオ放送も、すべての番組が軍の統制下に置かれていたため、大本営が情報管理を行っており、日本に不利と思われる放送は、まったく発表されなかったというのが現実のようです。それが証拠に、戦争中に名古屋で起きた大地震で、多くの学徒動員の子供たちが軍事工場の建物の下敷きになって亡くなったことも、決して報道はされませんでした。
そのような訳で、当時、中野農商学校(現在の中野実業高校・この四月からは中野立志館高校)の三年生だった一人の少年は、まさか、自分がこれから専門学校(現在の大学に相当する)の入学試験を受けに行こうとしている東京の地が、そのような有り様になっているなどとは夢にも思わずに、母親が手作りしてくれたキビ餅と蒸(ふ)かしたジャガイモを新聞紙でくるんだ、ささやかな弁当を持って、国鉄長野駅から東京行きの汽車に乗り込んだのでした。
しかし、その汽車も、大宮駅を過ぎた辺りから走り方がひどく遅くなり、やがて、赤羽駅に着いたところで、ついに停まってしまいました。汽車は、もうそこから先は走らないというので、乗客たちは、皆大きな荷物を抱えながら、不安そうに汽車を降りて行きます。少年も、同じように下車したのですが、何せ、初めて来た場所ですから、このようなところで降ろされてしまってはここからどうやって試験会場まで行けばいいのか見当もつきません。しかも、降り立った場所は、何故か見渡す限りの瓦礫の山が連なり、辺り一面が煤けたように黒ずんで、満足な建物一つない有様です。
それもそのはず、なんと、この日は、東京大空襲が行われた翌日だったのですから------。
「いったい、ここは何処なんだ?本当に、東京なのか・・・・?」
少年は、押しつぶされそうな不安に襲われました。でも、ここで躊躇している暇などありません。試験日は、明日なのです。何としてでも、試験会場までたどり着かなくては、期待をかけて自分を送り出してくれた家族に申し訳が立ちません。
辺りは、既に夕闇が覆い始め、寒さも身に沁みる早春の街を、瓦礫を踏み越えながら、歩き始めました。途中、何度か通りすがりの人に会場の住所を訊ねてはみましたが、皆自分自身のことで精一杯で、懇切丁寧になど教えてくれる人はいません。少年が、「もう、明日の試験には間に合わないかもしれないな・・・・」と、半ば諦め掛けた時のことです。はるか遠くの真っ暗な闇の中に、ポツンとほんの小さな灯りが一つ、光っているのが見えました。少年には、その赤い小さな灯りが、何故か、唯一の希望の光のように思えたのです。
「よし、あの灯りを目指して、行くだけ行ってみよう。着いた所が何処でも、それで諦めがつくかもしれない」
少年は、そう気持ちに言い聞かせ、それからは、わき目も振らずにただまっすぐ、その灯り一つを頼りに歩いて行ったのでした。何キロ歩いたのか、足が棒のようになった頃、ようやく、その灯りのある所へとたどり着くと、そこは、二階建ての大きな古びた木造の建物でした。灯りは、そこの玄関灯だったのです。少年は、意を決して、建物の中へと入って行きました。もう身体はクタクタで、廊下の隅でもいいから、一晩休ませてもらいたいと思ったのです。
建物内には、背広姿の一人の若い男の人がいました。少年が事情を話すと、その男の人は、何とも不思議そうな顔をして、
「専門学校の試験を受けに来たって、何処の学校だね?」
と、訊くので、少年が、学校名を答えると、その男の人は突然笑い出し、
「その試験会場なら、この隣の校舎だよ。ここは、別の学校の試験会場だが、よかったら、泊まって行きたまえ。それより、きみ、何か食べる物を持っていないかな?ぼくは、今日は朝から何も口にしていないんだよ」
と、言います。
「・・・・・・・!」
少年は、あまりの偶然に驚きながらも、今朝家を出る時に母親から渡されたキビ餅を、その男の人に渡しました。男の人は、何度も礼を言いながら、そんな粗末な食べ物でも、うまいうまいと言って、頬張るので、少年もつられて、笑ってしまいました。
翌日、少年は、その建物の隣の校舎で、ちゃんと入学試験を受けることが出来、見事に、合格しました。そして、その専門学校卒業後は、明治大学(学部・現在の大学院に相当する)へ進学したそうです。
現在、少年は、八十一歳。この三月十日がやって来ると、その時の奇跡のような出来事を、改めて思い出すのだといいます。
**注釈**
昭和二十年当時の学制は、小学校六年、高等科二年、中野農商学校三年(この少年の場合)、専門学校三年(もしくは、大学の専門部三年)、大学(学部)三年というような進学システムになっていました。その上の進学を希望する者は、大学院というシステムではなく、修士(マスターズコース)、博士(ドクターズコース)と、進む訳です。または、小学校六年卒業ののち、中学校五年(女学校四年)、高等学校三年、大学(学部)という進学の方法もありました。その他にも、中学校卒業後(または、中学在学中)に、陸軍士官学校、海軍兵学校等への進学システムもありました。
では、引き続き、「炎の氷壁」を、お読み下さい。
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑳
2009年03月09日
時任と雄介の二人が、横手山スカイパークスキー場の監視塔内にあるスキーパトロール本部へ急遽取って返すと、既に室内には、志賀高原観光開発索道協会から戻っていた高木三郎主任を前に、神崎綾子パトロール員や可児周平パトロール員他五名の同僚パトロール員たちが、指令を受けている最中であった。室内へ飛び込むなり、息せき切りながらも、時任は、高木主任に向って早口にことの詳細を訊ねた。
「行方不明者の捜索要請が来たって、いったい誰がいなくなったんですか?」
すると、高木主任は、真剣そのものといった表情で、
「実は、おれも、索道協会にいた時に神崎君から連絡をもらって、急いで帰って来たんだが、遭対協(志賀高原山岳遭難対策連絡協議会)からの出動要請なんだよ」
と、言う。時任は、驚き、語気を強める。
「遭対協-------?山岳遭難ですか?」
「いや、そいつが、まだよく判らんのだが、昨日の午前十時頃、女性が一人、横手山ヘ行くと言って宿泊しているホテルを出たきり、未だに戻って来ていないそうなんだよ。これまでまったく連絡がなく、万が一のことを考慮したホテル側が、遭対協へ捜索願を出したんだ。現在、地元の警察署も、捜索に加わる体制を組んでいるところだが、こちらへも、捜索に協力して欲しいとの依頼が入ったという訳だ」
「その行方が判らないという女性は、スキー客なんですか?名前は、何と------?」
雄介が質問した直後、今度は、傍らから神崎が言葉を挟んで来た。
「それが、例のスキー客のリフト落下事故を通報してくれた、熊の湯温泉スキー場のスキーインストラクターの黒鳥真琴という女性なのよ」
「黒鳥真琴ですって!?」
雄介は、仰天し、言葉の語尾が思わず裏返った。と、同時に、すかさず時任の表情へと目をやる。案の定、時任もかなりの驚きを隠せぬ様子で、端整な横顔が愕然と強張っているのが判る。高木主任は、そんな時任の顔色に一抹の不審を抱いたものか、それとなく探りを入れるような目線で彼を見詰めると、
「------時任君、何か、行方不明者のことで心当たりでもあるのかね?」
と、訊ねる。時任は、ほんの少し間を取ったのちに、決心したように重い口を開いた。
「実は、昨日の午後の熊の湯温泉スキー場でのパトロール勤務が決まってから、黒鳥真琴さんに連絡を入れ、彼女とスキー場内のレストハウスで会う約束をしていました」
「何だって?-------それは、どういうことかね?」
「すみません。理由は、今は、勘弁して下さい。でも、黒鳥真琴さんは、現れませんでした」
時任は、如何にも申し訳なさそうに俯きがちに答える。そして、その時のことを詳しく思い出そうとする口調で、
「おれが、黒鳥真琴さんに携帯電話で連絡を取った時は、彼女は、おれと会うことを承諾してくれました。その時間は、午前十一時をまわった頃でした」
「午前十一時・・・・。黒鳥真琴さんが熊の湯温泉のホテルを出てから約一時間後か・・・・」
神崎が、思案顔で唸るように呟く。すると、それを聞いていた可児も、思わず咳き込み加減にたたみかける。
「時任さん、その時、黒鳥真琴は、何処にいると言っていました!?横手山に向かっているというようなことは、言っていませんでしたか?」
しかし、時任は、苦痛の表情を緩めることなく、小さく頭(かぶり)を振り、
「すまない。何も聞いていないんだ・・・・」
「-------そうですか。残念だなァ」
可児は、あからさまに落胆の色を口吻(こうふん)に宿す。それを聞いた雄介は、時任が抱えている辛苦のことなど何も知らないくせに、訊いたふうな口を叩くなよと、胸中に吐き捨ててから、その場に漂うぎこちない怪訝な空気を払拭するべく、わざと声を張った。
「でも、黒鳥真琴が、昨日の午前十一時までは元気でいたということは確かな訳ですよね?だいいち、彼女は、スキーのインストラクターまでしている女性ですよ。冬山の危険については、誰よりも明解に認識しているはずじゃァないですか。仕事に嫌気がさして、断わりもなく勝手に志賀高原(やま)を下りたということは考えられないんですか?」
それに対しては、神崎が、答える。
「それはないと思う。だって、彼女の所持品は、彼女が借りていたホテルの部屋に、まだすべて残されたままだというから-----。若い女性が衣類やアクセサリー、化粧道具の類を置きっぱなしにして、姿を消すなんてことは、普通考えられないことだからね」
「そうなんですか・・・・・」
神崎の説明に、雄介がやおら沈吟したのを待っていたかの如く、高木主任が、号令をかけるように言い放った。
「とにかく、我々は、この横手山スカイパークスキー場を中心とした横手山から渋峠(しぶとうげ)にかけての山岳コース一帯に行方不明者の捜索網を広げる。ただし、ガラン沢方面への捜索は危険が伴うので、遭対協との連携を諮ったうえでの実行とする。よって、くれぐれも独自の判断による軽挙は慎むこと。それじゃァ、ゲレンデパトロールに残る者以外は、全員捜索にあたってくれ。日没までには、もうあまり時間がないからな。効率的に頼むぞ。以上だ」
「はいっ!」
歯切れよく返事をした各パトロール員たちは、一斉にパトロール本部を飛び出して行った。時任と雄介も、彼らに続いて部屋を出て行こうとするのを、背後から、高木主任が呼び止める。
「時任君、きみと黒鳥真琴さんとの間に何があるかは知らんが、この捜索に、個人的心情は持ち込まんでくれよ。それだけは、念を押しておく」
「判っています」
時任は、きっぱりと答えると、
「雄介、行くぞ!」
そう一声発して、雄介を促しつつ、行方不明者の捜索活動へと出動した。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
ririchiさんのブログの記事「七人の馬鹿」を読ませて頂いて、一つ思い付きました。「介護労働年金」という物です。これからの少子高齢化社会は、団塊の世代が高齢化してくることで、ますます年金の給付額にも影響が出て来るといいますよね。「こんなことでは、自分が年金をもらえる年齢がドンドン先送りされて、きっと七十歳以上にならないともらえないようになるんじゃないだろうか?」とか、「今の給付水準を維持するなんて、どう考えても無理だろうから、たぶん、かなりもらえる金額は減らされてしまうんだろうなァ」と、考えれば考えるほど悲観的な未来像になりそうです。そうなれば、年金を支払おうなんて思う人も減少することは当然で、将来の老齢化社会の困窮は目に見えています。
そこで、心配なのは、高齢になった時に、もし介護が必要となったら、何処で誰に面倒を見てもらうかということです。頼りの年金がほとんどもらえないとなれば、地方自治体が行っている介護サービスも満足に受けられないという可能性も・・・・。では、お金はないけれど、体力ならあるという若いうちに、自分が老後受けるであろうと思われる介護のための蓄えをしてしまおうというのが、この「介護労働年金」です。老人福祉施設やグループホーム、病院、もしくは訪問介護など、自分の家族以外の人の介護をすると、その分が、今度自分が年を取った時に介護サービスとして受けられるというシステム。もちろん、年金との併有受給も可能。
こういう、いわゆる労働貯金のようなものがあれば、無報酬でも、皆さん率先して介護現場へ出向くのではないでしょうか?かつて、聞いた話では、ドイツには、徴兵制度のようなものががあるのだそうですが、兵隊になるか、それとも介護現場で働くか、二者選一が出来るのだとか。------ただ、この、我が「介護労働年金」構想にも、穴はありまして、このシステムを利用したい人たちのための育成費用をどこから捻出するのかとか、自分が今度面倒を見てもらう段階になったら、少子化により、介護する側の若者たちが減ってしまい、自分の番まで回ってこないということもあり得る訳で・・・・。まあ、所詮は素人の戯言ですから、あまり現実味はない話ではありますけれど・・・・。(^_^;)
「行方不明者の捜索要請が来たって、いったい誰がいなくなったんですか?」
すると、高木主任は、真剣そのものといった表情で、
「実は、おれも、索道協会にいた時に神崎君から連絡をもらって、急いで帰って来たんだが、遭対協(志賀高原山岳遭難対策連絡協議会)からの出動要請なんだよ」

と、言う。時任は、驚き、語気を強める。
「遭対協-------?山岳遭難ですか?」
「いや、そいつが、まだよく判らんのだが、昨日の午前十時頃、女性が一人、横手山ヘ行くと言って宿泊しているホテルを出たきり、未だに戻って来ていないそうなんだよ。これまでまったく連絡がなく、万が一のことを考慮したホテル側が、遭対協へ捜索願を出したんだ。現在、地元の警察署も、捜索に加わる体制を組んでいるところだが、こちらへも、捜索に協力して欲しいとの依頼が入ったという訳だ」
「その行方が判らないという女性は、スキー客なんですか?名前は、何と------?」
雄介が質問した直後、今度は、傍らから神崎が言葉を挟んで来た。
「それが、例のスキー客のリフト落下事故を通報してくれた、熊の湯温泉スキー場のスキーインストラクターの黒鳥真琴という女性なのよ」
「黒鳥真琴ですって!?」
雄介は、仰天し、言葉の語尾が思わず裏返った。と、同時に、すかさず時任の表情へと目をやる。案の定、時任もかなりの驚きを隠せぬ様子で、端整な横顔が愕然と強張っているのが判る。高木主任は、そんな時任の顔色に一抹の不審を抱いたものか、それとなく探りを入れるような目線で彼を見詰めると、
「------時任君、何か、行方不明者のことで心当たりでもあるのかね?」
と、訊ねる。時任は、ほんの少し間を取ったのちに、決心したように重い口を開いた。
「実は、昨日の午後の熊の湯温泉スキー場でのパトロール勤務が決まってから、黒鳥真琴さんに連絡を入れ、彼女とスキー場内のレストハウスで会う約束をしていました」
「何だって?-------それは、どういうことかね?」
「すみません。理由は、今は、勘弁して下さい。でも、黒鳥真琴さんは、現れませんでした」
時任は、如何にも申し訳なさそうに俯きがちに答える。そして、その時のことを詳しく思い出そうとする口調で、
「おれが、黒鳥真琴さんに携帯電話で連絡を取った時は、彼女は、おれと会うことを承諾してくれました。その時間は、午前十一時をまわった頃でした」
「午前十一時・・・・。黒鳥真琴さんが熊の湯温泉のホテルを出てから約一時間後か・・・・」
神崎が、思案顔で唸るように呟く。すると、それを聞いていた可児も、思わず咳き込み加減にたたみかける。
「時任さん、その時、黒鳥真琴は、何処にいると言っていました!?横手山に向かっているというようなことは、言っていませんでしたか?」
しかし、時任は、苦痛の表情を緩めることなく、小さく頭(かぶり)を振り、
「すまない。何も聞いていないんだ・・・・」
「-------そうですか。残念だなァ」
可児は、あからさまに落胆の色を口吻(こうふん)に宿す。それを聞いた雄介は、時任が抱えている辛苦のことなど何も知らないくせに、訊いたふうな口を叩くなよと、胸中に吐き捨ててから、その場に漂うぎこちない怪訝な空気を払拭するべく、わざと声を張った。
「でも、黒鳥真琴が、昨日の午前十一時までは元気でいたということは確かな訳ですよね?だいいち、彼女は、スキーのインストラクターまでしている女性ですよ。冬山の危険については、誰よりも明解に認識しているはずじゃァないですか。仕事に嫌気がさして、断わりもなく勝手に志賀高原(やま)を下りたということは考えられないんですか?」
それに対しては、神崎が、答える。
「それはないと思う。だって、彼女の所持品は、彼女が借りていたホテルの部屋に、まだすべて残されたままだというから-----。若い女性が衣類やアクセサリー、化粧道具の類を置きっぱなしにして、姿を消すなんてことは、普通考えられないことだからね」
「そうなんですか・・・・・」
神崎の説明に、雄介がやおら沈吟したのを待っていたかの如く、高木主任が、号令をかけるように言い放った。
「とにかく、我々は、この横手山スカイパークスキー場を中心とした横手山から渋峠(しぶとうげ)にかけての山岳コース一帯に行方不明者の捜索網を広げる。ただし、ガラン沢方面への捜索は危険が伴うので、遭対協との連携を諮ったうえでの実行とする。よって、くれぐれも独自の判断による軽挙は慎むこと。それじゃァ、ゲレンデパトロールに残る者以外は、全員捜索にあたってくれ。日没までには、もうあまり時間がないからな。効率的に頼むぞ。以上だ」
「はいっ!」
歯切れよく返事をした各パトロール員たちは、一斉にパトロール本部を飛び出して行った。時任と雄介も、彼らに続いて部屋を出て行こうとするのを、背後から、高木主任が呼び止める。
「時任君、きみと黒鳥真琴さんとの間に何があるかは知らんが、この捜索に、個人的心情は持ち込まんでくれよ。それだけは、念を押しておく」
「判っています」
時任は、きっぱりと答えると、
「雄介、行くぞ!」
そう一声発して、雄介を促しつつ、行方不明者の捜索活動へと出動した。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
ririchiさんのブログの記事「七人の馬鹿」を読ませて頂いて、一つ思い付きました。「介護労働年金」という物です。これからの少子高齢化社会は、団塊の世代が高齢化してくることで、ますます年金の給付額にも影響が出て来るといいますよね。「こんなことでは、自分が年金をもらえる年齢がドンドン先送りされて、きっと七十歳以上にならないともらえないようになるんじゃないだろうか?」とか、「今の給付水準を維持するなんて、どう考えても無理だろうから、たぶん、かなりもらえる金額は減らされてしまうんだろうなァ」と、考えれば考えるほど悲観的な未来像になりそうです。そうなれば、年金を支払おうなんて思う人も減少することは当然で、将来の老齢化社会の困窮は目に見えています。
そこで、心配なのは、高齢になった時に、もし介護が必要となったら、何処で誰に面倒を見てもらうかということです。頼りの年金がほとんどもらえないとなれば、地方自治体が行っている介護サービスも満足に受けられないという可能性も・・・・。では、お金はないけれど、体力ならあるという若いうちに、自分が老後受けるであろうと思われる介護のための蓄えをしてしまおうというのが、この「介護労働年金」です。老人福祉施設やグループホーム、病院、もしくは訪問介護など、自分の家族以外の人の介護をすると、その分が、今度自分が年を取った時に介護サービスとして受けられるというシステム。もちろん、年金との併有受給も可能。
こういう、いわゆる労働貯金のようなものがあれば、無報酬でも、皆さん率先して介護現場へ出向くのではないでしょうか?かつて、聞いた話では、ドイツには、徴兵制度のようなものががあるのだそうですが、兵隊になるか、それとも介護現場で働くか、二者選一が出来るのだとか。------ただ、この、我が「介護労働年金」構想にも、穴はありまして、このシステムを利用したい人たちのための育成費用をどこから捻出するのかとか、自分が今度面倒を見てもらう段階になったら、少子化により、介護する側の若者たちが減ってしまい、自分の番まで回ってこないということもあり得る訳で・・・・。まあ、所詮は素人の戯言ですから、あまり現実味はない話ではありますけれど・・・・。(^_^;)
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑲
2009年03月08日
雄介に、そんな尊敬と羨望の眼差しを向けられつつも、時任は、腰に巻いたホルダーベルトから携帯無線通話機(トランシーバー)を取り出すと、横手山スカイパークスキー場のスキーパトロール本部へ、横手山から渋峠スキー場へ向かう山岳林間コースで、病人が出た旨の連絡を入れる。
「-------至急、応援のパトロール員をよこして下さい。患者の容態は現在のところ安定しているものの、自力での下山は困難と思います。一応、病院への搬送が必要と判断しますので、救急車の手配をお願いします」
時任の応援要請から約十分後、近くを巡回していた別の同僚スキーパトロール員二名が現場へと到着し、その若い男性スキーヤーに付き添う形で、麓のスキー場へと滑り去って行った。
雄介が、ようやくそこで、安堵の胸を撫で下ろすのを見計らったかのように、時任が、やおら口を開いた。
「ところで、今朝の話の続き何だが-------」
そら、来たと、雄介は思わず内心に身構える。そのことを切り出されるのは、時任とのパトロールに同行した以上、先刻から覚悟はしていたが、いざ言及されてみると、昨夜見たあのおぞましいとも思える光景が、フラッシュバックの如く脳裏によみがえり、それでも、時任のことを信頼したいと思う率直な気持ちとが複雑に入り乱れる雄介の頭の中は、慌ただしく混乱した。そうはいっても、やはり、時任に隠し事をしながらのパトロール勤務は、何処か後ろめたさも感じてはいる。
そこで雄介は、自分の心情や考にえは一切言及することなく、昨夜その目で見、耳で聞いたことだけを、そのまま率直に時任へ伝えようと、決心した。そして、気持の平静を装いつつ、あくまでも淡々と一部始終を語り終えたところで、
「-------時任さんに対する野田さんの気持ちは、おれたち第三者には理解し難いほど深いものがあるようですから、おれのような部外者があなたのそばにいることは、あなた方二人の関係にとってあまり良い影響を及ぼすとは思えない。だから、おれは、横手山ロッジを出ることにしたんです。でも、パトロールの仕事は、これまで通りあなたと一緒にやらせて頂きますから、その点は心配しないで下さい。おれ、この仕事、嫌いじゃァありませんから」
と、努めてさばさばとした口調で、もはや、懸念には及ばないということを精一杯アピールした。だが、雄介の期待とは裏腹に、その話を聞いた時任の顔は、たちまち暗渋に曇ると、固く唇を噛み締めたまま俯いてしまった。そのまま、しばらく沈黙していた時任だったが、ようやく気持ちの整理が付いたものか、ゆっくりと雄介の方ヘ頭(こうべ)を巡らすと、静かな声で言った。
「そういうことだったのか・・・・。不快な思いをさせてしまったな。昨夜(ゆうべ)、そんなことがあったなんて、全く気付かずに眠っていた。野田が言っていたという言葉の意味は、おれにもどういうことなのかよく判らないが、たぶん、お前にも話した高校三年の時に起きた山での事故のことが関係しているのだと思う。高校三年の夏休みに、おれは野田と二人で、志賀高原の岩菅山(いわすげやま)への登山をしたのだが、その際野田が左脚を負傷し、おれが、彼を背負って下山したことを言っていたのだと思う。しかし、それにしても、そのことと、『悪魔に魂を売リ渡す』などという言葉が、どうして結びつくのか・・・・?」
そう言うと、時任は、またもや考え込んでしまった。雄介は、そんな時任に、
「もう、いいですよ。今回のことは、おれが勝手に臍(へそ)を曲げちまったことですから、考えてみれば、時任さんにも野田さんにも非がある訳じゃァない。要するに、おれの我儘(わがまま)なんです。余計な気を遣わせてしまって、詫びなきゃならないのは、むしろおれの方なんですよ」
と、頭を下げた。すると、時任は、小さく首を横に振り、いいや、お前の反応は、ごくまともだよと、付け加える。そして、
「しかし、誤解しないで欲しい。おれにとっての野田は、確かに親友ではあるが、それ以上の特別な存在という訳ではないし、もしも、野田(あいつ)が、お前に何か理不尽な態度をとったというのなら、おれは、それを許すつもりもない」
「理不尽な態度なんて--------、そんなことはありませんよ」
雄介は、慌てて否定してから、大仰なほどに明るい声で、
「------もう、この話は、よしにしましょう!」
弾けるように言い放った時であった、時任の腰のホルダーに納められていた携帯無線機が、緊急連絡を入れて来た。時任がこれに応じると、神崎パトロール員の声で、今すぐスキーパトロール本部まで戻って来て欲しいと言う。時任が、何か緊急事態でも起きたのかと訊ね返すと、神崎からの返答は、横手山管区内で、行方不明者捜索要請の事案が発生したので、非常呼集をかけたというものであった。
「了解。即時、帰塔します」
時任は、応答すると、雄介とともにパトロール本部への帰途に就いた。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
少し遠くのスーパーへ買い物に行く時って、汚れてもいいものなんだけれど、それなりに小奇麗な格好をして行く方がいいかな?なんて、毎度のことながら、ちょっと悩みます。特に、こんな春先は、もうオーバーの類ではうっとおしいし、そうかといって、セーター一枚では、何だかうすら寒いし、それではジャケットでも羽織ればとも思うのですが、いつもの決まり切った格好になってしまい何とも芸がありません。そこで、クローゼット(こう言えば格好はいいが、ほとんどタンスです)の中を捜したところ、手頃なオレンジ系のベストを発見。「よし、これで決まり!」と、自家用車(十年以上も乗っているボロい軽自動車)でスーパーへ。
一通り、スーパーのかごに商品を入れ、さて、レジへ。すると、不思議なことに、そのレジ係のお姉さんがやたらに親切なんです。愛想笑いまで浮かべて、代金を払った後に、一言、「本当に、ご苦労さまですねェ。がんばってくださいね」なんて言葉までかけて下さって。「・・・・・????」何なんだ?この異様な優しさは------?しかも、いったい何をがんばればいいんだ?と、首を傾げながら、スーパーの外へ。そこで、見た光景は、下水管の敷設工事をするおじさんたちの勇姿。その人たちが着ている職人用のワーキングベストが、わたしの着ているものとよく似ていた訳で。どうやら、スーパーのレジ係のお姉さんは、わたしもその工事担当者の一人だと勘違いをしたようです。そうか、それじゃァ、次はヘルメットでも被って行ったらもう完璧!今度は、どんな親切をしてくれるのかな? (((^-^)))ワクワク・・・(この書き方、まるなすさんの受け売りです)

「-------至急、応援のパトロール員をよこして下さい。患者の容態は現在のところ安定しているものの、自力での下山は困難と思います。一応、病院への搬送が必要と判断しますので、救急車の手配をお願いします」
時任の応援要請から約十分後、近くを巡回していた別の同僚スキーパトロール員二名が現場へと到着し、その若い男性スキーヤーに付き添う形で、麓のスキー場へと滑り去って行った。
雄介が、ようやくそこで、安堵の胸を撫で下ろすのを見計らったかのように、時任が、やおら口を開いた。
「ところで、今朝の話の続き何だが-------」
そら、来たと、雄介は思わず内心に身構える。そのことを切り出されるのは、時任とのパトロールに同行した以上、先刻から覚悟はしていたが、いざ言及されてみると、昨夜見たあのおぞましいとも思える光景が、フラッシュバックの如く脳裏によみがえり、それでも、時任のことを信頼したいと思う率直な気持ちとが複雑に入り乱れる雄介の頭の中は、慌ただしく混乱した。そうはいっても、やはり、時任に隠し事をしながらのパトロール勤務は、何処か後ろめたさも感じてはいる。
そこで雄介は、自分の心情や考にえは一切言及することなく、昨夜その目で見、耳で聞いたことだけを、そのまま率直に時任へ伝えようと、決心した。そして、気持の平静を装いつつ、あくまでも淡々と一部始終を語り終えたところで、
「-------時任さんに対する野田さんの気持ちは、おれたち第三者には理解し難いほど深いものがあるようですから、おれのような部外者があなたのそばにいることは、あなた方二人の関係にとってあまり良い影響を及ぼすとは思えない。だから、おれは、横手山ロッジを出ることにしたんです。でも、パトロールの仕事は、これまで通りあなたと一緒にやらせて頂きますから、その点は心配しないで下さい。おれ、この仕事、嫌いじゃァありませんから」
と、努めてさばさばとした口調で、もはや、懸念には及ばないということを精一杯アピールした。だが、雄介の期待とは裏腹に、その話を聞いた時任の顔は、たちまち暗渋に曇ると、固く唇を噛み締めたまま俯いてしまった。そのまま、しばらく沈黙していた時任だったが、ようやく気持ちの整理が付いたものか、ゆっくりと雄介の方ヘ頭(こうべ)を巡らすと、静かな声で言った。
「そういうことだったのか・・・・。不快な思いをさせてしまったな。昨夜(ゆうべ)、そんなことがあったなんて、全く気付かずに眠っていた。野田が言っていたという言葉の意味は、おれにもどういうことなのかよく判らないが、たぶん、お前にも話した高校三年の時に起きた山での事故のことが関係しているのだと思う。高校三年の夏休みに、おれは野田と二人で、志賀高原の岩菅山(いわすげやま)への登山をしたのだが、その際野田が左脚を負傷し、おれが、彼を背負って下山したことを言っていたのだと思う。しかし、それにしても、そのことと、『悪魔に魂を売リ渡す』などという言葉が、どうして結びつくのか・・・・?」
そう言うと、時任は、またもや考え込んでしまった。雄介は、そんな時任に、
「もう、いいですよ。今回のことは、おれが勝手に臍(へそ)を曲げちまったことですから、考えてみれば、時任さんにも野田さんにも非がある訳じゃァない。要するに、おれの我儘(わがまま)なんです。余計な気を遣わせてしまって、詫びなきゃならないのは、むしろおれの方なんですよ」
と、頭を下げた。すると、時任は、小さく首を横に振り、いいや、お前の反応は、ごくまともだよと、付け加える。そして、
「しかし、誤解しないで欲しい。おれにとっての野田は、確かに親友ではあるが、それ以上の特別な存在という訳ではないし、もしも、野田(あいつ)が、お前に何か理不尽な態度をとったというのなら、おれは、それを許すつもりもない」
「理不尽な態度なんて--------、そんなことはありませんよ」
雄介は、慌てて否定してから、大仰なほどに明るい声で、
「------もう、この話は、よしにしましょう!」
弾けるように言い放った時であった、時任の腰のホルダーに納められていた携帯無線機が、緊急連絡を入れて来た。時任がこれに応じると、神崎パトロール員の声で、今すぐスキーパトロール本部まで戻って来て欲しいと言う。時任が、何か緊急事態でも起きたのかと訊ね返すと、神崎からの返答は、横手山管区内で、行方不明者捜索要請の事案が発生したので、非常呼集をかけたというものであった。
「了解。即時、帰塔します」
時任は、応答すると、雄介とともにパトロール本部への帰途に就いた。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
少し遠くのスーパーへ買い物に行く時って、汚れてもいいものなんだけれど、それなりに小奇麗な格好をして行く方がいいかな?なんて、毎度のことながら、ちょっと悩みます。特に、こんな春先は、もうオーバーの類ではうっとおしいし、そうかといって、セーター一枚では、何だかうすら寒いし、それではジャケットでも羽織ればとも思うのですが、いつもの決まり切った格好になってしまい何とも芸がありません。そこで、クローゼット(こう言えば格好はいいが、ほとんどタンスです)の中を捜したところ、手頃なオレンジ系のベストを発見。「よし、これで決まり!」と、自家用車(十年以上も乗っているボロい軽自動車)でスーパーへ。
一通り、スーパーのかごに商品を入れ、さて、レジへ。すると、不思議なことに、そのレジ係のお姉さんがやたらに親切なんです。愛想笑いまで浮かべて、代金を払った後に、一言、「本当に、ご苦労さまですねェ。がんばってくださいね」なんて言葉までかけて下さって。「・・・・・????」何なんだ?この異様な優しさは------?しかも、いったい何をがんばればいいんだ?と、首を傾げながら、スーパーの外へ。そこで、見た光景は、下水管の敷設工事をするおじさんたちの勇姿。その人たちが着ている職人用のワーキングベストが、わたしの着ているものとよく似ていた訳で。どうやら、スーパーのレジ係のお姉さんは、わたしもその工事担当者の一人だと勘違いをしたようです。そうか、それじゃァ、次はヘルメットでも被って行ったらもう完璧!今度は、どんな親切をしてくれるのかな? (((^-^)))ワクワク・・・(この書き方、まるなすさんの受け売りです)
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑱
2009年03月07日
やがて、先刻、近くのホテルで出た救急患者の対応に出向いていた時任が、パトロール本部へと戻って来た。患者の様子はどうだったのかと、すぐさま神崎が訊ねると、時任は、パトロール用のスキーウェアを脱ぎ、コートかけに無造作に引っ掛けてから、
「患者は、ホテルの宿泊客で、おそらく急性の虫垂炎だな。救急車を呼ぶよりも、直に病院まで行った方が早く着くだろうから、ホテルの自動車(くるま)で運んでもらったよ。手術が必要だろうから、病院の方へは、おれから連絡を入れておいた」
と、報告する。神崎は、少しほっとした声で、
「そう、じゃァ何とか間に合うのね。よかった。こういう時、あなたのようなお医者がパトロール員にいるというのは、助かるわよね」
彼女には珍しく、時任の活動ぶりを好評価する。時任は、ちょっと、照れくさそうな微苦笑を片頬に刻むと、自分用の事務机に向い、業務報告日誌を開いて今し方の急患搬送についての詳細を書き込んだ。
その様子を横目で見ていた雄介は、何とも居心地の悪さを覚えて、たまらずに部屋から出て行こうと腰を上げる。と、すかざず、それに気付いた時任が、雄介を呼び止めた。
「待てよ、雄介!逃げる気か?」
そう言うと、業務報告日誌をパタンと、閉じ、おもむろに椅子から立ち上がるや、雄介の方へと歩み寄って来た。そして、その逞しい長躯を、雄介の前に立ちはだからせる。雄介は、その威圧感に少々怯え腰になりながらも、表情はあくまで冷静さを装い、あえてまっすぐに相手を見返す。
「逃げるなんて、そんなことはしませんよ。ゲレンデパトロールに出るだけです」
「単独行動は、許可出来ない」
「何故です?可児パトロール員だって、単独巡回をしているじゃないですか。若い彼が出来るのに、どうして、おれはいけないんですか?」
「可児は、若いが、スキーパトロール員としてのキャリアは豊富な男だ。お前とは違う」
時任は、そう言うと、雄介の意思には関係なく、これから自分は渋峠(しぶとうげ)に通じる山岳コースのパトロールに行くから、お前も同行しろと、恫喝に近い強引さで従うように要求して来た。ここまで言われると、雄介もそれ以上の叛意(はんい)は示せずに、渋々ながら言いなりになるしかなかった。
横手山スカイパークスキー場から渋峠スキー場にかけての、いわゆる横手山山岳林間スキーコースは、雪質も比較的穏やかな緩斜面が多く、ツアースキーを楽しむ中級者以上のスキー技術を要するスキーヤーたちには、人気のゲレンデでもある。ハイマツやオオシラビソ、シラビソなどの針葉林帯に囲まれたクマザサの生い茂る脇道を縫うように貫く雪面は、難所と称せられる所こそないものの、約五キロもの長距離を結ぶ、それなりに変化に富んだ造りとなっていた。
雄介と時任の二人は、長距離用のパトロール装備として、食糧や水、その他緊急時に必要とされる様々な用具の入ったバックパックを背負い、この山スキーコースの巡回にあたる。好天に恵まれた志賀高原の自然は、目に沁みるような鮮明な輪郭を伴って空の青と雪の白という素晴らしいコントラストを配し、次々に眼前へと迫って来る。いつもであれば、そんな凛然たる空気の中を滑走する時は、正に世界を我が物にしたような高揚感に包まれるはずの雄介の気持ちは、しかしながら、今日は、少しも浮き立たない。ただ、黙って、ひたすら時任の背中を追い掛けているだけの味気ない気分であった。
そんな時、前を走る時任のスキーが、やおらスピードを緩めた。そして、ゆっくりとその場に立ち止まると、それに倣(なら)う雄介に、
「-----あの木の下に、誰か倒れている」
と、告げる。雄介が、時任の指差す方角に目を凝らすと、確かにスキーコース脇に立つ針葉樹の根元あたりに、人影と思しき物が、横たわっているのを発見した。二人は、急いでそちらへと滑り寄る。そこに倒れていたのは、一人の若い男性スキーヤーであった。男性の顔面は血の気が失せて蒼白く、白目をむき、意識も薄れている様子で、全身が硬直状態である。
時任は、急いでスキー板を脱ぐと、男性のそばへ駆け付け、自らのサングラスを外してから、その身体を抱え起こすと、大声で呼びかけた。
「きみ、しっかりしなさい!おれの声が聞こえるか!?」
かろうじて、男性が肩を喘ぐように揺するのを見た時任は、雄介に言う。
「お前のバックパックの中に、紙袋が入っているから、そいつを出せ」
訳が判らないが、言われるがままに急いで紙袋を取り出した雄介が、それを時任に手渡すと、彼は、その紙袋の口を開き、それを男性スキーヤーの鼻と口を覆うように押しあてた。
「心配いらないから、安心して、ゆっくり深呼吸するんだ。大丈夫。すぐに楽になるから------」
時任の冷静な言葉で、男性は、呼吸を取り戻すと、ようやく意識もしっかりとして来た。
「いったい、どうしたんですか・・・・?」
雄介が、やや遠慮気味に訊ねると、時任は、男性の身体を腕で支えながら、穏やかな声で答えた。
「過換気症候群だよ。身体は二酸化炭素不足を起こしているのに、酸素欠乏を起こしていると勘違いすることで、酸素を取り込もと激しく呼吸をしてしまい、更に血中の二酸化炭素が体外へ出てしまう症状だ。でも、こうやって、また自分の吐き出した息をもう一度吸い込むことで、また、二酸化炭素が体内へ吸収されて、楽になる。精神的な不安定が原因で起きる一種の呼吸困難なんだ」
「そんな病気があるんですか・・・・・」
雄介は、感心すると同時に、やはり、この時任(ひと)におれは、どうしても勝てそうにはないな------と、心底思い知らされた。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
奇妙な感覚というものは世の中にさまざまありますが、手術の時の全身麻酔というものも、あれは不思議な感覚の物ですね。手術の前日の麻酔科の先生の話によると、「------つまり、ちよみさんの時間がそこで止まる訳です」とのこと。時間が止まるとは、どういうことなのか?と、思っていたのですが、まさしくその通り。ストレッチャーで手術室まで連れて行かれて、頭にビニールのキャップを被せられ、(ふ~ん、手術室ってこんな風になっているんだなァ・・・)なんて思っていた瞬間、そこで、ストンと、記憶がなくなってしまうのです。たぶん、点滴用の管から、麻酔薬が入ったのではないかと思うのですが・・・・?わたしの場合は、よくテレビドラマで見るような、酸素マスクのようなものを顔に当てて、「はい、ふか~く息を吸って~」なんてことはなかった訳でして------。で、夢の中で、テレビのクイズ番組を観ていまして、司会のタレントが、「はい!正解は-------」なんて言った直後に、誰かに(おそらく看護師さんに)名前を呼ばれて、目が覚めたのです。
その間、確かに、時間が止まっていました。感覚としては、一分も経ってはいないように思えたのですから。全身麻酔、恐るべし!でも、あんな体験は、そう何度もしたいものではありませんねェ。(~_~;)
「今日の一枚」------『諸士取調役監察』
「患者は、ホテルの宿泊客で、おそらく急性の虫垂炎だな。救急車を呼ぶよりも、直に病院まで行った方が早く着くだろうから、ホテルの自動車(くるま)で運んでもらったよ。手術が必要だろうから、病院の方へは、おれから連絡を入れておいた」
と、報告する。神崎は、少しほっとした声で、
「そう、じゃァ何とか間に合うのね。よかった。こういう時、あなたのようなお医者がパトロール員にいるというのは、助かるわよね」
彼女には珍しく、時任の活動ぶりを好評価する。時任は、ちょっと、照れくさそうな微苦笑を片頬に刻むと、自分用の事務机に向い、業務報告日誌を開いて今し方の急患搬送についての詳細を書き込んだ。
その様子を横目で見ていた雄介は、何とも居心地の悪さを覚えて、たまらずに部屋から出て行こうと腰を上げる。と、すかざず、それに気付いた時任が、雄介を呼び止めた。
「待てよ、雄介!逃げる気か?」
そう言うと、業務報告日誌をパタンと、閉じ、おもむろに椅子から立ち上がるや、雄介の方へと歩み寄って来た。そして、その逞しい長躯を、雄介の前に立ちはだからせる。雄介は、その威圧感に少々怯え腰になりながらも、表情はあくまで冷静さを装い、あえてまっすぐに相手を見返す。
「逃げるなんて、そんなことはしませんよ。ゲレンデパトロールに出るだけです」
「単独行動は、許可出来ない」
「何故です?可児パトロール員だって、単独巡回をしているじゃないですか。若い彼が出来るのに、どうして、おれはいけないんですか?」
「可児は、若いが、スキーパトロール員としてのキャリアは豊富な男だ。お前とは違う」
時任は、そう言うと、雄介の意思には関係なく、これから自分は渋峠(しぶとうげ)に通じる山岳コースのパトロールに行くから、お前も同行しろと、恫喝に近い強引さで従うように要求して来た。ここまで言われると、雄介もそれ以上の叛意(はんい)は示せずに、渋々ながら言いなりになるしかなかった。

雄介と時任の二人は、長距離用のパトロール装備として、食糧や水、その他緊急時に必要とされる様々な用具の入ったバックパックを背負い、この山スキーコースの巡回にあたる。好天に恵まれた志賀高原の自然は、目に沁みるような鮮明な輪郭を伴って空の青と雪の白という素晴らしいコントラストを配し、次々に眼前へと迫って来る。いつもであれば、そんな凛然たる空気の中を滑走する時は、正に世界を我が物にしたような高揚感に包まれるはずの雄介の気持ちは、しかしながら、今日は、少しも浮き立たない。ただ、黙って、ひたすら時任の背中を追い掛けているだけの味気ない気分であった。
そんな時、前を走る時任のスキーが、やおらスピードを緩めた。そして、ゆっくりとその場に立ち止まると、それに倣(なら)う雄介に、
「-----あの木の下に、誰か倒れている」
と、告げる。雄介が、時任の指差す方角に目を凝らすと、確かにスキーコース脇に立つ針葉樹の根元あたりに、人影と思しき物が、横たわっているのを発見した。二人は、急いでそちらへと滑り寄る。そこに倒れていたのは、一人の若い男性スキーヤーであった。男性の顔面は血の気が失せて蒼白く、白目をむき、意識も薄れている様子で、全身が硬直状態である。
時任は、急いでスキー板を脱ぐと、男性のそばへ駆け付け、自らのサングラスを外してから、その身体を抱え起こすと、大声で呼びかけた。
「きみ、しっかりしなさい!おれの声が聞こえるか!?」
かろうじて、男性が肩を喘ぐように揺するのを見た時任は、雄介に言う。
「お前のバックパックの中に、紙袋が入っているから、そいつを出せ」
訳が判らないが、言われるがままに急いで紙袋を取り出した雄介が、それを時任に手渡すと、彼は、その紙袋の口を開き、それを男性スキーヤーの鼻と口を覆うように押しあてた。
「心配いらないから、安心して、ゆっくり深呼吸するんだ。大丈夫。すぐに楽になるから------」
時任の冷静な言葉で、男性は、呼吸を取り戻すと、ようやく意識もしっかりとして来た。
「いったい、どうしたんですか・・・・?」
雄介が、やや遠慮気味に訊ねると、時任は、男性の身体を腕で支えながら、穏やかな声で答えた。
「過換気症候群だよ。身体は二酸化炭素不足を起こしているのに、酸素欠乏を起こしていると勘違いすることで、酸素を取り込もと激しく呼吸をしてしまい、更に血中の二酸化炭素が体外へ出てしまう症状だ。でも、こうやって、また自分の吐き出した息をもう一度吸い込むことで、また、二酸化炭素が体内へ吸収されて、楽になる。精神的な不安定が原因で起きる一種の呼吸困難なんだ」
「そんな病気があるんですか・・・・・」
雄介は、感心すると同時に、やはり、この時任(ひと)におれは、どうしても勝てそうにはないな------と、心底思い知らされた。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
その間、確かに、時間が止まっていました。感覚としては、一分も経ってはいないように思えたのですから。全身麻酔、恐るべし!でも、あんな体験は、そう何度もしたいものではありませんねェ。(~_~;)
「今日の一枚」------『諸士取調役監察』
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑰
2009年03月06日
そうは言っても、結局、横手山スカイパークスキー場のスキーパトロール本部においては、雄介と時任は否応なくこの日も顔を合わせることになる。雄介は、時任が、近くのホテルで急患が出たので応急手当に来て欲しいという連絡を受けてそちらへ出向くため、本部を空けたタイミングを見計らって、高木主任に、時任とのパートナーを下ろさせてもらいたいと、申し出た。
「-----お願いします。仕事は今以上にきつくなっても構いませんから、他のパートナーに替えて下さい。それと、今の宿舎なんですが、別のところに移りたいので、再度手配して下さい」
深々と、頭を下げる雄介を、何とも訝しそうな目で見た高木は、お茶を飲む手を止め、湯呑茶碗を事務机の上に置く。
「-------いきなりどうしたんだ?時任君の何が気に入らないんだね?それとも、喧嘩でもしたのか?」
「いいえ、そんなんじゃありません・・・・」
雄介の返事は、何とも歯切れが悪い。高木は、弱り顔で溜息をつくと、
「理由をはっきり言ってもらわんと、こちらも対処のしようがない-----」
「それじゃァ、性格の不一致ということで--------」
雄介が言うと、傍らで自分のスキー板にワックスを塗る作業をしていた神崎が、クスッと鼻で笑い、
「それは、夫婦別れの時に使う理由でしょ」
と、肩を竦めた。高木も、少々呆れ顔で、苦笑いを浮かべながら、
「とにかく、その程度の理由では、コンビ解消は受け付けられんな。ホテルを替えたいという件は、何とか対応できると思うが、まだ、勤務し始めたばかりなんだ。あまり面倒は言わんでくれよ」
そう、雄介の申し出をやんわりとではあるが、言下(げんか)に却下した。すると、何かに気付いた表情で、雄介の方を振り向いた神崎が、やや声高に言う。
「本間君、それって、もしかしてあの野田さんが原因なのかな?」
「------えっ?」
雄介は、思わず神崎の顔に視線を送る。どうしてそのことを-------?と、きゅっと胸が締め付けられるような、しびれを感じた。神崎には、今朝の雄介と時任の気まずげな雰囲気がかなり不自然に映っていたものらしく、女性特有の勘とでもいうのだろうか、突然、核心をついて来た。
「本間君、きみ、時任さんと同じホテルにいるんだよね。あそこの経営者の野田さんと、時任さんは、かなり親しい友人同士だって話だから、きみの割り込む余地がなかったという訳かな?要するに、きみの焼き餅か・・・・」
神崎は、納得したとばかりに、唇をすぼめて、わざと大仰な頷き方をする。
「馬鹿なこと言わないで下さい!焼き餅だなんて、そんなことある訳ないでしょう!」
雄介は、一瞬我を忘れ、カッと顔面を真っ赤に上気させるや、大声で否定する。そんな部下たちの様子に、それでも責任者らしく睨みを利かせた高木主任は、いずれにしても、これからも時任君とはうまくやってくれと、一言、雄介に釘を刺してから、
「これから、索道協会(志賀高原観光開発索道協会)ヘ行ってくるから、後を頼むよ」
そう、神崎と雄介に指示を出して、パトロール本部を出て行ってしまった。
室内には、雄介と神崎の二人が残された。大きな落胆の溜息をついて、近くのパイプ椅子にどっかりと腰かけた雄介に、神崎は、わずかながらも懸念を感じたものか、冗談はさておきと、付け加えた上で、
「本間君、本当に大丈夫なの・・・・?時任さんと一緒に仕事をしたくない理由が別にあるのなら、はっきりと主任に伝えておいた方がいいと思う。隠し事は、感心しないな」
雄介の顔を、横から覗き込むように諭す。雄介は、話せるものなら話しているさと、内心憤懣を抱えながら、
「------判っています」
言葉少なに答える。と、神崎は、ふうっと、鼻から息を抜きながら、
「それじゃァ、もう一言だけ忠告。きみも、もう何となく感じているかもしれないけれど、あの野田という男(ひと)には、あまり深入りしない方がいいわよ。以前、時任さんのパートナーになったパトロール員が何人もリタイアした原因の一つは、彼にあったという噂もあるくらいだから・・・・」
「野田さんに原因が?それは、どういうことです?」
雄介は、息を飲み込む。神崎は、それに対し、自分も詳しいことはよく知らないけれどと、言い訳をしてから、
「とにかく、そんな噂もあるってことよ。だから、もしも、きみがこのままこの仕事を最後まで続けたいのなら、時任さんと野田さんの関係に余計な首を突っ込むことだけは、やめた方がいい。そんな気がするのよ・・・・」
神崎は、そう言うと、また黙々と、スキー板のワックス塗りに精を出し始めた。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
長野県栄村(さかえむら)の通称「げた履きヘルパー」の記事を読みました。栄村は、ご存じの通り、新潟県との県境に接する豪雪地帯であり、高齢化率も高く、交通の便も良くない地域ですが、この村では、九年前から地域のお年寄りの介護は地域住民で支えようという思いから、村民たちが率先してヘルパー三級の資格を取得し、老人介護を行なうという「げた履きヘルパー」が活躍して来ました。しかし、国の制度改正により、この四月以降は、「げた履きヘルパー」に多い三級資格者は、訪問介護での報酬が受けられなくなるのだとのこと。
これまで、栄村の介護事情を支えて来た「げた履きヘルパー」さんたちの年齢は、四十代、五十代の主(おも)女性たち。「村のため、家族のため」とのほとんど奉仕の精神から訪問介護に従事しつつも、やはり、わずかなりとも、それに対する報酬は必要なのが現実です。事実、「収入にならない仕事をこれからも続けるのは、正直きつい」と、ヘルパーを辞める人も多いといいます。とはいえ、家庭や仕事も持つ主婦ヘルパーたちに、そのうえの資格を取るという精神的余裕などないでしょう。
栄村は、いわゆる辺境の地域ではありますが、元気で明るいお年寄りが大勢暮らしている素晴らしい村です。村唯一の診療機関でもある栄村診療所も、一時の無医村の危機を回避し、このたび新潟県長岡市の男性医師から就任の内諾を得ることが出来たとの報道もあります。日本の原風景が残るこの村の現状に、画一的な国の政策を当てはめることがよいことなのか、疑問に思うこの頃です。
「-----お願いします。仕事は今以上にきつくなっても構いませんから、他のパートナーに替えて下さい。それと、今の宿舎なんですが、別のところに移りたいので、再度手配して下さい」
深々と、頭を下げる雄介を、何とも訝しそうな目で見た高木は、お茶を飲む手を止め、湯呑茶碗を事務机の上に置く。
「-------いきなりどうしたんだ?時任君の何が気に入らないんだね?それとも、喧嘩でもしたのか?」
「いいえ、そんなんじゃありません・・・・」
雄介の返事は、何とも歯切れが悪い。高木は、弱り顔で溜息をつくと、
「理由をはっきり言ってもらわんと、こちらも対処のしようがない-----」
「それじゃァ、性格の不一致ということで--------」
雄介が言うと、傍らで自分のスキー板にワックスを塗る作業をしていた神崎が、クスッと鼻で笑い、
「それは、夫婦別れの時に使う理由でしょ」
と、肩を竦めた。高木も、少々呆れ顔で、苦笑いを浮かべながら、
「とにかく、その程度の理由では、コンビ解消は受け付けられんな。ホテルを替えたいという件は、何とか対応できると思うが、まだ、勤務し始めたばかりなんだ。あまり面倒は言わんでくれよ」
そう、雄介の申し出をやんわりとではあるが、言下(げんか)に却下した。すると、何かに気付いた表情で、雄介の方を振り向いた神崎が、やや声高に言う。
「本間君、それって、もしかしてあの野田さんが原因なのかな?」

「------えっ?」
雄介は、思わず神崎の顔に視線を送る。どうしてそのことを-------?と、きゅっと胸が締め付けられるような、しびれを感じた。神崎には、今朝の雄介と時任の気まずげな雰囲気がかなり不自然に映っていたものらしく、女性特有の勘とでもいうのだろうか、突然、核心をついて来た。
「本間君、きみ、時任さんと同じホテルにいるんだよね。あそこの経営者の野田さんと、時任さんは、かなり親しい友人同士だって話だから、きみの割り込む余地がなかったという訳かな?要するに、きみの焼き餅か・・・・」
神崎は、納得したとばかりに、唇をすぼめて、わざと大仰な頷き方をする。
「馬鹿なこと言わないで下さい!焼き餅だなんて、そんなことある訳ないでしょう!」
雄介は、一瞬我を忘れ、カッと顔面を真っ赤に上気させるや、大声で否定する。そんな部下たちの様子に、それでも責任者らしく睨みを利かせた高木主任は、いずれにしても、これからも時任君とはうまくやってくれと、一言、雄介に釘を刺してから、
「これから、索道協会(志賀高原観光開発索道協会)ヘ行ってくるから、後を頼むよ」
そう、神崎と雄介に指示を出して、パトロール本部を出て行ってしまった。
室内には、雄介と神崎の二人が残された。大きな落胆の溜息をついて、近くのパイプ椅子にどっかりと腰かけた雄介に、神崎は、わずかながらも懸念を感じたものか、冗談はさておきと、付け加えた上で、
「本間君、本当に大丈夫なの・・・・?時任さんと一緒に仕事をしたくない理由が別にあるのなら、はっきりと主任に伝えておいた方がいいと思う。隠し事は、感心しないな」
雄介の顔を、横から覗き込むように諭す。雄介は、話せるものなら話しているさと、内心憤懣を抱えながら、
「------判っています」
言葉少なに答える。と、神崎は、ふうっと、鼻から息を抜きながら、
「それじゃァ、もう一言だけ忠告。きみも、もう何となく感じているかもしれないけれど、あの野田という男(ひと)には、あまり深入りしない方がいいわよ。以前、時任さんのパートナーになったパトロール員が何人もリタイアした原因の一つは、彼にあったという噂もあるくらいだから・・・・」

「野田さんに原因が?それは、どういうことです?」
雄介は、息を飲み込む。神崎は、それに対し、自分も詳しいことはよく知らないけれどと、言い訳をしてから、
「とにかく、そんな噂もあるってことよ。だから、もしも、きみがこのままこの仕事を最後まで続けたいのなら、時任さんと野田さんの関係に余計な首を突っ込むことだけは、やめた方がいい。そんな気がするのよ・・・・」
神崎は、そう言うと、また黙々と、スキー板のワックス塗りに精を出し始めた。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
長野県栄村(さかえむら)の通称「げた履きヘルパー」の記事を読みました。栄村は、ご存じの通り、新潟県との県境に接する豪雪地帯であり、高齢化率も高く、交通の便も良くない地域ですが、この村では、九年前から地域のお年寄りの介護は地域住民で支えようという思いから、村民たちが率先してヘルパー三級の資格を取得し、老人介護を行なうという「げた履きヘルパー」が活躍して来ました。しかし、国の制度改正により、この四月以降は、「げた履きヘルパー」に多い三級資格者は、訪問介護での報酬が受けられなくなるのだとのこと。
これまで、栄村の介護事情を支えて来た「げた履きヘルパー」さんたちの年齢は、四十代、五十代の主(おも)女性たち。「村のため、家族のため」とのほとんど奉仕の精神から訪問介護に従事しつつも、やはり、わずかなりとも、それに対する報酬は必要なのが現実です。事実、「収入にならない仕事をこれからも続けるのは、正直きつい」と、ヘルパーを辞める人も多いといいます。とはいえ、家庭や仕事も持つ主婦ヘルパーたちに、そのうえの資格を取るという精神的余裕などないでしょう。
栄村は、いわゆる辺境の地域ではありますが、元気で明るいお年寄りが大勢暮らしている素晴らしい村です。村唯一の診療機関でもある栄村診療所も、一時の無医村の危機を回避し、このたび新潟県長岡市の男性医師から就任の内諾を得ることが出来たとの報道もあります。日本の原風景が残るこの村の現状に、画一的な国の政策を当てはめることがよいことなのか、疑問に思うこの頃です。
ちょっと、一服・・・・・⑫
2009年03月05日
< 前 世 の 話 >
皆さんは、前世というものを信じますか?要は、自分は誰かの生まれ変わりかもしれないと、いう話です。学生時代に読んだ英語の本に、イギリスのあるお宅の猫が、突然ピアノの鍵盤を叩きだし、素晴らしいメロディーを奏で始めたため、驚いた飼い主が、そのメロディーを調べたところ、百年も前に死んだ有名な作曲家の未完成の曲だと言うことが判り、猫になって現代へ生まれ変わったその作曲家が、ようやく、曲の続きを完成させたのだったという物語がありました。(題名は、忘れましたが・・・・)
そんな風に、まったく予期しないことで、練習したこともないのに突然何か特殊な技能を発揮したり、覚えてもいない言葉や音楽を口ずさんだりするというような、不思議な経験はありませんか?

実は、わたしには、それがあるのです。(あっ、退かないで下さい!(^_^;))あまりに突拍子もないことを言うなと?いえいえ、これからお話しすることは、別に、そう特別なことではありません。おそらく、皆さんも、一度や二度は体験したことあると思いますよ。そう・・・・・たぶん・・・・・。
わたしが、初めてパソコンなる物に触ったのは、つい昨年の十一月のことでした。何だか、とてつもない物を買ってしまったようで、キーボードを叩くことさえ恐ろしく、近所のパソコン教室へでも通おうかと電話をしてみたのですが、無料の講座は住んでいる自治体が違うということで断られ、断念。仕方がないと、マニュアル本と首っ引きでパソコンとの格闘を始めたのですが、おかしなことに、何故か、文章だけはスラスラと、打ち込むことが出来るのです。確かに、ローマ字を知っていさえすれば、そんなことは簡単だと思われるでしょうが、それとは感じがちょっと違います。文字を打ち込みながら、何だか懐かしささえ覚えるような・・・・。そんな感覚なのです。それで、そのことを従姉(いとこ)に話し、「これって、前世に何か関係があるのかな?」と、訊いたところ、「何言ってんのよ。あんた、昔、アメリカの推理作家に憧れて英文タイプ習ったことがあったじゃないの。パソコンのローマ字配列は、それと一緒なのよ。打てて当然でしょ」との返事。--------そうだった!そのこと、すっかり忘れていました。何のことはない、タネを明かせば不思議でもなんでもないことだったのです。一瞬、「わたしって、天才かも-------。もしや、前世はコンピューター技師か?」なァんて、思ったりもしのですが、「生まれ変わり説」なんて、所詮こんなものなのでしょうね。------ほら、皆さんにも、思い当たる節があったでしょう?
それから、もう一つ。わたしが小学校低学年の頃、音楽の時間に、リコーダーの授業がありまして、クラス全員がパートごとに分かれ、それぞれ種類の違うリコーダーを使うことになったのです。リコーダーの種類は、三種類で、ソプラノ、メゾソプラノ(スタンダード)、アルトがあり、わたしは運悪く、最も大きく丈も長いアルトリコーダーの笛を扱うことになってしまいました。そのうえ、リコーダーなど見るも触るも初めてで、先生が教える吹き方も、ドレミファすら皆目判りません。音階を決める穴を抑えるにも、指が届かないのです。もう、すべてが絶望的で、音楽の時間が来るのが恐怖でした。ところが、ある日、先生が皆に初めて演奏する楽譜を渡し、「今日からは、これを練習するぞ」と、その曲のレコード(CDではありません。念のため)をかけたのです。「ミララシドシラシシドレドシララシドシラシ・・・・」------その何とも物悲しいメロディーを聞いた途端、本当に不思議なことに、わたしは、それまでちんぷんかんぷんだった指の運びをまったく外すことなく、完璧に吹くことが出来たのです。しかも、その曲をレコードで聴いた直後に------。周りのクラスメートは、「何でこの曲が吹けるんだ?知っていた曲なの?」と、驚いていました。いいえ、まったく初めて聴く曲ですし、それが、リコーダーで吹けるなんて、考えてもいませんでした。でも、そのことが一つのきっかけになったのか、それからは、先生の出す課題曲は、ほとんどそつなく演奏することが出来るようになり、その時使ったリコーダーは、今も大事に引き出しの中にしまってあります。
ね、こういう経験は、皆さんにもありますよね・・・・・?え?・・・・これは、ちょっと・・・・違いますか・・・・?

では、引き続き、「炎の氷壁」を、お読み下さい。
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑯
2009年03月04日
眠れぬままに雄介は、胸中に一つの結論を出していた。昨夜(ゆうべ)の時任に対する野田の不可解な接し様を、どのように解釈したらよいものかは、判然としないまでも、野田が時任の寝顔を見ながら囁いていたあの言葉には、さすがに雄介の理性も、何か聞いてはならないものを聞いてしまったのではないかという不気味さと、後ろめたさとが綯(な)い交ぜとなった感覚に捉われて萎えていた。
とにかく、雄介が察したことは、この横手山ロッジには、自分はいるべきではないという疎外感と、同時に、ここにはもう居たくないという嫌悪感である。
そこで、雄介は、たった三晩だけであったが、厄介になったこの宿舎を引き払うべく、手当たり次第に身の回りの物を詰め込んだ大型のスポーツバッグを肩にかけ、ホテルの玄関へ降りて行った。そんな雄介の姿を目にして、一緒に出勤しようとパートナーが部屋から降りて来るのを待っていた時任は、たちまち顔を曇らせた。
「どうしたんだ?引越しでもするつもりか?」
「・・・・・・・」
雄介は、内心、何と切り出したらよいものやら腐心しつつも、努めて時任とは視線を合わせぬように、自分が借りていた部屋の鍵をフロントのカウンターの上へ置くと、自分には、どうもこの横手山ロッジは住まいにくいので、ここを出て、別の宿舎を高木主任に周旋してもらうよう頼むつもりだとの趣旨を、早口に説明した。
しかし、その程度の上面(うわつら)だけの切り口上に、時任が納得するはずもない。何故ここを出て行かなくてはならないのか、もっと得心の行く理由を聞かせろと、詰め寄るや、雄介の右の二の腕を、背後からその大きく逞しい手でいきなりわし摑みにして来た。
途端、雄介の背筋を、寒気立(そうけだ)つような戦慄が走った。それは、雄介自身にも予期することの出来ない感情でもあった。瞬間、彼の心中に燻っていた何かが弾け飛んだ。
「手を放せ!おれに触るな!」
叫ぶと同時に、相手の身体を突き退けていた。
「-------雄介!?」
時任は、愕然として色を失う。
「いったい、どうしたっていうんだ・・・・?」
昨日までの態度からは到底想像だに及ばぬ雄介の豹変ぶりに、何がどうなっているのやら皆目判らんといった様子の時任は、ただ絶句せざるを得なかった。
と、そんな時任の背後で、一つの影が動いた。そこには、野田開作が、いつのものように皺一本ない三つ揃えのスーツ姿で腕組みをして立ち、二人の方へとじっと視線を送っている姿があった。それに気付いた雄介が、実に、腐肉を噛んで反吐(へど)でも出すような胸糞の悪さを感じながら、そちらを睨み据えた時、その野田の口が悠然と開いた。
「時任、留めるな。出て行きたいという奴を、無理に引き留めてもお互いに迷惑なだけだよ」
野田は、厄介払いでもするかの如く、何処かさばさばした語気で、あっさりと言って寄こす。だが、野田のその言葉を耳にした時任は、
「お前は、口を挟むな!」
きつく一喝して、野田を黙らせた。それでも、雄介は、もはやこの男たちとの必要以上のかかわりを持つのは御免蒙(こうむ)りたいという、潔癖心も手伝って、なおも待つように食い下がる時任に向かい、こう引導を突き付けた。
「時任さん、おれはあなたと知り合って、まだたったの四日だが、スキーパトロール員の先輩としてあなたを尊敬し、また信頼もしている。あなたにパートナーなどという横文字ではなく、『相棒』という親身な言葉で呼んでもらえたことが嬉しくて、それを励みにも思っていた。でも、おれには、どうしても理解出来ないんですよ。あなたと、そこにいるあなたの親友との関係がね。いや、もう理解する必要もないでしょうけど・・・・。それでも、おれがここに居辛い理由が知りたければ、その親友に直接訊いてみて下さい。あなたの頼みとあれば、彼もむげに撥ね付けたりはしないでしょう。何しろ、あなたを守るためなら、悪魔に魂を売り渡すことも厭わない男のようですからね。
いずれにしても、もう、おれは、これ以上あなたたち二人の訳の分からない関係にタッチしたくないんですよ。高木主任に申し出て、あなたとのコンビも解消してもらうつもりです。そう承知しておいて下さい!」
興奮で顔面を紅潮させながら、声を上擦らせ、上気するに任せて捲(まく)し立てた雄介は、それを言い終えるなり、茫然たる表情で佇立する時任をその場に残し、さながら白光現象を起こしたかの如く朝日が眩しく照り映える雪道に白い息を漂わせて、一足早い出勤の途に就いたのだった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~

最近、ドンドン記憶力が鈍って来たような気がします。他の人たちのブログを読んでいても、よほど印象に残る物や、気に入っているブログ、気になるブログ等々以外の物は、タイトルに惹かれてクリックし、内容を読ませて頂いても、しばらくすると、また同じブログをクリックしてしまいます。開けた瞬間、「あっ、これはさっき読んだものだった」と、いうことがしばしば。要するに、ブログタイトルが記憶に残っていない訳で、「またやっちまった!(>_<)」と、かなり凹みます。でも、不思議なもので、再び開けてしまうブログは、やはり、そのタイトルが気になるからなんでしょうね。一度読んだブログのタイトルを一時的に忘れていても、また、それを読みたいと思ってしまう。人間の持つ好き不好きの感情は、いつも一定なようです。面白い現象ですよね。
そう考えると、記憶力の衰えは、感情の衰えとも比例するのかもしれません。そういえば、最近は、感動というものには程遠い生活をしているような・・・・。楽しいことや発見などのワクワクする気持ち------大切にしたいものです。春ですから!
(ところで、昨日は三月三日の雛祭りだったんですね。こちらは、ひと月遅れの旧暦で雛祭りを祝うものですから、巷の色々な宣伝文句にも、あまりピンと来ませんでした。これも、感情が鈍麻している証拠かな?)
「今日の一枚」-------『午睡』
とにかく、雄介が察したことは、この横手山ロッジには、自分はいるべきではないという疎外感と、同時に、ここにはもう居たくないという嫌悪感である。
そこで、雄介は、たった三晩だけであったが、厄介になったこの宿舎を引き払うべく、手当たり次第に身の回りの物を詰め込んだ大型のスポーツバッグを肩にかけ、ホテルの玄関へ降りて行った。そんな雄介の姿を目にして、一緒に出勤しようとパートナーが部屋から降りて来るのを待っていた時任は、たちまち顔を曇らせた。
「どうしたんだ?引越しでもするつもりか?」

「・・・・・・・」
雄介は、内心、何と切り出したらよいものやら腐心しつつも、努めて時任とは視線を合わせぬように、自分が借りていた部屋の鍵をフロントのカウンターの上へ置くと、自分には、どうもこの横手山ロッジは住まいにくいので、ここを出て、別の宿舎を高木主任に周旋してもらうよう頼むつもりだとの趣旨を、早口に説明した。
しかし、その程度の上面(うわつら)だけの切り口上に、時任が納得するはずもない。何故ここを出て行かなくてはならないのか、もっと得心の行く理由を聞かせろと、詰め寄るや、雄介の右の二の腕を、背後からその大きく逞しい手でいきなりわし摑みにして来た。
途端、雄介の背筋を、寒気立(そうけだ)つような戦慄が走った。それは、雄介自身にも予期することの出来ない感情でもあった。瞬間、彼の心中に燻っていた何かが弾け飛んだ。
「手を放せ!おれに触るな!」
叫ぶと同時に、相手の身体を突き退けていた。
「-------雄介!?」
時任は、愕然として色を失う。
「いったい、どうしたっていうんだ・・・・?」
昨日までの態度からは到底想像だに及ばぬ雄介の豹変ぶりに、何がどうなっているのやら皆目判らんといった様子の時任は、ただ絶句せざるを得なかった。
と、そんな時任の背後で、一つの影が動いた。そこには、野田開作が、いつのものように皺一本ない三つ揃えのスーツ姿で腕組みをして立ち、二人の方へとじっと視線を送っている姿があった。それに気付いた雄介が、実に、腐肉を噛んで反吐(へど)でも出すような胸糞の悪さを感じながら、そちらを睨み据えた時、その野田の口が悠然と開いた。
「時任、留めるな。出て行きたいという奴を、無理に引き留めてもお互いに迷惑なだけだよ」
野田は、厄介払いでもするかの如く、何処かさばさばした語気で、あっさりと言って寄こす。だが、野田のその言葉を耳にした時任は、
「お前は、口を挟むな!」
きつく一喝して、野田を黙らせた。それでも、雄介は、もはやこの男たちとの必要以上のかかわりを持つのは御免蒙(こうむ)りたいという、潔癖心も手伝って、なおも待つように食い下がる時任に向かい、こう引導を突き付けた。
「時任さん、おれはあなたと知り合って、まだたったの四日だが、スキーパトロール員の先輩としてあなたを尊敬し、また信頼もしている。あなたにパートナーなどという横文字ではなく、『相棒』という親身な言葉で呼んでもらえたことが嬉しくて、それを励みにも思っていた。でも、おれには、どうしても理解出来ないんですよ。あなたと、そこにいるあなたの親友との関係がね。いや、もう理解する必要もないでしょうけど・・・・。それでも、おれがここに居辛い理由が知りたければ、その親友に直接訊いてみて下さい。あなたの頼みとあれば、彼もむげに撥ね付けたりはしないでしょう。何しろ、あなたを守るためなら、悪魔に魂を売り渡すことも厭わない男のようですからね。
いずれにしても、もう、おれは、これ以上あなたたち二人の訳の分からない関係にタッチしたくないんですよ。高木主任に申し出て、あなたとのコンビも解消してもらうつもりです。そう承知しておいて下さい!」
興奮で顔面を紅潮させながら、声を上擦らせ、上気するに任せて捲(まく)し立てた雄介は、それを言い終えるなり、茫然たる表情で佇立する時任をその場に残し、さながら白光現象を起こしたかの如く朝日が眩しく照り映える雪道に白い息を漂わせて、一足早い出勤の途に就いたのだった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
最近、ドンドン記憶力が鈍って来たような気がします。他の人たちのブログを読んでいても、よほど印象に残る物や、気に入っているブログ、気になるブログ等々以外の物は、タイトルに惹かれてクリックし、内容を読ませて頂いても、しばらくすると、また同じブログをクリックしてしまいます。開けた瞬間、「あっ、これはさっき読んだものだった」と、いうことがしばしば。要するに、ブログタイトルが記憶に残っていない訳で、「またやっちまった!(>_<)」と、かなり凹みます。でも、不思議なもので、再び開けてしまうブログは、やはり、そのタイトルが気になるからなんでしょうね。一度読んだブログのタイトルを一時的に忘れていても、また、それを読みたいと思ってしまう。人間の持つ好き不好きの感情は、いつも一定なようです。面白い現象ですよね。
そう考えると、記憶力の衰えは、感情の衰えとも比例するのかもしれません。そういえば、最近は、感動というものには程遠い生活をしているような・・・・。楽しいことや発見などのワクワクする気持ち------大切にしたいものです。春ですから!

「今日の一枚」-------『午睡』
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑮
2009年03月03日
そして、雄介が、何やら言葉に表すことさえ憚られるような、ある種異様とも映る光景を目撃することになったのは、その日の夜も更けた頃であった。
宿舎としているホテルの自室でベッドには入ったものの、何故かすんなりとは寝付けずにいた雄介は、何となく喉の渇きを覚えて、ロビーに設置されている自動販売機でスポーツ飲料でも買って来ようと、既に館内の照明も最小限まで落とされた廊下を、パジャマ姿のままで、階段を使って一階へと降りて行った。すると、薄明かりが漏れる寂静としたロビー脇のラウンジの一隅に、かすかに人の気配があった。それに気付いた途端、雄介は、そちらの空間を漂う雰囲気に、何とも形容し難い陰鬱な臭気の如きものを直感的に嗅ぎ取るや、とっさに物陰へと身を寄せ、それから改めてそちらの様子を密かにうかがった。
ラウンジのマントルピースの前のソファーに埋(うず)もれるような体勢で、頭をやや左の方へ傾け加減にじっと目を閉じているのは、時任圭吾である。一日の激務の疲れが出て、ついこのような場所で眠り込んでしまったのであろう。その彫像の如く引き締まった顔を、マントルピースの中でちろちろと燃える小さな炎が、オレンジ色に照らし出している。
もつれた運命の糸を懸命にほぐさんと悪夢の中で格闘を続けてでもいるのか、時任の眉間には、わずかに苦悶の皺(しわ)が刻まれている。身体は、微動だにせず、静かな寝息を立てている彼の首筋には、厳寒の候にもかかわらず、うっすらと汗が光っていた。
そんな無防備な時任の表情を、その傍らで、男が一人じっと見詰めている。それは、まるで愛しい恋人でも眺めるかのように注視して佇む、野田開作の姿であった。熱っぽくからみつくとでも表現出来るほどの執着的な視線を時任に投げかける野田の薄い唇には、何処か怪しげな微笑が一はけ浮かんでいたが、やがて、その唇は、極めて低い小声で、独り言を呟き始めた。
雄介は、野田の一言半句も聞き損じるまいと、物陰から耳をそばだてる。野田は、時任の寝顔に、今にも自らの頬を擦り寄せるのではないかと思われるほどに、やるせなさそうな鬱影を面(おもて)に宿しながら、忍びやかに囁く。
「------時任、おれは、お前のためなら何でもするからな。たとえ、それが、天の摂理に背く大罪であろうと、厭(いと)いはしない。あの夏の日、お前にこの命を救われた時、おれは、自分自身に誓ったんだ。お前に何が起ころうとも、お前の身は必ずおれが守ると・・・・。だから、安心して眠れ。そうさ、お前には、おれが必要なんだ。お前は、決しておれから離れられない。おれを裏切れない。おれは、既に、悪魔に魂を売り渡した男なのだからな・・・・・」
不可解な言葉を、呪文でも唱えるような口ぶりで吐息とともに独ごちた野田は、それからおもむろに、時任の首筋に滲んだ汗をその人差し指で静かに拭い取る仕種をする。
「・・・・・・・・!?」
雄介は、目の前で行われている情景が、現実のものとは俄には信じられない異様な感覚に捉われて、不意に声を上げかけ、慌てて掌(てのひら)で自分の口を塞いだ。次の瞬間、野田の眼球がぎょろりと動いたかと思うと、蛇が鎌首をもたげるように、闇に紛れて息を殺す自分の方へと向けられ、その口許には、不気味に歪んだ冷笑さえ浮かんでいるように雄介には思えた。だが、それは、雄介の中の逆上が描いた、ただの幻覚だったのかもしれない。
いずれにせよ、雄介は、たった今目にし、耳にした出来事のすべてを記憶の奥底へと封印してしまいたい衝動にかられつつ、込み上げる胸の悪さと動悸を堪え、ホテル二階の自室へと戻った。もはや、喉が渇いていたことなど、念頭から吹き飛んでいた。雄介は、室内の灯りを消すと、そのままのめるようにしてベッドに倒れ込むなり、総身を走る震えに必死で抗いながら、野田の発した奇妙な言葉の意味を、彼なりに考えてみた。
天の摂理に背く大罪とは何なのか・・・・?悪魔に魂を売り渡したとはどういうことなのか・・・・?ただ、一つはっきりとしたことは、野田の時任に対する思いが、単なる友人に対する気持ち以上に、かけ離れて強いということであった。それも、尋常な執着心ではない。あの二人の間の過去にはいったい何があったのか-------?
雄介は、そうした疑問の数々を、頭の中で繰り返し考え続けたあげく、まんじりともせずに朝を迎えることとなってしまったのである。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
「白球入魂」------今年の信濃グランセローズのスローガンとのこと。ちょっと、高校野球の精神のようですが、初心に帰るという今久留主監督の意気込みには、ふさわしい言葉とも言えます。球春到来!春のキャンプも始まり、クラシックスタイルのソックスの赤が、何とも鮮やかで頼もしく見える選手の面々。中野市内にある神社での必勝祈願が実り、秋には監督の胴上げが見られることを祈念してやみません。
ところで、ピッチャーの佐藤広樹選手と、現在石川ミリオンスターズの選手となっている平泉悠選手とは、同じ東京都出身ですが、少年野球のチームメイトでもあったそうです。その後二人は、高校、大学、社会人と、全く別々の道を歩んでいましたが、偶然にもBCリーグ発足に際しての入団テストで再び顔を合せ、しかも、同じ信濃グランセローズに入団することが決まった時は、「本当に驚いた」と、平泉選手は語っていました。「ぼくは、捕手ですから、佐藤君の球を受けるのが希望なんです。二人でバッテリーが組めたら最高なんですけれど・・・・」と、話していた平泉選手。今は、またお互いに別々の球団でライバルとして競うことになってしまいましたが、投手としての素質に恵まれた佐藤選手と、長距離スラッガーの平泉選手、------NPBへの夢がかない、いつか二人でバッテリーを組む日が来ることを、わたしも願っています。
「今日のベースボールキャップ」-------『信濃グランセローズ』
宿舎としているホテルの自室でベッドには入ったものの、何故かすんなりとは寝付けずにいた雄介は、何となく喉の渇きを覚えて、ロビーに設置されている自動販売機でスポーツ飲料でも買って来ようと、既に館内の照明も最小限まで落とされた廊下を、パジャマ姿のままで、階段を使って一階へと降りて行った。すると、薄明かりが漏れる寂静としたロビー脇のラウンジの一隅に、かすかに人の気配があった。それに気付いた途端、雄介は、そちらの空間を漂う雰囲気に、何とも形容し難い陰鬱な臭気の如きものを直感的に嗅ぎ取るや、とっさに物陰へと身を寄せ、それから改めてそちらの様子を密かにうかがった。
ラウンジのマントルピースの前のソファーに埋(うず)もれるような体勢で、頭をやや左の方へ傾け加減にじっと目を閉じているのは、時任圭吾である。一日の激務の疲れが出て、ついこのような場所で眠り込んでしまったのであろう。その彫像の如く引き締まった顔を、マントルピースの中でちろちろと燃える小さな炎が、オレンジ色に照らし出している。
もつれた運命の糸を懸命にほぐさんと悪夢の中で格闘を続けてでもいるのか、時任の眉間には、わずかに苦悶の皺(しわ)が刻まれている。身体は、微動だにせず、静かな寝息を立てている彼の首筋には、厳寒の候にもかかわらず、うっすらと汗が光っていた。
そんな無防備な時任の表情を、その傍らで、男が一人じっと見詰めている。それは、まるで愛しい恋人でも眺めるかのように注視して佇む、野田開作の姿であった。熱っぽくからみつくとでも表現出来るほどの執着的な視線を時任に投げかける野田の薄い唇には、何処か怪しげな微笑が一はけ浮かんでいたが、やがて、その唇は、極めて低い小声で、独り言を呟き始めた。
雄介は、野田の一言半句も聞き損じるまいと、物陰から耳をそばだてる。野田は、時任の寝顔に、今にも自らの頬を擦り寄せるのではないかと思われるほどに、やるせなさそうな鬱影を面(おもて)に宿しながら、忍びやかに囁く。
「------時任、おれは、お前のためなら何でもするからな。たとえ、それが、天の摂理に背く大罪であろうと、厭(いと)いはしない。あの夏の日、お前にこの命を救われた時、おれは、自分自身に誓ったんだ。お前に何が起ころうとも、お前の身は必ずおれが守ると・・・・。だから、安心して眠れ。そうさ、お前には、おれが必要なんだ。お前は、決しておれから離れられない。おれを裏切れない。おれは、既に、悪魔に魂を売り渡した男なのだからな・・・・・」
不可解な言葉を、呪文でも唱えるような口ぶりで吐息とともに独ごちた野田は、それからおもむろに、時任の首筋に滲んだ汗をその人差し指で静かに拭い取る仕種をする。

「・・・・・・・・!?」
雄介は、目の前で行われている情景が、現実のものとは俄には信じられない異様な感覚に捉われて、不意に声を上げかけ、慌てて掌(てのひら)で自分の口を塞いだ。次の瞬間、野田の眼球がぎょろりと動いたかと思うと、蛇が鎌首をもたげるように、闇に紛れて息を殺す自分の方へと向けられ、その口許には、不気味に歪んだ冷笑さえ浮かんでいるように雄介には思えた。だが、それは、雄介の中の逆上が描いた、ただの幻覚だったのかもしれない。
いずれにせよ、雄介は、たった今目にし、耳にした出来事のすべてを記憶の奥底へと封印してしまいたい衝動にかられつつ、込み上げる胸の悪さと動悸を堪え、ホテル二階の自室へと戻った。もはや、喉が渇いていたことなど、念頭から吹き飛んでいた。雄介は、室内の灯りを消すと、そのままのめるようにしてベッドに倒れ込むなり、総身を走る震えに必死で抗いながら、野田の発した奇妙な言葉の意味を、彼なりに考えてみた。
天の摂理に背く大罪とは何なのか・・・・?悪魔に魂を売り渡したとはどういうことなのか・・・・?ただ、一つはっきりとしたことは、野田の時任に対する思いが、単なる友人に対する気持ち以上に、かけ離れて強いということであった。それも、尋常な執着心ではない。あの二人の間の過去にはいったい何があったのか-------?
雄介は、そうした疑問の数々を、頭の中で繰り返し考え続けたあげく、まんじりともせずに朝を迎えることとなってしまったのである。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
「白球入魂」------今年の信濃グランセローズのスローガンとのこと。ちょっと、高校野球の精神のようですが、初心に帰るという今久留主監督の意気込みには、ふさわしい言葉とも言えます。球春到来!春のキャンプも始まり、クラシックスタイルのソックスの赤が、何とも鮮やかで頼もしく見える選手の面々。中野市内にある神社での必勝祈願が実り、秋には監督の胴上げが見られることを祈念してやみません。
ところで、ピッチャーの佐藤広樹選手と、現在石川ミリオンスターズの選手となっている平泉悠選手とは、同じ東京都出身ですが、少年野球のチームメイトでもあったそうです。その後二人は、高校、大学、社会人と、全く別々の道を歩んでいましたが、偶然にもBCリーグ発足に際しての入団テストで再び顔を合せ、しかも、同じ信濃グランセローズに入団することが決まった時は、「本当に驚いた」と、平泉選手は語っていました。「ぼくは、捕手ですから、佐藤君の球を受けるのが希望なんです。二人でバッテリーが組めたら最高なんですけれど・・・・」と、話していた平泉選手。今は、またお互いに別々の球団でライバルとして競うことになってしまいましたが、投手としての素質に恵まれた佐藤選手と、長距離スラッガーの平泉選手、------NPBへの夢がかない、いつか二人でバッテリーを組む日が来ることを、わたしも願っています。
「今日のベースボールキャップ」-------『信濃グランセローズ』
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑭
2009年03月02日
「あの時の出来事は、昨日のことのように脳裏に鮮明に焼き付いている。レースの当日、三月十日午前八時の志賀高原熊の湯温泉スキー場の天候は、小雪が舞う曇天ながら、視界は充分、風もさほど強くなく、まずまずのコースコンディションだった。スノーファイト仲間数人と野田が見守る中、おれとその大学生は、ともにスタート地点に並び、スターターを買って出た仲間の合図で、一気にコースを滑り降りて行った。滑り出した時点での速さはほとんど互角だった。しかし、コースの三分の一が過ぎたあたりで、おれのスキー板が一瞬横に流れ、タイムロスが生じた。そして、それを察知したであろう大学生の方が、間髪を入れず勝負に打って出ようと加速しかけた時のことだった。スキー板一本分ほど前に出ていた大学生の身体が、突如、何かに突っ掛かりでもしたかのように弾き飛ぶと、そのままもんどりうって、激しい雪煙の巻かれながら、急斜面を瞬く間に転がり落ち、ついには、おれの視界からその姿を消した。正に、あっという間の出来事で、おれはコースの途中でかろうじて滑りを止めたものの、唖然と、そこに佇み続けるしか術がなかった。
大学生は、その日の午後、『魔の壁』から約一四〇メートル下の谷間(たにあい)の沢畔(たくはん)で、遺体となって発見された。捜索に当たった長野県警は、当事者であるおれには無論のこと、スノーファイトに関わった者たち全員への詳しい事情聴取を行なったが、最終的に大学生の死亡原因は、レース中にスキー板のバインディングの右足側一方が滑走時に加わった角の衝撃に耐えきれず、破損したために起きた不運な事故による滑落死であると、結論付けた。
その死亡した大学生の名前が、黒鳥和也だったのさ。つまり、黒鳥真琴は、和也の実妹(いもうと)で、おそらく、おれが和也の挑戦を受けさえしなければ、兄は死なずに済んだはずだと考えて、おれを怨み続けていたんだろう。殺人の証拠を見つけるだの、人殺しだのと暴言を吐いたのも、彼女の中に蟠(わだかま)る肉親の頓死というものに対する、強い拒絶意識が、おれという言わば十五年来探し求めていた敵(かたき)を目前にしたことで、一挙に表へ噴き出したと見るのが妥当なのかもしれない。そんな、妄想的暴言でもぶつけなければ、彼女の精神は到底遣り切れなかったんだろうな」
時任は、黒鳥真琴の心中を、彼なりの視点から同情までもを織り交ぜながら、冷徹に分析する。
「そんなことがあったんですか・・・・」
雄介は、時任の告白をじっと聞きながら、小さく溜息をつく。そして、そんな相手の物静かな面持ちを見詰めつつ、
「でも、それじゃァ単なる逆恨みじゃァないですか------」
と、呆れるように言った。雄介には、時任の話が保身の色付けを加えての物とはとても思えなかったし、彼の言うように、黒鳥真琴の言葉がただの憎しみの発露にすぎないのであるなら、実に迷惑千万なことだとの、無性に腹立たしい思いが込み上げていたのも事実だった。
「しかし、何にせよ、決着はつけねばな」
時任は、そう言って、さりげなく自分の腕時計に目を落とす。そして、かすかな吐息まじりに、もう来てもいい頃なのにな-----と、呟いた。
「誰かを待っているんですか?」
不思議そうに小首を傾げる雄介に、時任は、いったん、うんと生返事をした後で、こう明かした。
「黒鳥真琴を、ここへ呼んであるんだ」
「何ですって!?あの女が、今、ここへ来るんですか?」
雄介は、ぎょっとして、思わず時任の顔を穴のあくほど凝視した。何とかして、黒鳥真琴の誤解とお門違いの怨恨を払拭しなければと思いつめる、時任の焦燥も判らなくはないが、あそこまで頑なに時任に対する疑惑と憎悪を膨張させてしまっている女の理解を売るのは、並大抵の努力で補い切れるものではないことぐらい、比較的楽天思考型の雄介にも、痛感されている事実であった。
だが、それからしばらく待ったものの、結局、この時黒鳥真琴は姿を現さなかった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
「一方通行人間」------最近は、こういう類の人間が多くなったと言われています。これは、単に頑固で他人の話には聞く耳を持たないという、従来のいわゆる意固地人間のことではありません。正に、その名の通り、他人の言っている言葉の意味をほとんど理解する能力がないか、もしくは、理解を必要としない人間のことです。
ある日、近所のコンビニエンスストアで、わたしは、奇妙な光景を見ました。二十代前半と見える女性店員に、八十歳ぐらいの男性客が、「ちょっと、近くに用事があるんだけれど、ここで買った荷物が重いんで、しばらくこの店に置いといてもらえないかな?帰りに、またもらって行くから」と、頼んでいたのですが、その女性店員は、「・・・・・・」と、まったく無言のままで、男性のことをただじっと見ているだけです。男性は、もう一度、同じことを言いましたが、やはり、反応がありません。その横から、別の客が、商品をレジまで持って来ますと、「ありがとうございます。温めますか?」などと、これにはちゃんと応対しているのです。高齢者の男性客は不思議に思って、近くにいるもう一人の別の客に、「どうなっているんだ?」と、訊ねました。すると、その別の客の言うことには、「要するに、一方通行人間なんだよ。マニュアル通りのことしか教えられていないんだよ。それ以外のことを訊かれると、固まっちまうんだ」と、言って笑っていました。「それじゃァ、ロボットじゃねェか・・・」高齢の男性客は、呆れ返った顔で、その重い荷物を抱えたまま、店を出て行っていまいました。
これは、ほんの一例ですが、このような対応に出くわしたという話は最近頓(とみ)に耳にします。これでは、対話も何もありません。たぶん、その女性店員の人も、本当は、もっと男性客に親切に接したかったのかもしれませんが、マニュアル上、それが出来なかったのかもしれません。本当のことは判りませんが、何だか、世の中が、味気なくなって来たような気がしてなりません。

大学生は、その日の午後、『魔の壁』から約一四〇メートル下の谷間(たにあい)の沢畔(たくはん)で、遺体となって発見された。捜索に当たった長野県警は、当事者であるおれには無論のこと、スノーファイトに関わった者たち全員への詳しい事情聴取を行なったが、最終的に大学生の死亡原因は、レース中にスキー板のバインディングの右足側一方が滑走時に加わった角の衝撃に耐えきれず、破損したために起きた不運な事故による滑落死であると、結論付けた。
その死亡した大学生の名前が、黒鳥和也だったのさ。つまり、黒鳥真琴は、和也の実妹(いもうと)で、おそらく、おれが和也の挑戦を受けさえしなければ、兄は死なずに済んだはずだと考えて、おれを怨み続けていたんだろう。殺人の証拠を見つけるだの、人殺しだのと暴言を吐いたのも、彼女の中に蟠(わだかま)る肉親の頓死というものに対する、強い拒絶意識が、おれという言わば十五年来探し求めていた敵(かたき)を目前にしたことで、一挙に表へ噴き出したと見るのが妥当なのかもしれない。そんな、妄想的暴言でもぶつけなければ、彼女の精神は到底遣り切れなかったんだろうな」
時任は、黒鳥真琴の心中を、彼なりの視点から同情までもを織り交ぜながら、冷徹に分析する。
「そんなことがあったんですか・・・・」
雄介は、時任の告白をじっと聞きながら、小さく溜息をつく。そして、そんな相手の物静かな面持ちを見詰めつつ、
「でも、それじゃァ単なる逆恨みじゃァないですか------」
と、呆れるように言った。雄介には、時任の話が保身の色付けを加えての物とはとても思えなかったし、彼の言うように、黒鳥真琴の言葉がただの憎しみの発露にすぎないのであるなら、実に迷惑千万なことだとの、無性に腹立たしい思いが込み上げていたのも事実だった。
「しかし、何にせよ、決着はつけねばな」
時任は、そう言って、さりげなく自分の腕時計に目を落とす。そして、かすかな吐息まじりに、もう来てもいい頃なのにな-----と、呟いた。
「誰かを待っているんですか?」
不思議そうに小首を傾げる雄介に、時任は、いったん、うんと生返事をした後で、こう明かした。
「黒鳥真琴を、ここへ呼んであるんだ」
「何ですって!?あの女が、今、ここへ来るんですか?」
雄介は、ぎょっとして、思わず時任の顔を穴のあくほど凝視した。何とかして、黒鳥真琴の誤解とお門違いの怨恨を払拭しなければと思いつめる、時任の焦燥も判らなくはないが、あそこまで頑なに時任に対する疑惑と憎悪を膨張させてしまっている女の理解を売るのは、並大抵の努力で補い切れるものではないことぐらい、比較的楽天思考型の雄介にも、痛感されている事実であった。
だが、それからしばらく待ったものの、結局、この時黒鳥真琴は姿を現さなかった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
「一方通行人間」------最近は、こういう類の人間が多くなったと言われています。これは、単に頑固で他人の話には聞く耳を持たないという、従来のいわゆる意固地人間のことではありません。正に、その名の通り、他人の言っている言葉の意味をほとんど理解する能力がないか、もしくは、理解を必要としない人間のことです。
ある日、近所のコンビニエンスストアで、わたしは、奇妙な光景を見ました。二十代前半と見える女性店員に、八十歳ぐらいの男性客が、「ちょっと、近くに用事があるんだけれど、ここで買った荷物が重いんで、しばらくこの店に置いといてもらえないかな?帰りに、またもらって行くから」と、頼んでいたのですが、その女性店員は、「・・・・・・」と、まったく無言のままで、男性のことをただじっと見ているだけです。男性は、もう一度、同じことを言いましたが、やはり、反応がありません。その横から、別の客が、商品をレジまで持って来ますと、「ありがとうございます。温めますか?」などと、これにはちゃんと応対しているのです。高齢者の男性客は不思議に思って、近くにいるもう一人の別の客に、「どうなっているんだ?」と、訊ねました。すると、その別の客の言うことには、「要するに、一方通行人間なんだよ。マニュアル通りのことしか教えられていないんだよ。それ以外のことを訊かれると、固まっちまうんだ」と、言って笑っていました。「それじゃァ、ロボットじゃねェか・・・」高齢の男性客は、呆れ返った顔で、その重い荷物を抱えたまま、店を出て行っていまいました。
これは、ほんの一例ですが、このような対応に出くわしたという話は最近頓(とみ)に耳にします。これでは、対話も何もありません。たぶん、その女性店員の人も、本当は、もっと男性客に親切に接したかったのかもしれませんが、マニュアル上、それが出来なかったのかもしれません。本当のことは判りませんが、何だか、世の中が、味気なくなって来たような気がしてなりません。
~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑬
2009年03月01日
その後の休憩時間に、同スキー場内にあるレストハウスへと入った雄介と時任の二人は、小さな円形のテーブルに向かい合わせに腰掛けると、長時間のゲレンデパトロールで冷えた身体を温めるため、束の間のコーヒータイムを過ごしていた。そのレストハウスの店内では、彼らの他にも大勢のスキー客が食事をしたり談笑したりと、皆思い思いのブレイクタイムを満喫している。その客たちのカラフルなスキーウェアに彩られた周囲は、まるで、花畑にでも迷い込んだかのような鮮やかさと、圧倒されるような人いきれに満ちていた。
やがて、時任は、雄介を前に、白い大ぶりのカップに注がれたコーヒーに、ピッチャーのミルクを入れ、それを一口味わってから、さっきの話の続きを、静かに語り出した。
「------今から十五年前、そんなおれが、やはり医大の春休みを利用して、信州への帰省かたがた志賀高原でのスキー三昧の毎日を送っていたある日のこと、神奈川県から来たという一人のある男子大学生から、スノーファイトの挑戦を受けることになってしまったんだ。その大学生とはもちろん初対面だった。しかし、大学生が、おれと一緒に滑りを楽しんでいた野田の滑走体勢を見て、へっぴり腰だとからかったのが発端になり、結局、売り言葉に買い言葉が高じて、挑戦を受けて立つことにしたんだ」
「野田さんが、スキーをされていたんですか?」
雄介が思わず口走ると、時任は、何だ、意外か?------と、いった表情で上目使い見詰め返し、
「野田開作は、高校三年の夏に起きた山岳事故が原因の怪我の後遺症で、左脚に障害を負ってしまったんだよ。そのため、それからは、何度の高いコースは自分から敬遠するようになったものの、脚を負傷する以前は、我が母校スキー部のアルペン滑降のエースとして、将来を嘱望された男だったんだ。さすがに、今はもう日々の多忙さから、あまりスキーを履く機会もなくなったそうだが、それでも、まだ二十代前半だったあの頃は、野田もたびたびおれたち旧知のスキー仲間と連れ立って、志賀高原の笠岳(かさだけ)越えや、奥志賀から北志賀に渡る竜王(りゅうおう)越え等々の、ツアースキーに参加したりもしていたのさ」
「そうだったんですか・・・・」
雄介は、嘆息気味に頷くと、
「それじゃァ、野田さんのそうした栄光も知らずに、その大学生は恥辱を浴びせかけた訳ですね」
ひでェことをしやがるなァと、雄介は眉を顰(しか)め、
「親友がそんな目に遭わされたら、おれだって本気(マジ)ギレしますよ------!」
ついつい語調が過激になる。時任は、そんな血の気の多さを隠そうともしない雄介の正義感あふれる顔を、何か面映ゆいものでも見るような優しげな眼差しで眺めながら、そっと微苦笑する。
「だが、野田は、おれと大学生が『魔の壁』で戦うことには、あくまで反対した。自分のことが原因で、事態が悪化して行くのを、黙殺出来なかったという理由もあるのだろうが、それとは別に、野田は、三月の『魔の壁』が、殊に危険な状態になることを知っていて、おれと相手にもしものことがあってはいけないと、心配してくれていたんだ」
「三月------?どうして、それが特別危険なんですか?」
時任の言葉に、雄介は身を乗り出す。時任の説明は、こうである。
「つまり、三月になると雪山の気温もこれまでよりは上がって来るだろう?アイスバーンになった斜面の上に新たな降雪が積もると、そこへ気温の上昇が生じた場合、表層雪崩が発生する危険のあることは、雄介、お前も知っているはずだ。要するに、雪山を知るものならば、それは誰しも懸念するところだが、南向きに切り立つ『魔の壁』にあっては、特にそうした条件が揃いやすく、脆弱(ぜいじゃく)な新雪面は、粗目になり、滑走者へのリスクもかなり高くなるという訳だ。しかし、おれは、必死で引き留める野田の気持ちよりも、おれ自身のスノーファイターとしての身勝手なプライドの方を優先させ、氷壁のチキンレースに挑んだんだよ。------そして、あの事故は起きたんだ」
「事故--------?」
雄介は、思わず時任の言葉を復唱する。時任は、そうだと、自らに得心を強いるかの如く深く頷いてから、十五年前にあの『魔の壁』でいったい何があったのかを、努めて感情的な部分を排した視線を保持しつつ、抑制のきいた冷静な口調で述懐するのであった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
今日も、病院ネタで恐縮ですが、一昨年の秋、身体の不調で総合病院へ行ったわたしは、若い女性研修医の先生に診て頂いており、内科処置室という所で、点滴を打ってもらっていました。そこへ、急患を引き受けてもらえないかとの連絡が入り、年配の看護師さんが、その女性研修医に引き受けをOKしてもいいかと訊いたところ、いいという答えで、その救急患者は、ここへ搬送されて来ることになりました。すると、間もなく、新たな急患受け入れ要請が入り、こちらもどうしても受け入れてもらいたいとの救急隊からの連絡で、その研修医の先生は、この急患も引き受けるという返事をしたのです。しかし、返事をしてしまってから、「どうしよう。あたし一人じゃァ不安だわ・・・」と、いうことになり、病棟にいたベテランの医師に助勢を請うことに。
「急患が二人来るんですけど、助けて頂けませんか?」しかし、どうも、ベテラン先生は、他の診察で手いっぱいな様子。すると、年配の看護師さんがそこでアドバイスをしました。「何でもしますから、お願いしますって言ってみたら?」研修医の先生は、背に腹は代えられず、その通りのことをベテラン先生に告げました。
やがて、運ばれて来た急患の一人は精神科の方へ、もう一人のおじいさんの急患をその先生たちが診ることになったのですが、このおじいさん、意識が朦朧としていて、何を言っているのか全く意味不明。かなりお酒も飲んでいるらしく、「☓☓から落ちた・・・」というだけが精一杯。するとベテラン先生が、研修医の先生に、「お前、なんでもやると言ったんだから、この人が何を言っているのかちゃんと聞き取れ」と、言います。研修医の先生が、再度訊くと、おじさんは「炬燵(こたつ)から落ちた~」と、言っているように聞こえます。「炬燵?炬燵なのね?」研修医が念を押すと、それを訊いたベテラン先生が、「そうじゃない、脚立(きゃたつ)と言っているんだよ。口の開き方をよく見ろよ」と、教えました。
カーテンで、周りは仕切られていたものの、ベッドで一部始終を聞いていたわたしは、やっぱり、経験者は大したものだなァと、一人感心していたものです。そのおじいさんは、それから頭部のCTを撮るため、ストレッチャーに載せられたまま処置室を出て行きました。ベテラン先生が、そこで研修医の先生に、「一つ、貸しだな。今度昼飯でもおごれよ」------ベテラン先生の顔は判りませんでしたが、何だか、ちょっといいラジオドラマのワンシーンを聴かせてもらったような気がしました。
やがて、時任は、雄介を前に、白い大ぶりのカップに注がれたコーヒーに、ピッチャーのミルクを入れ、それを一口味わってから、さっきの話の続きを、静かに語り出した。
「------今から十五年前、そんなおれが、やはり医大の春休みを利用して、信州への帰省かたがた志賀高原でのスキー三昧の毎日を送っていたある日のこと、神奈川県から来たという一人のある男子大学生から、スノーファイトの挑戦を受けることになってしまったんだ。その大学生とはもちろん初対面だった。しかし、大学生が、おれと一緒に滑りを楽しんでいた野田の滑走体勢を見て、へっぴり腰だとからかったのが発端になり、結局、売り言葉に買い言葉が高じて、挑戦を受けて立つことにしたんだ」
「野田さんが、スキーをされていたんですか?」
雄介が思わず口走ると、時任は、何だ、意外か?------と、いった表情で上目使い見詰め返し、
「野田開作は、高校三年の夏に起きた山岳事故が原因の怪我の後遺症で、左脚に障害を負ってしまったんだよ。そのため、それからは、何度の高いコースは自分から敬遠するようになったものの、脚を負傷する以前は、我が母校スキー部のアルペン滑降のエースとして、将来を嘱望された男だったんだ。さすがに、今はもう日々の多忙さから、あまりスキーを履く機会もなくなったそうだが、それでも、まだ二十代前半だったあの頃は、野田もたびたびおれたち旧知のスキー仲間と連れ立って、志賀高原の笠岳(かさだけ)越えや、奥志賀から北志賀に渡る竜王(りゅうおう)越え等々の、ツアースキーに参加したりもしていたのさ」
「そうだったんですか・・・・」

雄介は、嘆息気味に頷くと、
「それじゃァ、野田さんのそうした栄光も知らずに、その大学生は恥辱を浴びせかけた訳ですね」
ひでェことをしやがるなァと、雄介は眉を顰(しか)め、
「親友がそんな目に遭わされたら、おれだって本気(マジ)ギレしますよ------!」
ついつい語調が過激になる。時任は、そんな血の気の多さを隠そうともしない雄介の正義感あふれる顔を、何か面映ゆいものでも見るような優しげな眼差しで眺めながら、そっと微苦笑する。
「だが、野田は、おれと大学生が『魔の壁』で戦うことには、あくまで反対した。自分のことが原因で、事態が悪化して行くのを、黙殺出来なかったという理由もあるのだろうが、それとは別に、野田は、三月の『魔の壁』が、殊に危険な状態になることを知っていて、おれと相手にもしものことがあってはいけないと、心配してくれていたんだ」
「三月------?どうして、それが特別危険なんですか?」
時任の言葉に、雄介は身を乗り出す。時任の説明は、こうである。
「つまり、三月になると雪山の気温もこれまでよりは上がって来るだろう?アイスバーンになった斜面の上に新たな降雪が積もると、そこへ気温の上昇が生じた場合、表層雪崩が発生する危険のあることは、雄介、お前も知っているはずだ。要するに、雪山を知るものならば、それは誰しも懸念するところだが、南向きに切り立つ『魔の壁』にあっては、特にそうした条件が揃いやすく、脆弱(ぜいじゃく)な新雪面は、粗目になり、滑走者へのリスクもかなり高くなるという訳だ。しかし、おれは、必死で引き留める野田の気持ちよりも、おれ自身のスノーファイターとしての身勝手なプライドの方を優先させ、氷壁のチキンレースに挑んだんだよ。------そして、あの事故は起きたんだ」
「事故--------?」
雄介は、思わず時任の言葉を復唱する。時任は、そうだと、自らに得心を強いるかの如く深く頷いてから、十五年前にあの『魔の壁』でいったい何があったのかを、努めて感情的な部分を排した視線を保持しつつ、抑制のきいた冷静な口調で述懐するのであった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
今日も、病院ネタで恐縮ですが、一昨年の秋、身体の不調で総合病院へ行ったわたしは、若い女性研修医の先生に診て頂いており、内科処置室という所で、点滴を打ってもらっていました。そこへ、急患を引き受けてもらえないかとの連絡が入り、年配の看護師さんが、その女性研修医に引き受けをOKしてもいいかと訊いたところ、いいという答えで、その救急患者は、ここへ搬送されて来ることになりました。すると、間もなく、新たな急患受け入れ要請が入り、こちらもどうしても受け入れてもらいたいとの救急隊からの連絡で、その研修医の先生は、この急患も引き受けるという返事をしたのです。しかし、返事をしてしまってから、「どうしよう。あたし一人じゃァ不安だわ・・・」と、いうことになり、病棟にいたベテランの医師に助勢を請うことに。
「急患が二人来るんですけど、助けて頂けませんか?」しかし、どうも、ベテラン先生は、他の診察で手いっぱいな様子。すると、年配の看護師さんがそこでアドバイスをしました。「何でもしますから、お願いしますって言ってみたら?」研修医の先生は、背に腹は代えられず、その通りのことをベテラン先生に告げました。
やがて、運ばれて来た急患の一人は精神科の方へ、もう一人のおじいさんの急患をその先生たちが診ることになったのですが、このおじいさん、意識が朦朧としていて、何を言っているのか全く意味不明。かなりお酒も飲んでいるらしく、「☓☓から落ちた・・・」というだけが精一杯。するとベテラン先生が、研修医の先生に、「お前、なんでもやると言ったんだから、この人が何を言っているのかちゃんと聞き取れ」と、言います。研修医の先生が、再度訊くと、おじさんは「炬燵(こたつ)から落ちた~」と、言っているように聞こえます。「炬燵?炬燵なのね?」研修医が念を押すと、それを訊いたベテラン先生が、「そうじゃない、脚立(きゃたつ)と言っているんだよ。口の開き方をよく見ろよ」と、教えました。
カーテンで、周りは仕切られていたものの、ベッドで一部始終を聞いていたわたしは、やっぱり、経験者は大したものだなァと、一人感心していたものです。そのおじいさんは、それから頭部のCTを撮るため、ストレッチャーに載せられたまま処置室を出て行きました。ベテラン先生が、そこで研修医の先生に、「一つ、貸しだな。今度昼飯でもおごれよ」------ベテラン先生の顔は判りませんでしたが、何だか、ちょっといいラジオドラマのワンシーンを聴かせてもらったような気がしました。