八十歳だって歩けるようになる!・・・・・615
2010年06月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
八十歳だって歩けるようになる!
散歩の途中で、近所に住む八十代前半の主婦に出会った。
「今、お医者さんへ行って来た帰りなのよ」
あまりに重傷であったために、近くの総合病院では受け入れてもらえず、長野市の大きな病院へ救急車で向かい、手術を受けたのだそうだ。
しかし、一緒に住む娘さんも病弱なため、遠くの病院までは面会に行くことが出来ないというので、ある程度傷が回復したのちは、近くの病院へ転院し、そこで毎日リハビリに励んだのだという。
自分が寝たきりにでもなったら、病身の娘に負担をかけることになる。そんなことは、死んでも出来ないと、既に八十代にもかかわらず、主婦は必死で辛いリハビリを耐え抜いたのだそうである。
そして、三ヵ月の入院を経て退院したのちも、杖を頼りに雪の日も雨の日も懸命に歩き続けたのだという。
あれから、五ヵ月。
もう、杖なしでスタスタと歩けるようになった。
「毎日欠かさずウォーキングして下さい。一日でも欠かすと、その一日を取り戻すのに、三日かかりますからね」
医師の言葉に忠実に従い、寝たきりになるところを回避した。
今もそのウォーキングは欠かさずに続けている。杖は、未だに折りたたんで用心のためバッグの中に入れてはいるが、それを使わなくてはならないことは、ほぼないという。
どれほど高齢になっても、本人の覚悟と努力があれば回復するのである。また、元のように歩けるようになるのだ。
これで、証明された。
身体の何処にも病気はなく、単に筋肉が落ちているだけで足が痛いといっている人は、結局、自身の努力が足りないからなのだと----。
歩けるのに歩かない。それで、足が弱くなってしまい、ますます子供の世話にならざるを得なくなったという高齢者がどれほど多いことか。
年のせいだからしょうがないなどという理屈は、もはや通らない。
そんな気分にすらなってしまうほどの、八十代主婦の頑張りであった。 続きを読む
安かろう、良かろう・・・・・614
2010年06月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
安かろう、良かろう
「安かろう、悪かろう」という言葉は、良く聞きますよね。
確かに、安価なものには、それなりの価値や使い勝手しかないようにも思えますが、わたしは、そればかりではないと思います。
こんな売り文句で商売人は、客に出来るだけ高いものを売りつけようとします。
でも、長く使えますって、これから何年生きるというのでしょうか?
50年?100年?----それだけ、使えることに何か意味がありますか?
わたしの家のご近所にかなり贅沢な暮らしぶりの奥さまがいましたが、「出来るだけ良い物を長く使うためと思えば、高価な物がいいわよね」と、言って、バッグでも着物でも帯でも、室内インテリアでも、それはそれはお金をかけたものを買っていました。
それもこれも、娘や孫も代々使えるようにとの考えもあってのことでした。
そして、その奥さまは八十歳になった時、一人娘さんに自分のこれまで買って来た物を譲ろうとしたのですが、娘さんが言うには、「大迷惑だわ。あんな、時代遅れの使い勝手の悪い物、いくら高級品だからって、わたしが使える訳ないでしょ。流行だってあるんだし、あんな無駄遣いをするお金があるのなら、現金でもらいたかったわよ」とのことでした。
高価な物を買う時は、皆、長年使えるものだからとか、孫子の代まで使えるし・・・とか、思いますが、孫子が使ってくれる保証など何処にもありません。
要するに、単に自分が欲しいだけのことで、何か理由を見つけて罪悪感なく買いたいがための口実が、「孫子のため」なのです。高い物は、良いなどという理屈も、結局は、それを自分が納得して買うための言い訳にすぎないのです。
それが証拠に、今の日本で売られている物に、そんなに質に違いのある物はありません。
デザインに関しては、むしろ安物の方が優れている場合さえあります。
わたしは、出来るだけ安いもので、自分のセンスと合致するものを選ぶようにして買い物をします。わたしには、子供もいませんから、まずは自分が満足でき、納得できる物が必要なのです。
それが証拠に、わたしは、たった500円の服を10年経ってもまだ着ています。1000円の靴が気に入っていて、5年以上も履いています。
何も値段の高い物ばかりが本物ではありません。
人間だって、同じです。肩書きのたくさんある人が、素晴らしい人とは限らないはずです。
高い物は良い----日本人の目は、他の国の人たちよりも本質を見抜く力に優れているといわれているのですから、もう、こんな認識を改めても良い時代なのではないでしょうか?
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