本当の親切とは・・・・・396
2010年02月16日
~ 今 日 の 雑 感 ~
本当の親切とは・・・・
わたしは、最近、ようやく共同浴場へ一人で入ることが出来るようになりました。
共同浴場へ行けるようになったのは、かれこれ三年ぶりのことです。その間は、ずうっと自宅の家庭風呂に入っていたのですが、二年前の入院前後の頃は、ほぼ寝たきりのような状態だったものですから、自分一人で身体を洗うことなど出来るはずもなく、母に頼るしかありませんでした。

退院して来てからも、身体はほとんど動かず、足は極度の浮腫みで丸太のような有様。もちろん、独りで歩くことも危ういほどですから、洗髪は、ご近所の理容院でお願いしていました。
その理容院では、わたしのためにフット・バスを用意して下さり、家へ帰る時も、手を引いて送って下さったりと、本当によくして頂きました。
そんなどうしようもない状態から、少しずつ身体も動かせるようになり、最近になって何とか共同浴場の温泉へ入ることが出来るようになったのです。母は、重労働のお風呂掃除から解放され、父は、水道代が安くなったと、喜んでいます。(笑)
しかし、それでも、まだ足の浮腫みが完全に治っている訳ではないので、浴室で五分と正座は出来ません。ですから、洗髪は湯船につかったままですし、身体を洗う時も、大変な思いで洗っているのです。
しかも、わたしの他に入浴している人がいる時などは、身体を洗う場所も狭く限られてしまうので、膝や脛(すね)などが圧迫され、アザが出来てしまうことすらあるのです。
ところが、そんなわたしの動きの鈍さを心配されてか、ご近所の一人の女性が、声をかけて下さいました。
「背中、流しましょうね」
わたしは、いったんは遠慮しましたが、その女性は、わたしのタオルに石鹸を泡立て、背中を洗って下さったのです。背中は、手の届きにくい場所ですから、力を入れてしっかりと洗うということが今のわたしには出来ません。
ですから、本当に、さっぱりとした気持ちになり、とてもありがたかったです。そして、その女性は、わたしがほぼ寝たきりだった時も、痛む膝を庇いながらも歩いて買い物をしなければならなかった母を見兼ねて、
「何か欲しいものがあったら、紙に書き出しておいてください。わたし、買ってきますから-----」
と、まで言って下さったこともありました。
わたしが、このような身体になって、確かに毎日が大変ではありますが、こうしたご近所の人たちの思いがけない親切に接することが出来た経験は、何物にも代えがたい幸運だったと思うのです。
「大変ね。がんばってね」-----言葉では、誰しも言うことは簡単です。でも、いざ、行動を伴うことが出来るかといえば、それはやはり難しいことです。
それを、まるで自分の家族のことのように、さりげなく手を差し伸べられるという人たちの勇気と優しさには、親切にして頂いているわたしの方が驚きであり、頭が下がる思いでした。
本当の親切とは何か-----?
それは、決して、やってやるという押し売りではなく、相手に気付かせないほどの何気ない勇気なのではないかと、思うこの頃です。

人の口に戸は立てられぬ・・・・・395
2010年02月16日
~ 今 日 の 雑 感 ~
人の口に戸は立てられぬ
人の口に戸は立てられないというが、本当に、その通りである。
しかも、事実をそのまま第三者にしゃべってしまったというのなら、まだ、そんな人間を信用した自分が悪かったと後悔することも出来るが、自分には身に覚えのない事柄を勝手にでっち上げられて、
「あの人、こんなこと言っていたよ」
などと、内通されては、たまったものではない。
わたしは、以前、傷心でふさぎ込んでいたある人に、激励の言葉をかけたことがある。ところが、その人から返ってきた言葉が、「おためごかしを言うなよ。本当は、喜んでいるくせに」と、いう思いもかけないものであった。
あとで判ったことだが、その人は、別の知人から、わたしが落ち込んでいるその人を笑っているというようなデマを吹き込まれていたらしいのである。
そういう誤解は、何処にでもあるものだが、一体だれの言っていることの方がより真実なのか、人間には、しっかりと見極める目が必要であり、それが見極められるか否かが、その人間の価値ともかかわって来るものだと、考える。
人間は、弱いものである。
仲間を募りたいと思えば、そのターゲットへの手土産の一つも持って行きたくなるというのが人情だろう。しかし、その手土産が、作り話や、でっち上げ話という場合も時にはあるのだ。
いや、仲間を増やすことが目的の場合などは、そのほとんどがそうした類のものだといっても過言ではない。
なぜならば、そういう尾ヒレを付けた話題の方が、断然、相手を引き付けやすいからだ。しかも、どういう訳か、そうしたでっち上げ話の方が、何処となく真実めかして聞こえるもので、特に、女性から男性、またその反対などの場合は、簡単に騙されてしまうという傾向もあるらしい。
それにしても、どうして人間は、そういう卑劣な手段を講じてまでも、他人との関わりをあえて持ちたいと思うのだろうか?
それほどの作り話を用意してまでも、仲間を欲しいと思うことが、わたしには理解できないことである。そんな刹那的な交わりを欲して、何か意味があるのか?たとえ、浅く希薄な友人関係でも、独りでいるよりはマシだと考えるのであろうか?
まあ、いずれにしても、そうしたものは、わたしには、愚者の脆塊としか思えないのである。

タグ :星野真澄投手