リハビリは、目標を持って!・・・・79

~ 今 日 の 雑 感 ~


リハビリは、目標を持って!


    ほぼ一年ほど、寝たきりのような状態だったわたしは、副甲状腺を除去する手術の後も、足のひどいむくみなどもあって、ほとんど歩くことができない状態でした。

    点滴台を持ちながらだと、それを杖がわりに何とか歩行出来ましたが、これがないと、ほんの五メートルも自力で歩くことは難しかったのです。icon10

    それでも、病院としては、外科的治療が一通り終わった患者を、何時までも入院させておくことは出来ません。わたし自身も、早く退院したいばかりに、何とか自力で歩けるようにと、病棟の廊下に備え付けられている歩行訓練用の手すりを使い、必死で歩く練習をしました。

    すると、長い廊下の一番端に、必ず一人の若い医師が立ってこちらを見ているのです。その医師の姿は、わたしのいる位置からは逆光で黒いシルエットにしか見えないのですが、それが、わたしの手術を担当してくださった医師であることは、はっきりと判りました。その先生は、わたしが近くまで行くと、さっと姿を隠すように見えなくなるのですが、わたしが元来た廊下を戻り始めると、また、前方に姿を現わして、じっとこちらを見ているのです。

    こんな歩き方しか出来ないまま退院させなくてはならないことを、その先生も、気にされていたのかもしれません。

    わたしは、その後退院してからも、杖を使いながら、自分で言うのもなんですが、かなり一生懸命歩く訓練をしました。痛み止めを飲みながら、正にへたばりそうになりながら、家の周りを十メートル、三十メートル、五十メートルと、次第に歩く距離を増やし、ある日の通院日に、診察室までの廊下を杖なしで歩いて入室したところ、その先生は、本当に喜んで、

    「今日は、杖なしで来られたんですね。よかった----」
  
    と、おっしゃって微笑みました。自宅にいる間も、別の診療科との診療日の調整で電話をすると、すぐに直接出て下さって、毎日のように手術をして大勢の患者さんを担当されているのにもかかわらず、「足の様子はどうですか?おうちの階段は、何とか上り下りできるようになりましたか?」と、カルテも見ずに、即座に、訊いて下さるなど、その記憶力と、患者に対する真摯な気持ちに、わたしは、感謝すると同時に驚いてもいました。face08

    そんな担当医の励ましがあったことで、わたしは、何とか、根性のリハビリを続けることが出来、現在は、ほぼ以前と変わらない歩行で(自分では、そう思っているのですが・・・・)、杖なしで歩けるようになりました。icon22

    リハビリは、正直、辛いです。かなり、心身ともにダメージも受けますが、痛くても、辛くても、地道に続けることで、亀の歩みではありますが、少しづつ前へ進んでいけるものなのです。でも、それには、やはり、一人の力では限界があるように思えます。そんな時、そっと背中を押してくれる医師や友人、家族のさりげない励ましが、とても大事だと気付きました。

    今思うと、わたし自身も、自分のためであることはもちろんなのですが、あの担当医の先生のためにも頑張らねばならないと、思った気持ちが大きかったと思います。

    その先生は、「ぼくは、何処へも行きません」と、言っておられましたが、大学病院の要請で、去年の七月に別の病院へ転勤して行かれました。

    この体験から、わたしは、リハビリには目標となる物が必要だということを、認識しました。それが、たとえば、身体が動けるようになったら、家族で旅行しようという目標でもいいですし、愛する人の笑顔をみたいという目標でもいいでしょう。子供たちと、もう一度かけっこをしたいと言っていた、元プロ野球選手の清原和博さんの例もあります。

    しかし、リハビリは、わたしのように自己流でただがむしゃらに頑張ればいいというだけのものではありません。ちゃんと、専門の理学療法士や作業療法士の方々のアドバイスに沿ってされる方が、より確実な成果が現われるものと思います。

    わたしの身体は、一時、百歳の人の体力や骨密度にも劣ると言われたのですが、それが、ここまで回復出来るのですから、何事も継続が大切なのだなァと、実感しました。icon21 

    
  


もったいないは、悪いこと?・・・・・78

~ 今 日 の 雑 感 ~

もったいないは、悪いこと?


    「もったいない」の精神は、日本の素晴らしい美徳であるといった外国の著名人がおられますが、この「もったいない」の精神が、現在の日本では、実に微妙な立場にあると言えます。

    三年程前、街の店頭から老舗菓子メーカーの不二家の製品がすべて撤去されたことがありました。消費期限切れの牛乳を製品に使用していたという理由でしたが、この製品を製造していた従業員たちの話によれば、たとえ、消費期限が過ぎたとしても、製品に問題がない牛乳を廃棄するのは、創業以来の、「もったいない精神」に反することだ、との社訓に従っただけだと、いうことだったようなのです。

    また、昨年には、大阪市の高級料亭船場吉兆が、食べ残しを別の客に使いまわしていたことが発覚して、客離れが加速。廃業に追い込まれるという一件もありましたが、これも、先代の「食い物を粗末にするな」との教えを忠実に守ったための転落でした。

    他にも、やはり、老舗菓子店の赤福による「まき直し」という餡子の使い回し事件も、ありました。

    要するに、これらの老舗は、いずれも、古くからの創業者の精神である、「もったいない」を、真剣に守ったことが、自らの首を絞めることになってしまったと、言えるのです。

    そして、ここに来て、今度は、加盟店に対し弁当の安売りを制限したとして、セブンーイレブンージャパンが、独占禁止法に抵触すると、排除措置命令を受けました。消費期限切れが近い商品は、値下げしてでも売り切りたいという加盟店側と、安売りをすることで、ブランド価値が下がり、更に売れ残りが出ると考えるフランチャイズ本部との間で、激しい攻防があり、ついに当局が動いた格好になった訳です。

    しかし、この騒動も、結局はお互いに、売れ残りを出さないようにしようとの発想から出発したもので、まだ充分に食べられる弁当が、毎月一店舗当たり三十万円から四十万円分も廃棄されて行くことが忍びないという、気持ちがあればこそ、加盟店側は、本部に反旗を翻したのでしょう。

    「もったいない」の精神は、尊ばねばならないが、だからと言って、まだ食べられるとしても、消費期限を過ぎたものは買いたくない。-----そんな、消費者の身勝手が、こういう様々な事件や騒動を生んでいるのです。

    かつての美意識は、今では、ただの不衛生の異物と化しているのです。わたしの、ご近所の高齢の女性も、まだ充分に食べられる野菜や高級な果物を、少し賞味期限が過ぎたからと言って、平気で捨ててしまいます。それを、傍で見ていたもう一人のご近所の高齢男性が、皮肉な目で、こう揶揄しました。

    「戦時中は、腐った物でも平気で食べていたくせに、贅沢になったものだよ。今さら、お上品ぶるんじゃないよ・・・・」

    と------。


ハエたかる  腐肉も食いし  過去忘れ   

         すぎしひと日に  文句(もの)たれるとは

                      豊千
 
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ブログを書く理由・・・・・77

~ 今 日 の 雑 感 ~


ブログを書く理由


    この前、ある人との会話の中で、「何でブログなんか書いているんだ?」と、いう話題が出ました。

    「もちろん、人さまに読んで頂くためだ」と、わたしが答えますと、その人は、「でも、ブログは個人的日記なんだろ?なら、別に他人に読んでもらう必要はないんじゃないのかな?」と、言います。

    それなら、何もブログを書かずとも、日記帳を付ければ事足りる話です。しかし、誰の目にも触れない日記は、自分自身の備忘録にはなっても、意見を発表する場には、到底なりえません。


    「それでは、いったい、誰に向かって意見を発表しているのか」と、いうことになるのですが、つまり、世界中の人に向けてと、いうことになるのでしょうね。別に、その人たちの共感や同情心を得たい訳ではなく、もちろん、コメントが欲しい訳でもなく、とにかく、自分という人間がここにいて、こういうことを考えているんだぞ-----と、いうことを、世界中に発信したい訳なのです。でも、コメント頂くと、ギザ嬉しいですけどね。(しょこたん風)face02

    「いや、わたしは、そこまで大袈裟に考えてはいない」と、いう人がいたとしても、それは、その人の理屈であって、必然的にインターネットが世界とつながっている以上、そういうことになってしまうのですから、それが嫌なら、ブログなどやめるしかありません。ブログは、本来世界共通語の英語で書くものであるという考えのブロガーさんもいます。そして、日本のブロガーは、国内だけで盛り上がるという、極めて特殊な人種なのだともいわれるそうです。でも、英語記事を書くなど、わたしには、逆立ちしても無理ですけれどね。(^_^;)

    ブロガーの中には、ブログ内のつながりを、現実社会と結びつけて考えてしまう人たちもいますが、そういう人は、とかく、書き込まれていることを、自分に向けて書かれているに違いないなどと、思い込みがちですが、そんなことはないのです。

    だって、考えても見て下さい、ブログに書いてあることがすべて100パーセント真実であると、思っているブロガーさんが何人いますか?

    そして、そのブログも、本当に、そのブロガーさんが書いているものですか?たまには、別の人間が書いていることもあるということは、絶対ないと言えますか?また、ブロガーさんの性別や年齢だって、完璧、偽りがないといえるでしょうか?

    住所や名前が判っている場合は別でしょうが、いいえ、もし判っていたとしても、人間は、せめてブログの中ぐらいは、少しばかりの見栄や虚勢を張りたいものなのではないでしょうか?

    これを読まれているブロガーのあなただって、記事の中に、少しばかりの虚構を混ぜたことぐらいあるでしょう。いいや、わたしは、本当のことしか書いていない-----と、いうブロガーさんも、もちろんいるでしょうが-----。(因みに、わたしの場合は、半分真実、半分虚構というところでしょうか。何せ、小説ブログですから----。face03

    話が、少々それましたが、ですから、ブログの中に、書き手のブロガーさんにとって大変な出来事や、不幸なことが書き込まれていたとしても、また、幸せなことや、名誉なことが記されていたとしても、それにいちいち反応して、コメントを残さなくてはならないなどという、プレッシャーを感じることなどないと、思うのです。

    書きたかったら書けばいいし、書きたくなかったら、読み逃げすればいいのです。------と、わたしは思います。

    ブログの世界は、現実社会とは違います。いったん、パソコンの前に座って、ブロガーになったなら、現実社会のしがらみは、無視してもいいと思うのです。その区別がつかず、「挨拶もなく、非常識な人間だ」なんて、腹を立てる人に、正直ブロガーになる資格などないとさえ思います。知り合い同士が連絡を取りたかったら、電話でもメールでも、手段は山ほどあるのですから。

    もしも、たまたま、身内の不幸を書いたブロガーさんに、記事を読んだブロガーさん全員がお悔やみの言葉を書き込んだら、正に、ブログ炎上なんてことにもなりかねません。

    ですから、そういうお義理のコメントを残さなくてはならないなどという、おかしなプレッシャーを感じる必要はないのです。

    そんなことよりも、自分のブログは、何も「ナガブロ」の登録者だけが読んでいる訳ではないということも忘れて、仲の良いブロガーばかりが、ごく内輪の話で盛り上がり、サイト外の読者たちを興醒めさせることの方が、より問題は大きいのではないかと、考えます。




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アナウンサーの無礼・・・・・76

~ 今 日 の 雑 感 ~


アナウンサーの無礼


    これは、haruさんのブログへのコメントにも書いたことなのですが、かなり前の話です。

    まだ、NHK長野放送局が長野市の城山にあった頃のこと、ラジオ番組のゲストとして、出演させて頂いたことがありました。本番前の打ち合わせを、綿密に行なったのちに、収録となったのですが、この時、アナウンサーの男性は、打ち合わせとは全く違うことを、わたしに振って来たのです。

    「最近の女性たちは、自分の中の可能性を、世間に認めて欲しいために、色々なチャレンジを積極的にするようになってきましたが、それについて、どう思いますか?」

    確か、その男性アナウンサーは、そんな質問をして来たものと、記憶しています。

    わたしは、それに対して、

    「女性たちも、自分の才能や知識を眠らせておくばかりでなく、積極的に活用して行くことが大事だと思います」

    そのように答えました。すると、そのアナウンサーは、間髪を入れず、突っ込んで来たのです。

    「では、あなた自身にも、才能があると思っているんですね?」

    わたしは、一瞬、何と返事をしていいものか、迷いました。要するに、彼は、簡単に言うと、わたしをおちょくって(これは、標準語なのかな?)来た訳です。

    もし、「才能がある」と、答えれば、傲慢な人間。「ない」と、答えれば、それでも、こんな公共放送にゲスト出演するなんて、図々しい奴と、いうことになる訳です。でも、出演を頼んで来たのは、放送局の方なんですけれどね。別に、こちらから売り込んだ訳ではないですから。

    そこで、わたしは、「だって、あなただって、アナウンサーの素質と才能があるとご自身で思うから、今のお仕事をされている訳ですよね?そうでないのなら、プロではありませんよね」face03

    と、逆に反問しました。しかし、その言葉は、放送時には、しっかり削られていました。face09

    実に、意地悪で無礼な質問でした。何か、わたしに反感でもあったのでしょうか?たとえ、そうだとしても、そういう感情は、表に出さないのが、本当のプロというものです。しかも、もういい年をした、ベテランクラスのアナウンサーが、大人げないとしか思えませんでした。

    しかも、NHKなどという、一般人には手の届かないような立派な職場で働きながら、何の不満があるのでしょう?わたしには、贅沢者としか言いようがありません。

    しかし、そのあと、すぐにそのアナウンサーは、別の局へ移動になり、それきり姿を見ていません。性格的に問題があったのか、「才能」という言葉に、やけに突っ掛かって来たことを考えれば、その時の彼は、自分には、アナウンサーの才能がなかったのだと、既に自覚していたのかもしれません。icon23

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デジカメ化の悲哀・・・・・75

~ 今 日 の 雑 感 ~


デジカメ化の悲哀


    デジカメ化-----である。カメハメハ-----ではない。icon23

    すみません。ちょっと、ふざけました。<(_ _)>



    では、真面目に------。 

    最近、わたしの身の回りで、何軒もの写真屋さんがお店を閉めました。

    いずれも、わたしが、かつてフィルム写真を撮りまくっていた頃に懇意にして頂いた、地元に古くからある写真屋さんです。

    カメラのデジタル化の波に乗り切れずに、店じまいを余儀なくされたとのこと。

    撮影の仕方や、カメラのレンズの選び方、手入れの方法など、親切に教えて下さったお店だったので、本当に、残念でなりません。

    デジタルカメラは、年々、すぐれた機能の物が販売され、それも、自宅でプリント出来るような便利な世の中になって来て、写真店の利用価値が下がって来てしまったということが、閉店が続く理由なのでしょう。また、フィルム写真を撮る人が極端に減ってしまったということも、要因の一つなのかもしれません。

    デジタルカメラは、性能もよいため、色々な遊び方が出来ますし、写真も、玄人はだしの素晴らしい物が撮れますから、今や、一億総写真家時代といっても過言ではありません。

    でも、わたしは、やはり、フィルム写真が好きでした。ネガの良し悪しをレンズを使い、自分の目で確かめる時の、あのドキドキした気持ちは、デジカメにはありませんし、焼き方で、様々な顔が写真に生まれる楽しみは、自分という人間の個性その物を印画紙に刻みつけることができました。

    街を自動車で走り、その写真屋さんのお店にシャッターが固く閉ざされているのを見るにつけても、時代の流れと、歳月の経つ虚しさを感じ、ほんのちょっぴり、胸を熱くする自分がいるのです。







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濁音と鼻濁音・・・・・74

~ 今 日 の 雑 感 ~


濁音と鼻濁音


    皆さんは、言葉を話す時、濁音鼻濁音の区別をちゃんとつけて話していますか?

    濁音とは、例えば、「が」という文字を、「ga」と、発音する仕方で、鼻濁音とは、同じ「が」を、「nga」と、発音する仕方です。

    「ga」は、そのままストレートに音に出せますが、「nga」は、いったん鼻に音を引っ掛けてから「が」と、発音する訳ですよね。一般的に、この鼻濁音の発音がうまいのは、東日本側に住んでいる人たちで、西日本側の人たちは、比較的下手なのだと言います。

    下手というよりも、そういう言葉を生まれつき聞いていないために、発音の仕方が判らず、もしも、そういう発音を聞くと、不快に感じる人もいるそうです。

    しかし、日本人ならば、鼻濁音を話すことは当たり前のことで、それが出来ないということの方が、むしろ、異質なのです。

    NHKのアナウンサーは、新人教育で、この濁音と鼻濁音の違いを徹底的に練習させられるそうです。しかし、これを生れながらに使ったことのないアナウンサーは、この練習で挫折し、職場を去る例が少なくないということです。

    彼らが、最も悩むのは、どの言葉のあとは濁音でいいが、どの言葉のあとは、鼻濁音になるという区別が認識できないということなのだそうです。たとえば、「わたし、好きな、かいいの、っこう」という文章があるとして、皆さんは、どの「が」が濁音で発声するもので、どの「が」が鼻濁音で発声するものなのかは、無意識のうちに理解していますよね。それは、信州人が、この区別に敏感な県民だからなのです。(答えは、最初の二つのは、鼻濁音、最後の一つが濁音です)

    しかし、初めて聞く人には、その区別が全くつかず、これを覚えることは至難の技なのだそうです。

    発音は出来ても、日常会話で使えない。これでは、言葉のプロとしては、失格なのです。

    ところが、最近は民放テレビ局のアナウンサーやキャスターに、これがめちゃくちゃな人たちが大勢出て来てしまいました。その人たちが発音する、「」、「」、「」、「」、「」の汚らしいこと。

    あまりに聞くに堪えず、県内某民放テレビ局へ苦情が殺到し、一人の女性アナウンサーが辞表を出したという話もありました。

    濁音、鼻濁音が完璧に出来るということは、それだけ言語能力に長けているということで、必然的に知能指数の高さにも影響してくるという報告もあるそうです。

    たかが、鼻濁音------。されど、鼻濁音------なのです。

    では、皆さんで、次の文章を朗読してみましょう。

    「まだ、あそめし、まえみの、りんのもとに、みえしとき、まえにさしたる、はなしの、はなあるきみと、おもいけり」

    「ごごじ、ふん、じゅうびょう」

    「あぱん、すきな、にんんが、ならぶ、んざの、みせは、どたつ、んきん」

    上手に読めましたか?face02   続きを読む


たまには、俳句でも・・・・・73

~ 今 日 の 雑 感 ~


たまには、俳句でも詠みませんか?


    皆さんは、俳句を作ったこと、ありますか?

    この前、~今日の雑感~で、「恋句(恋の五七五)」について、少し触れましたが、「俳句を作るぞ」なんて、別に気負わずとも、普段の生活の中で、気が付いたら、考えていることが、五七五調になっていたなんてことは、時々あると思います。

    日本人の感性は、赤ん坊のころからの刷り込みとでもいうのでしょうか、やはり七五調や七七調がしっくり来るような気がするのです。たとえば、交通標語なども、単に「スピードを落として走りましょう」などというよりも、「落とせスピード、落とすな命」と、言った方が、何だかゴロがよく聞こえますし、「金は天下の、回り物」とか、「桜伐(き)るバカ、梅伐らぬバカ、松を柱に使うバカ」とか、様々な七五調が、世の中にはあります。

    そんな中でも、俳句や川柳は、そうした七五調のもっともポピュラーな形体ではないかと、思うのです。しかし、俳句にも、そういう字数に特別とらわれない、自由なものもありますが、やはり、わたしなどの素人は、ちゃんと五七五が決まっていた方が、何となく、俳句を詠んだという感覚になるものです。

    そこで、今日は、素人の手慰みながら、ちょうど、今の時季を詠んだ俳句を、書いてみたいと思います。


 五月雨(さみだれ)に 楓(かえで)艶(つや)めく 湯宿かな


   
 梅雨寒(つゆざむ)や  衣文(えもん)かきよせ  初浴衣(はつゆかた)



 梅雨晴れの  川に流れる  蛇屍(へびむくろ)



    ところで、幕末に京都で尊王攘夷の浪士たちを取り締まった新選組の副長の土方歳三も、豊玉という俳号で、俳句を作っていました。そんな彼が、三十五歳の死の直前に詠んだ句に、こういうものがあります。


 早き瀬に  力及ばず  下り鮎(あゆ)


    明治の新政府軍に追われて、北海道まで敗走する幕府軍を率いていた土方が、もはや、これまでと、観念した際の失意を詠んだ一句です。時代遅れといわれようとも、最後まで刀の戦にこだわり、「武士」としての死に様を選んだ、男の意地が感じられる句でもあります。

    因みに、わたしが持つ華道の号は、豊千ですので、何となく親近感を覚えます。

    皆さんも、お暇があったら、俳句、詠んでみませんか?face02  続きを読む


日本の女性は美しい!・・・・・72

~ 今 日 の 雑 感 ~


日本の女性は美しい!


    
    『日本の女性は美しい』-----これは、資生堂が販売している、シャンプー「TSUBAKI 」のキャッチコピーです。

    テレビコマーシャルは、SMAPが歌う「ウェルカム、ようこそ日本へ、きみが今ここにいること-----」という、如何にも女性心を高揚させるようなバック音楽が流れ、画面には、今をときめく美しい女優たちが、長い手足を伸びやかに、しなやかに動かしながら、街を歩いて行くという、実にシンプルな構成になっています。

    このシャンプーは、2006年三月の発売と同時に、女性たちの圧倒的な指示を受け、一気に業界シェアのトップに躍り出ました。そして、2007年九月には、先の赤いボトルに加え、ダメージケア用の白いボトルの「白いTSUBAKI」も発売され、現在にいたるまで、シャンプー市場の売り上げトップを維持しています。

    この資生堂戦略の見事なところは、このシャンプーに、特別の高級感を持たせて売り出したところにあります。とはいっても、価格は、それほど高価という訳ではありません。要するに、イメージの高級化です。
 
    同社は、これまでにも様々な種類のシャンプーやトリートメントを量産して来ましたが、今回は、この「TSUBAKI」シリーズ一本に絞って、市場展開を試みた訳です。そこに、必然的な唯一無二の高級品イメージが生まれ、加えて、常にテレビドラマなどで活躍している女優達の姿が、消費者の女性たちに親近感を与え、更に、追い打ちをかけるように打ち出されたのが、

    「日本の女性は美しい」------と、いう、このキャッチコピーです。

    これまでのシャンプーや、トリートメントのコマーシャルは、綺麗なモデルが長い髪の毛をさらさらとなびかせて、「このシャンプーやトリートメントを使うと、あなたも、このように美しい髪になりますよ」と、いった類の物が大半でしたが、大多数の女性たちは、「そんな訳ないじゃないの。あんな髪は、美容師が何日もかかって綺麗に手入れをし、その上で、映像効果を駆使して撮影したものなんでしょう」-----と、いった極めて冷めた感覚で受け止めていたものです。

    ところが、今回、資生堂は、「そういう『美』は、特定の女優やモデルだけのものではなく、日本女性は全員が既に持っているものなのだ。だから、日本の女性は美しいのだ」と、高らかに宣言した訳ですから、これを受けた女性の消費者たちは、今までの劣等感をかなぐり捨てて、「もともと美しいわたしたちが、より美しくなるためには、『TSUBAKI』を、使わなくては」と、なる訳なのです。

     SMAPは、歌います。「きみが、ぼくのいる、この日本に生まれて来てくれたこと、このとびきり素晴らしい運命に、心からありがとうを言うよ」と------。

     これにより、日本女性たちの自らへの期待は、確信へと変わったのです。そして、その自信の裏付けが、資生堂の「TSUBAKI」という訳なのです。こうして、彼女たちのハートをがっちりと握った資生堂戦略は、次の世代へと向かって行きます。

     母親の愛用するものは、娘も愛用するという、いわゆる「のりたま現象」です。

     これからは、以前のような急激な経済成長が見込めない化粧品業界にとって、如何にして、今までのお客を手元に引き付け続けられるかが、勝負なのです。

     今後も、資生堂は、「わたしは、誰が何といおうと美しいのだ!」と、確固たる自信を芽生えさせた多くの女性たちと共に、「美」の王道を、驀進(ばくしん)して行くことでしょう。icon06  


ちょっと、言わせて!・・・・・71

~ 今 日 の 雑 感 ~


ちょっと、言わせて!


    わたしは、ブロガーさんたちの記事を読みながら、常に、自分の意見を独言しています。

    コメント書きたいなァ~と、思っても、コメント欄がなかったり、コメントを書き込んでも、お返事がもらえなかったりで、何だか、凹むことが多いので、今日は、わたしのブログに、色々考えを書かせて頂きます。

    

    いつもアップするブログに、身体の不調を訴えておられるブロガーさん。ブログを読ませて頂くと、病院でも、その不調の理由がよく判らないとか-----。しかし、記事の様子では、日を追うごとに悪化しているようで、心配です。

    他の症状として、喉の渇きや、唾液の量が少なくなったりしていませんか?最近、手足のむくみはありませんか?

    医学的にはど素人のわたしが言うのも何なんですが、もしも、そんな症状がありましたら、一度、頸の甲状腺をエコー検査してもらったら如何でしょうか?案外、血液検査だけでは判らない病気の原因が潜んでいる場合があるんですよね。

    わたしの場合は、これを一番最初に見つけて下さったのは、何と、泌尿器科の医師だったのです。その次には、整形外科の医師が、原因は不明だが、これは尋常な状態ではないと、専門医のいる病院への紹介状を書いて下さいました。
    しかし、もっと早く、漠然とではありましたが、気付いていたのは、どうも、歯科医師の先生だったようなのです。
    ただ、これらの先生方は、病気が自分の専門分野でないために、決定的な判断が下せません。

    これらの医師の懸念を総合して、紹介状持参で内科の先生に伝えたところ、すべての根源は、やはり、副甲状腺にあることが判りました。

    そのブロガーさんの症状が、ブログを読ませて頂いていると、何となくわたしのものに似ているのです。でも、専門のお医者様が付いておられるのですから、余計なお世話かもしれませんが---。いずれにしても、わたしの懸念が杞憂に終わることをお祈りいたします。




     生後まだ間もない我が子を、保育所に預けることを決められたブロガーさん。本当に、そんなに小さな子供さんを、集団生活に慣れさせるという目的で、預けてしまっていいのでしょうか?わたしは、何だか、少し心配です。

     両親が共働きだということで、止むを得ない事情もあるのでしょうが、わたしのような独身者には、よく判りません。

     実は、わたしの周りにも、両親が共働きで、ほとんど家にいないために、小さい時から保育所に預けられ、その不安感がもとで、脱毛症になってしまったお子さんを二人見ています。いずれのお子さんも、男の子ですが、傍で見ていても、母親を慕う様子は、本当に可哀そうでした。

     もしも、保育所に預けることになっても、家へ帰って来た時は、普段の十倍もの愛情を注いで抱き締めて差し上げて下さい。赤の他人の勝手な老婆心ですが、ブログを読ませて頂きながら、そんなことを、考えさせられました。   


入院病棟24時 4・・・・・70

~ 今 日 の 雑 感 ~


入院病棟24時 Ⅳ


    入院中、わたしは、夜になると、よくトイレと格闘していました。
  
    ある時は、トイレの個室内の電気がうまく点かず、真っ暗な中、たった独りであちこちのスイッチをいじりまくり、どうしても判らず、ナースステーションへ看護師さんを呼びに行き、ようやく点灯。トイレへ入ることが出来ました。

    また、ある時は、わたしが入った個室の便器が詰まっていたため、何とか独力で詰まりを改善しようと奮闘。便器の中まで手を突っ込んで、これもやっとの思いで、詰まりを直したのです。

    そんな訳で、看護師さんたちは、昼間はぐったりしているのに、暗くなると動きの鈍い身体で病棟を歩き回るわたしのことを、かなり不思議に思っていたようです。face02

    また、消灯過ぎに、無性にお腹が空いて来て、点滴台を転がしながら、階下の自動販売機コーナーへ辿り着き、既に照明の落ちた廊下の、自販機の明かりだけの中で、ぼうっと立っていたわたしを、ちょうど、医局の部屋から出て来た顔見知りの外科の先生が見て、

    「おおっ!」icon10

    -----って、何なんですか?わたしを、お化けか何かとでも思ったのでしょうか?(ーー゛)

    
    
    そして、ある日のこと、同じ病室の身体の不自由な年配の女性が、ベッドの脇においてあるポータブルトイレで用を足そうと、周囲のカーテンを閉めて、パジャマのズボンとパンツを下ろしたところへ、タイミング悪く、別の患者の担当の男性医師がみえ、これが何を思ったものか、間違えて、声もかけずに、その女性患者が入っているカーテンをいきなり引き開けたものだから、さあ大変!

    「ヒャーッ!!」face10

    「ワオッ!!」face08

    お互いにびっくり仰天する破目に。先生は、大慌てで、「ごめんなさい」を言いながら、カーテンを閉めたものの、その女性は、いたくご立腹。「年寄りだからって、女であることには変わりないのよ!失礼ね!」と、もうカンカンでした。

    でも、わたしは、布団をかぶり、声を殺して、涙が出るほど笑ってしまいました。(((^◇^)))キャハハ!!

    いや~、この病院は、色々な意味で、何とも退屈しない愉快なところでした。わたし以外の患者さんの中にも、「今までも何度か入院体験をしているけど、こんなに楽しい入院は初めてだったわ」と、いって、退院して行かれる方もいました。icon22

    ただでさえ、憂鬱になる入院生活です。少しでも、明るく楽しく送りたいですよね。icon01  続きを読む


無神経なCM・・・・・69

~ 今 日 の 雑 感 ~


無神経なCM


    これは、何年か前のテレビコマーシャルだったのですが、あるビールメーカーのCMに、何とも無神経だと思われるものがありました。

    それは、ビール会社の工場に若い男性社員が就職し、年配の男性社員からビール造りの心得を教えてもらうというもので、しかも、その二人の社員たちは、親子だという設定でした。

    画面に流れるナレーションも、「父の精神を子が受け継ぐ。そうやって、我が社は本物の味を後世に伝えるのです」と、いうような、如何にも微笑ましく伝統的製法を重んじているといった内容の、一見グッと胸に迫る構成になっていました。

    しかし、わたしは、このコマーシャルを観た瞬間から、なんて、視聴者を馬鹿にしたCMなのだろうかと、腹立たしく思ったのです。おりしも、世の中はニート問題や、失業風が吹き始めていた頃です。ただでさえ、大手の会社への就職など一般の若者には難しいという社会風潮の最中に、親と子が、同じ会社の同じ職場、しかも大手のビール会社で働くなどということが、現実問題としてありうるでしょうか?

    もし、あるとしたら、それは間違いなく縁故採用の最たるものでしかないはずです。つまり、あのCMは、堂々と、コネで就職した若者の話を取り上げたものだということなのです。百歩譲って、あの若者に、それなりの学識と才能があったために就職試験に合格出来たのだとしても、そういうことは、就職できなかった人たちの反感を買うことは目に見えている訳で、出来れば、隠しておきたいエピソードとして、会社側も謙虚に扱うべきものであると思うのです。

    しかし、これが、個人経営の小さなビール工場で、親父のあとを息子が継ぐ-----などというCMだったとしたら、話はまた変わって来ますが------。

    わたしの友人たちの中にも、就職のためには本当に大変な経験をした者もいます。面接試験でとんでもない嫌味を言われたり、容姿をけなされたり------。どうして、こんな思いまでして就職試験を受けなくてはならないのかと、涙ぐましい努力をしたものなのです。ですから、縁故採用などで、ぬくぬくと、就職試験を突破している社員を見ると、実に腹が立つのです。

    そんな中の友人の一人が、かつて、リストラ地獄で中堅サラリーマンたちの自殺が相次いだ時、こんなことを言っていました。「わたし、あの人たちのことを少しも可哀そうとか気の毒とか思わないわ。だって、わたしを面接して馬鹿にしきった末に不採用にしたのは、あの世代の人たちなんだもの。あの時、わたしだって、真剣に自殺を考えた。だから、彼らは、自業自得なのよ」と----。   


脳死と死・・・・・68

~ 今 日 の 雑 感 ~


脳 死 と 死


    国会の衆議院では、昨十八日の本会議で、臓器移植法の改正案(A案)が可決された。

    十六日の本会議では、脳死移植の年齢制限や臓器の提供基準などを議論したそうであるが、異なる四つの案が乱立し、今のところは簡単に結論を導き出すことは困難だという討論に終始していた。

    しかし、この衆議院での今回のA案の可決により、今後は、「脳死は人の死」との立場をとり、0歳から、本人の拒否がなければ、家族の同意で臓器移植が可能となる道が開かれることに、大幅に近付いたことになる。

    現在の法律では、国内における十五歳未満の子供への脳死移植は出来ないことになっているために、海外での移植を待つしか方法がないが、それも、既に、国際的な規制がかかり始めており、アメリカやドイツなどの医学会でも、まず移植は、自国の子供を優先するべきだという空気が支配的となって来ている。

    そのため、日本人の子供は日本人の身体で救おうということなのだが、成長期にある子供は、成人とは異なる体質を備えていることから、たとえ脳死状態になったとしても、そのまま成長を続けるという例も報告されているだけに、子供の脳死は、即、「死」であると、捉えることが難しいという側面もあるという。

    それ故、我が子が脳死と宣告されても、親御さんの気持ちとしては、それを「死」とは受け入れられないという思いに至ることも、充分判るのである。しかし、片や、移植を待つ子供の親の立場にすれば、ほとんど「死」を宣告されている子供の臓器を、いたずらに放置しておいて欲しくはないという思いが、本音のところであろう。

    どちらの親も、子供のことを心底思っての結論なのだと思うが、問題は、それがたとえ万分の一でも生きている可能性のある子供の臓器を取り出してまで、我が子を生かすということの罪悪感を、移植された子供の親は、一生受け止めて行く覚悟があるのかということなのである。

    これが、医療の専門家の立場だとしたら、救急現場におけるトリアージのように、より生還する確率の高い方の患者の治療を優先することを是とする気構えが出来ているのであろうが、肉親の情というものは、それほど簡単に割り切れる問題ではないと思うのである。

    たとえ、法律が、公式に脳死を「人の死」と認めると定めたとしても、人の感情に法の網は被せられないのではなかろうか。

    しかし、また一方で、助けられる命を助けないということもまた、大いなる罪悪だという専門家もいる。正に、ジレンマのスパイラル現象である。

    もしも、今後、臓器移植法改正案が正式に国会で決議されたとしたならば、いずれにしても、脳死になり臓器提供者となった子供のために、国民すべてが、罪の意識を共有するというような心構えを必要としなければならないのではないかと、考えるのである。     


意味のわからない文章・・・・・67

~ 今 日 の 雑 感 ~


意味のわからない文章


    少し前、「ナガブロ」のブログ記事の中に、信濃毎日新聞に定期掲載されている「詩」は、よく意味が判らない。このような「詩」よりも、ある高齢の女性が書き続けている「詩」の方が、よほど心に迫る------と、いうものがありましたので、わたしも、コメント欄に、正に同感だと、書き込ませて頂きました。(お返事は、頂けませんでしたが・・・・)face07

    わたしも、趣味で時々「詩」を書きますから、人さまが書かれたものも、よく拝見しています。このブロガーさんが記事にされた信毎掲載の「詩」も、読ませて頂きました。これは、杉本真維子さんといわれるプロの詩人の方が書かれているものなのですが(そのブロガーさんが指摘されているのも、おそらくこの方の「詩」だと思います)、正直、「詩」の内容が、わたしにはほとんど理解出来ません。

    それでも、あえて、無理矢理にうがった読み方をすれば、どのようなこじつけも出来るかもしれませんが、それにしても、一般の読者にとってほとんど理解不能な「詩」が、素晴らしいものだとは、とても思えないのです。

    たとえば、こんな文章です。


    見上げると
    くろぐろとしたかたまりが
    たぶん何百羽ではきかないような数の嘴(くちばし)が
    枝裏へすばやくまわるので
    近づくと、朱色の舌が垂れ下がった
    あれは本当に、鳥なのかどうか
    

    (答えはいつも、ざりりと重い、鉄の味がした)



    このような文章が続くのですが、おそらく詩人は、ここで人間の小賢しさや集団的な陰湿さを描こうとしているのでしょうが、あまりに、表現の難意が勝ち過ぎているため、読者にはほとんどその気持ちが伝わってこないのです。

    しかし、文学会の偉い先生たちが、これを素晴らしいと評価すれば、一般の読者の気持ちなどそっちのけで、「よい」ということになってしまうのでしょう。

    わざと難解な表現を使う方が、芸術的センスに優れているというような、おかしな風潮が、とかく文壇にはあります。

    「食べた」という簡単かつ判りやすい表現よりも、「口の中の闇を満足させた」(これは、わたしが考えた文章)などという勿体付けた言い回しの方が、より知的であるというような、おかしな感性なのです。

    でも、文学も、文章です。人に読んでもらわなければ何の価値もありません。読んでもらうためには、やはりある程度読み手に、理解出来る文面が必要なのではないでしょうか?

    しかも、掲載されている場所が、新聞紙上です。せめて、これは、こういう情景を見た時の、こういう気持ちを書いたものです-----ぐらいの説明文を付記して頂きたいと思うのです。それじゃァ、せっかくの「詩」が、興醒めだ、無粋だと、言われる方もおられるとは思いますが、そういう方は、詩人の詩集でもお買いになればいいのではないでしょうか?

    言葉は、判り易く。-----一般人向けに詩を書かれる方には、ぜひ一考をお願いしたいと思う、この頃です。      
   


花園の階段・・・・・66

~ 今 日 の 雑 感 ~


花園の階段


    わたしの卒業した大学のキャンパスは、ちょうどこの季節、薔薇の花をはじめ色とりどりの花や緑で埋め尽くされ、文字通りの花園となります。

    正門から校舎まで続く長い遊歩道の両脇には、西洋庭園によく見られる石像や、彫像が並び、かぐわしい薔薇の花で彩られたアーチは、正に秘密の花園といった雰囲気を醸し出しています。

    そんなキャンパスを、神父様やマスール(シスター)たちが僧服をひるがえしながら闊歩し、いつも学生たちの話し声や笑い声がさざめいていました。

    そして、その大学の校舎内の一角には、不思議な階段があったのです。

    教授室などが並ぶ棟の三階から二階へ降りる階段で、踊り場のところまで来ると、いきなり、天井から水が落ちて来るような音がするのです。

    それも、ピチャッ!------などという可愛らしいものではなくて、思いっ切りバケツで水を浴びせるといった感じのバシャッ!-----と、いう豪快な音なのです。そのことを知らない新入生などは、頭から水をぶっかけられたと思って、慌てて髪の毛を触り、仰天します。

    わたしも、始めは何のことか判らずに、本当に驚きました。が、そんなある日、一緒に階段を降りていた友人も、このバシャッ!にびっくりして、再び階段を上って逃げようと焦り、そこに立っていた壁に正面からぶつかったまま、一瞬身動き出来なくなってしまいました。つまり、それに張り付いた格好になってしまったのです。

    「〇〇ちゃん!大丈夫?」

    わたしも、他の学生の友人たちも、叫んでから今度は思わず込み上げる笑いを抑えるのに必死でした。何故なら、彼女が張り付いていたのは、校舎の壁ではなく、ちょうど教授室から出て来られた、神父様の大きなお腹だったからです。face08

    張り付いた友人は、恥ずかしさで顔面真っ赤でした。

    でも、その水音は、必ずいつも聞こえるという訳ではありません。実に気まぐれな音で、聞こえる時と聞こえない時があるものですから、その階段を常に利用しながらも、一度も聞いていないという人もいたのです。

    そんな訳で、ある友人は、その音がすると、「ああ、気まぐれ天使が、また、水がめをひっくり返したよ」-----なんて、呆れていました。

    あの階段の不思議な水音は、今も聞こえるのでしょうか?

    もしかしたら、本当に、天使のいたずらだったのかもしれないと、微笑ましく思い出します。icon06

        
  


Posted by ちよみ at 12:23Comments(2)不思議な話

仲間と派閥の違いとは?・・・・・65

~ 今 日 の 雑 感 ~


仲間と派閥の違いとは?


    「ブログとは、怒りと愚痴の目安箱である」と、言った人がいますが、言い得て妙だと感心します。

    わたしも、疑問や憤懣をブログに書きますが、「ナガブロ」も、色々読ませて頂くと、そういう記事を思う存分書いているブロガーさん、たびたび目にします。

    皆さん、鬱積した思いを、ブログにぶつけてストレス解消をしていらっしゃるんですね。


    ところで、話は変わりますが、皆さんは、「仲間」と、呼ぶことのできる友人を何人お持ちでしょうか?この「仲間」と、いうグループの単位は、意外に難しい要素を持っているように思うのです。わたしが考えるに、「仲間」というものに、実質、リーダーは、存在しないのではないかと------。

    結束も、固い絆とはいうものの、それは決して、一人一人の自由を制限するものではなく、ある一つの目的に対しては、一致団結することはあっても、原則として個人個人はかなりアバウトな結びつきで構成されているものではないのかと思うのです。

    それに対して、「派閥」というものは、必ずそこに中心となるボス的な人間の存在があり、そのボスを頂点にピラミッド型の友人関係を構築するといった、明らかな力の優劣が介入するのです。

    ですから、ボスは、常に周りの人間が誰とどのような付き合い方をするのか、監視しています。そして、自らの「派閥」を、より大きく強固にするためには、あらゆる手段を講ずるのです。もはや、そこに、真の友情や自由は存在しません。政治家たちの「派閥」が、正にそれですよね。

    それに取り込まれた人たちは、いつもボスの顔色をうかがいながら、生活をしなくてはならないのです。

    これは、ある旅館で働く仲居さんに聞いた話ですが、仲居さんの中にも、「派閥」は存在し、その人間関係で参ってしまう人は、旅館を辞めざるを得ないことになるのだそうです。そのきっかけも、ごく単純なことで、休憩室の荷物の置き場などを巡っての、争いから始まるのだとか。

    そこで、旅館の経営者が一計を案じ、荷物を休憩室の部屋の畳の上ではなく、フックに掛けるように指導したところ、あっけなく「派閥」は、解消したのだそうです。

    その話を聞いて思ったことは、力の強弱が存在するグループなどに、真の心の安らぎなどないということです。

    やはり、どうせ友情をはぐくむのなら、「派閥」などよりも「仲間同士」となる方が、より人として健全な関係が作れるのではないかと、考えるこの頃です。icon06



    本日もまた、わたしの小理屈にお付き合いくださりありがとうございました。<(_ _)>  


激   痛・・・・・64

~ 今 日 の 雑 感 ~


激    痛


    頸の副甲状腺を取り除く手術が終わると同時に、今度は、身体中の骨が血液中のカルシウムを急速に取り込もうとし始めます。

    その吸収の仕方は、すさまじく、とても口から摂取したくらいでは追い付きません。そのため、胸の静脈から直接カルシウム輸液を送り込むための中心静脈カテーテルを挿入し、一日に1.5リットルもの液体をどんどん注入して行くのです。

    そうなると、骨はますますカルシウムを吸収し出し、その時、身体中は、ものすごい痺(しび)れに襲われます。そして、その痺れは、さながら無数の剣山で身体中を刺されているような痛みなのです。

    頭をさわっても、顔をさわっても、皮膚に触れているという実感はありません。無数の針が出ている鉄板で身体を巻かれて、その上から撫でているという感覚しかないのです。

    そして、問題はそれだけではありません。身体の栄養失調が原因なのか、腎臓の機能がかなり低下しているために、カルシウムと共に入れる輸液の水分が体外に排出出来ず、その水が身体中の細胞に溜まり始めます。

    わたしの場合は、まず、左足の甲からむくみ始め、次は右足、更にそのむくみは次第に足の上部へと上って行き、両脚は、さながら丸太ほどの太さにまで膨れ上がり、それが下半身の方まで溜まり始め、ついには、肺にも水が溜まり始めてしまいました。それでも、骨のカルシウム吸収はおさまりません。もちろん、口からも一日16グラムものカルシウム剤を服用します。

    ここまで来ると、さすがの担当医の先生も、焦り始めました。これ以上身体に水分がたまると、肺水腫を起こし、呼吸困難で最悪の事態になりかねないとのこと。骨にカルシウムを入れないと、命にかかわる。かといって、これ以上輸液を入れ続けると、窒息死するかもしれない。-------正にジレンマです。

    この頃になると、わたしの両脚は、片足だけで約5キロの水分を蓄えてしまっていましたので、とても自力で歩くことなど出来ません。若い外科医の先生は、この足を見た瞬間、「わァ!」と、言って仰天し、病室を出て行ってしまいました。face08

    痛みも相変わらずで、そんなこともあり、手術前の予定の入院日数をはるかに超える病院生活となってしまったのです。

    その恐ろしいむくみは、今も完全には治っていません。(以前よりはかなり細くはなりましたが)ですから、わたしは、正座が出来ません。まあ、痛みの方は、かなり解消されてきましたが、それでも、曲がった背骨はまだ完全に伸びてはいませんし、体力もなく、毎日が懸命の状態で生きているといった有様なのです。icon10


    

      


観光地に未来はあるか?・・・・・63

~ 今 日 の 雑 感 ~


観光地に未来はあるか?


    天然温泉とスキー場で有名な県下の観光地は、おしなべて夏場の観光業が不得手だと言われます。

    特に、平成の大合併で、あえて自立を選んだ観光業中心の自治体にとって、これは、今後ますます大きな課題となって行くはずです。

    もはや、人々の趣味の多様化もあって、以前のように温泉とスキーだけを目玉にした誘客に頼ることは出来ず、観光業そのものが頭打ちとなっている現在において、他の観光地との差別化を図るためには、どうしても、これまで手薄であった夏場の魅力の開花に着手しなければ、地域全体が立ち行かない事態になりつつあるのです。

    たとえば、自立の道を選んだ野沢温泉村も、そんな夏季の集客には頭を悩ませており、最近になってようやく検討会を設けることになったそうです。、飯山市の戸狩温泉スキー場などが、1990年代半ばから既にグリーンシーズンの小中学生向け自然体験学習の受け入れを始めたことに比べれば、実に、遅いスタートといえます。

    しかし、野沢温泉村には、山や湖があり、同村がこれを本格的に活用し始めたなら、かなりの効果を上げるのではないかという試算もあります。

    一昨年、わたしのところにも、自治体からグリーンシーズンにおける地域の活性化に関するアンケート調査票が送られて来たので、とにかく、街が沈滞ムードでは、せっかく来てくれた観光客もガッカリし、リピーターにはなってくれないだろうから、とにかく、街中に人間の姿を登場させることから始めた方がいいのではないかと、提案しました。

    たとえば、あでやかに着飾った芸者衆に日に一度は街を歩いてもらうとか、観光客には、出来るだけ徒歩で観光をしてもらうために、街中の名所旧跡を巡りながら、各商店などに足を止められるような、「ご長寿・健康コース」「美肌・ダイエットコース」「ニコニコ・ファミリーコース」等々を設けてみるとか、はたまた、一般の観光客飛び入りで、既婚未婚を問わない「夏美人コンテスト」などを行うとか------そんな、様々なアイデアを書いて提出しました。

    更に、近年は、街の中の小売店が、後継者不足や大型店に押される影響から、軒並み店を閉め、お年寄りたちの買い物の足が奪われているため、家に閉じこもりがちになり、他人との関わり合いが少なくなることで認知症になる確率も高いと言われていることなどからも、自宅前から乗れるデマンド式の「買い物・通院用バス」を、整備して欲しいとの要望も出したのですが、結局、ただのご意見拝聴のみで、その後も、ほとんど何の対策もとられませんでした。

    つまりは、その自治体に本気になって地域活性化策に取り組もうという熱意がなければ、どんなアイデアも単なる机上の空論で終わってしまいます。要するに、未だにそれほどの危機感が行政側にないということなのでしょう。しかし、街の沈滞ムードは、年を追ってひどくなるばかりです。

    対策を考えるのは、既に遅すぎるくらいなのだということに早く気付かなくては、観光地に未来はありません。

    「この街って、何処に商店街があるの?」

    外を歩いていたわたしを呼び止めて、そう訊ねる観光客に、いつも返す言葉が見付からないのです。face07      


栄光の翼

「詩」


栄 光 の 翼


    友よ聴け

    この萌芽の息吹を

    残雪のきしみを  
   
    広大な地平よりわきあがる   
    
    暁の凱歌を

    さあ

    涙を拭け
 
    立ち上がれ

    沈黙の白夜は
    あけて

    今こそ

    新たなる未知
    の光

    若きアポロンの
    目覚めだ

    君には判るか

    ぼくの鮮血のたぎりが

    魂の躍動が

    共に歓呼し

    ともに苦悩する

    信頼と情熱を

    分かち合う仲間よ

    汗と泥にまみれて

    歯をくいしばる

    結実の

    一投に

    一打に

    なんと強い友情の手ごたえ

    なんと素晴らしい生命の飛翔

    友よ見るがいい

    あの青雲の彼方を

    栄光の翼も雄々しく

    ほら

    純白のタカが

    舞いあがるぞ    
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Posted by ちよみ at 12:20Comments(4)

中央大教授殺害について・・・・・62

~ 今 日 の 雑 感 ~


中央大教授殺害について



    中央大学の高窪統(たかくぼはじめ)教授刺殺事件のニュースをテレビで観た時、わたしの父は、開口一番、

    「これは、恋愛関係の縺(もつ)れだな・・・・・」

    と、言いました。わたしは、教授が殺害されたということであるし、事件がキャンパス内で起きたこともあり、教授から単位をもらえなかった学生の逆恨みによる犯行だと思ったものですから、そんなことは考えられないと、言いました。しかし、父は、

    「単位をもらえなかった逆恨みならば、あそこまで残忍な殺害の仕方はしないだろう。しかも、待ち伏せまでしていたようだし、間違いなく色恋がらみだよ」

    と、言って譲りません。それじゃァ、その犯人の女性は、大学関係者ってことなのかな?被害者の教授は、家系も学者一家で素晴らしいって話だし、見た目もなかなかの好男子で、学生たちにも人気のある先生だそうだから、女性にも持てただろうしね・・・・・。と、わたしが言いますと、父は、

    「犯人は、女性とは限らないよ。あの刺し方は、かなりの力を必要とするから、犯人は、男ってこともあり得るよ」

    と、更に言いますので、そうか、つまり、女性の他に共謀犯がいるんだな------と、わたしは、考えていました。しかし、逮捕されたのは、高窪教授の元教え子の男性が一人。専攻していた電気関係の職業に就けなかったという不満から、教授に就職先を斡旋して欲しいと相談したようなのですが、それがうまくいかなかったための逆恨みとのこと------。加えて、社会生活に馴染めなかったことも、すべて高窪教授のせいだと責任転嫁をして、殺害に至ったようです。

    しかし、その裏には、もう一つの動機が隠されていたようで、2003年末に高窪教授と大学院生、学部生が開いた忘年会に、容疑者の男性が出席した際、「自分は、隅の席にいて先生に話しかけられず、独りで酒を飲んでいた。みんなが(先生と楽しそうに話をしていたので)羨ましかった」と、いうことが、今回の事件を起こす引き金になっていたとも言われているのです。

    これは、わたしの想像ですが、この容疑者の男性は、高窪教授を心底慕い、その気持ちがうまく伝えられないままに大学を卒業。しかし、就職も希望する会社には入れず、悶々と日々を過ごすうちに、学生時代の楽しかった時間を思い出し、高窪教授に会って相談をしたものの、期待する返事がもらえなかったために、落胆し、その感情が次第に復讐心とすり替わり、今回の事件に至ったということではないのかと、思うのです。(ちょっと、文章が長いな)icon10

    そう考えれば、これも確かにある意味、恋愛感情の縺れといえるのかもしれません。

    親離れ、子離れできない人間が増えつつある今日、中には、学校生活離れが出来ない人間もいるのかもしれません。この容疑者の男性にとって、高窪教授は、自分の憧れであり、彼の居場所は、もはや、大学にしかないと思い込んでいたのではないでしょうか。それが、裏切られたという絶望感からの暴走。

    しかし、こんなことは、決して許されることではありません。恩師である教授を殺害することは、自分自身をも消滅させることになるという事実に、容疑者の男性が思い至らなかったことが、今更ながら残念でなりません。     


そんなに自分が大切ですか?・・・・・61

~ 今 日 の 雑 感 ~

そんなに自分が大切ですか?


    要領がいいのか、それとも根っからの卑怯者なのか、自分に都合の悪いことは、すべて人のせいだと言い張る女性がいます。
    自分が、どうしても行きたいコンサートがあって、でも、元来気が小さいものだから、独りで行くことは抵抗があります。それに、コンサート会場まで電車やバスを乗り継いで行くなど、とても一人では怖くて出来ません。そこで、彼女は、わたしに声をかけて来ました。
    
    「一緒に行って欲しい」と、いうのですが、彼女の性格は嫌というほど知っているので、最初は躊躇いました。が、それでも、あまりに頼むので、渋々同行を承諾しました。ところが、待ち合わせの時間になっても、一向に彼女が現われないのです。嫌な予感はしましたが、一応電話をかけると、彼女の母親が電話口へ出て、

    「ああ、ちよみさん。さっきから、うちの〇〇、ちよみさんが来るのを待っているんだけれど、どうしたの?誘った方が遅れちゃ困るわよ」

    「はあ~?」------と、まあ、一事が万事、こんな調子で、彼女は、いつも自分は被害者を装うのです。わたしは、彼女の母親に、「誘ったのは、〇〇さんの方なんですよ。彼女の方から迎えに来てくれる約束なんですが、いつまで待ったらいいんでしょう?」と、返事をしました。すると、その母親は、ひどく驚いた様子で、電話を切りました。

    また、こんなこともありました。その女性は、いつもは会社の事務職をしているのですが、それでも時には営業の外回りをしなければならないこともあって、わたしの知り合いの男性に、商品を買って欲しいと頼んだのだそうです。男性は、彼女のことも知らない訳ではなかったので、それを購入することを承諾。彼女が商品を届けてくれるのを待っていたのだそうです。

    しかし、いつまで待っても連絡がないので、不審に思って彼女の会社へ問い合わせたところ、その商品の担当者から、「あなたからのご依頼の品ですが、そちらがどうしてもと、おっしゃるので、やっと今日取り寄せました。引き取りに来て下さい」と、言われてしまったのだとか。つまり、男性は、自分から商品を売って欲しいと頼み込んでいたことになっていたのだそうです。

    彼は、憤慨し、「そっちが買ってくれと頭を下げるから、その気になったが、そういういい加減な報告が会社へされているのなら、もう買うつもりはない。人を馬鹿にするのも大概にしろ!」と、言って、それきり彼女とは口もきいていないのだとか----。

    どうして、こんな風に、自分はいつも関係ない、自分から物を頼むような格好の悪いことはしていないことにしよう-----などという態度を取るのでしょうか?嘘は、すぐにバレるのに------。かつて、旅行先で友人たちとタクシーに乗っていて事故に遭った際も、警察の事情聴取に友人たちが答えている最中、彼女だけは、そっとその場からいなくなっていたのだとか。

    わたしが思うに、彼女は、自分が旅行で楽しんでいることを両親に知られることさえも、嫌だったのではないでしょうか。自分は、常に物事の傍観者でいたい。楽しいことではしゃぐような低俗な人間ではない。自分は、いつも仕方なく相手に合わせているだけで、何かことが起きた時は、決して関わり合いになりたくない。------そんな、自己保身の究極的性格なのではないかと、最近思うようになりました。

    彼女は、これからもずうっと、このような生き方を続けて行くつもりなのでしょうか?周囲の信用をすべてなくしながら・・・・。そこまで、自分自身を大切に擁護しなければ生きられない理由が、何処にあるのか、わたしには、皆目判りません。face09