教員は聖職じゃない?

教員は聖職じゃない?diary




    今日の信濃毎日新聞の読者欄に、「教員を聖職とは思っていない」という中学教員の男性の投稿があった.

    彼は、教職についた時、先輩から「自分のことを教師、先生と言わない」と教わったのだそうで、自身も生徒の前では「私」と言っているとのことだった。

    そして、「自分が教師か否かを判断するのは生徒たちであり、教え子たちだと思う」とも書いている。

    


    わたしは、この投稿を読んで、少しばかり違和感を覚えた。

    何故なら、投稿者はおそらくはプロの教師だろうと思うからである。

    プロということになれば、給料をもらっているはずだ。その給料は、何処から出ているのか?

    公立校の教師ならば、もちろん自治体住民の税金からのはずである。
  
    プロ教師としてお金を頂戴している以上、「教師か否かは生徒に判断させる」という姿勢は如何なものかと思うのである。

    給料を頂くというのは、自分にそれなりの技術や器が備わっているという自信があるからこそ出来る話であり、またそうあらねばならないはずである。

    誰もアマチュアの力量しか持ち得ない人に、相当の報酬を支払ったりはしない。

    自分に対しての評価を生徒や保護者にゆだねるという考え方は、一見謙虚なようだが、それは一種の体の良い逃げ口上のようにも思えてならないのだ。

    投稿者は、文章の最後に「教員を聖職だとは思っていない。でも、楽な仕事だとも思わない。それでも生徒が好きだ。熱い中学時代を何度も生徒と一生懸命生きられるのがうれしくてたまらない」とも書いている。

    しかし、やはり子供を預ける親の立場からしてみれば、教師には聖職的な清廉潔白さや品行方正さを期待するものであるし、それが当然だと認識しているはずだ。

    ただ単に生徒が好きだ----だけでは、教師は務まらない。

    「先生は教師としてきみたちを教え導くための勉強には万全を期している。だから、安心して任せて欲しい」

    それが本来のプロ教師が生徒と向き合うべき姿だと思うのだが、如何だろうか?



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Posted by ちよみ at 17:32Comments(2)ちょっと、一息 20

どうせ、おれなんか・・・

どうせ、おれなんか・・・icon19





    日本航空が空で「婚活」をして欲しいと、「空コン」を企画するとか・・・。

    長野電鉄も、こんな感じに「電車コン(電コン)」でも企画するといいんじゃないかな?

    鉄道マニアに限らず、小旅行をベースにした合コンも、案外ウケるかも・・・。icon06






    「どうせ、わたしは、〇〇〇〇(人名)」

    この言葉、わたしの学生時代の友人たちが読めば、「そういえば、昔のコンパの席で、某医学生がいつも口癖のように言っていたなァ・・・」と、苦笑するかもしれません。

    この「どうせ・・・・」という言い方ですが、一見、気が弱そうで卑屈な、自分に自信がない人の言葉のように思われがちですよね。

    でも、あに図らんや、こういう口癖の人は、本心はかなりの自信家で、口ではマイナスのことを言いながら、実は「そんなことはない」と、思っているのだそうです。

    自分の方が優位にあると信じているからこそ、このようなネガティブ発言もすんなりと口から飛び出すわけで、このかつての医学生も、実際は相当な強心臓の持ち主でした。

    正直、わたしには、あまり彼についての良い思い出はありません。

    たぶん、他の友人たちもそうだったと思います。

    では、何か問題が持ち上がると、即座に、「申し訳ありません」と、自らの非を認めてしまうような人はどうなのでしょうか?

    こういう人も、自分のやることに自信がないからだと思いがちですが、そんなことはなく、本心では、「自分は決して悪くない」と、思っている人なのだそうです。

    では、何故こうも簡単に謝罪を口にするのか?

    そのわけは、こういう人は、とにかく面倒なことが嫌いだと思っているということなのです。

    「頭を下げて済む話なら、何べんでも下げてやるさ」と、既にその後のことを考えているせっかちな性格の持ち主だということのようです。

    だから、相手に臆して詫びているわけではないのだそうで、案外打算的な人だともいえるようです。

    人の言葉の裏には、このようにまったく逆の性格が隠されているということも少なくないというお話でした。






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Posted by ちよみ at 09:57Comments(0)ちょっと、一息 20