コミュニケーション力は想像力
2013年02月28日

近頃は、コミュニケーションの仕方を教える講座のようなものが盛況だそうだ。
どうやったら、相手の心を開かせてコントロールすることが出来るか・・・のようなことを、机の上で学ぶのだという。
その際は、決して相手の言い分を否定せず、悩みの原因が何処にあるのかを対話術により引き出すのだそうだ。
でも、そんなマニュアル化した会話で、本当に人の気持ちを解放できるのだろうか?
わたしなら、おそらく、相手の受け答えの一字一句、微妙な発音のニュアンスを聞いただけで、その人が本心からこちらの気持ちを理解しようとしているのか否かを疑ってしまうのではないかと思われる。
人の感性とは、微妙なものである。
こちらの言葉にどのような返事をするのか、最初の一音が何から始まるのかだけでも、相手の関心が自分にあるのかないのかは、明白になるといっても過言ではないだろう。
いや、もっと言うならば、視線が何処に置かれているか、手の位置は何処か、声のトーンは?、つま先はどっちを向いているか、口はどのように開いているかだけでも、人は人の内面を見抜くことが可能なのである。
だが、もしも、本当に心から相手と向き合いたいと思うのなら、もっとも大事なことは、そんな会話の細かなテクニックではなく、想像力の問題ではないかと思われる。
早い話が、相手の身になって考える----と、いうことである。
自分がその立場になったらどう感じるだろうか?
自分ならどうするだろうか?
自分には、何が出来るだろうか?
それが判らない人が、どれほどマニュアル化した対話術を学んでも、そんなものは絵に描いた餅でしかない。
わたしが入院した際、ある高齢の患者さんがこんなことを言っていた。
「看護師さん、一生懸命こちらの話を聞いてくれるけれど、それは、本当にありがたいけれど、きっと、あたしの言いたいことなんか半分も判っていないだろうね。別に優しくしてもらいたい訳じゃないんだよ。あたしを一人の人間として扱ってもらいたいだけなんだ」
この患者さんが言いたいことが、わたしには痛いほど伝わった。
人が人として生きている意味は、ただ一つ。そこに尊厳があるからなのだ。
自分のような者でも、他人の役に立つことが出来るという自負なのである。
上辺だけの親切など、何の役にも立ちはしない。
でも、それが本当に判っている人は、おそらくコミュニケーション講座など受講する必要はないんだろうな。
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話題あれこれ ⑬
2013年02月28日

今日は、本当に暖かくて、散歩をしていると汗をかくほどだった。
気温の上昇で、気持ちが解放されたのか、見知らぬ人からも、
「暖かくなりましたねェ」
と、声をかけられた。
山の中も春めいた日差しがいっぱいで、チョロチョロと雪解け水の流れる音があちらこちらから聞こえて来る。
小鳥のさえずりも、騒がしく木々に響く。
日光がどれほど人の心を明るくするかということを、今日ほど感じたことはない。
このまま、春に突入ということになると嬉しいのだが・・・。
土曜日辺りから、また少し寒さが戻るようだ。
せめて、使い捨てカイロを貼るほどの寒さにはならないで欲しいものである。
今日の国会の答弁で、安倍総理が江戸時代の儒学者・貝原益軒の逸話を用いて、これまでの民主党政権の不備は不問に伏すと諫めた。
まあ、それはそれとして、この逸話がなかなか含蓄のあるもので、
「貝原益軒が大事に育てていた牡丹の花を、益軒が留守の間に弟子が折ってしまった。申し訳なく恐縮する弟子に向かい、益軒は、『この牡丹の花は、楽しむために育てたものなのだから、折られたからといって怒ることがあろうか』と、弟子の失敗を許した」
と、いうものであった。
安倍さんは、民主党政治の失敗を水に流す----と、いう意味で使ったようだが、この逸話はさまざまなことに当てはまるものではないだろうか。
世間では、良かれと思ってしたことが、騒動のタネを作ってしまうということも多々あるわけで、自分が納得して行なったことに対しては、たとえ、あとでそれが裏目に出ても寛容に受け流せという意味もあるように思う。
だが、こういう気持ちになるのは、よほど人間が出来ていないと難しい。
ほとんどの人は、怒りを押し殺して諦めの境地に達することで、拳を下ろすことしか出来ないのが普通だろうな・・・。
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