言葉の魔術・・・・・935

~ 今 日 の 雑 感 ~


言葉の魔術




    言葉というものは、同じことを話すにしても、その言い方で相手への影響がまったく異なって来るものである。

    以前、このブログに書いたが、何か人に訊ねる時にも、相手が答えられやすい訊き方と、答えにくい訊き方があるのだ。

    「あなたは、どんな映画が好きですか?」

    いきなりこう訊かれても、訊かれた方は、映画のジャンルを訊かれているのか、それともタイトルそのものを訊かれているのか、戸惑ってしまう。

    いや、そもそも、質問を投げかけられた人が、映画自体を好きかどうかも判らない。

    そういう時は、まず、

    「あなたは、映画をよく観る方ですか?」と、訊ねてから、「ええ、よく観ますね」と、返事が来たら、

    「では、どういうジャンルが好みですか?アクション系?恋愛系?それとも、ホラーかな?」

    と、具体的に種類を持ち出してやることで、相手も返事がしやすくなるというものなのだ。

    「主に、往年のラブストーリーを良く観ます。オードリー・ヘップバーンが好きなので・・・」

    「そうですか。では、ヘップバーンの映画で、何が一番好きですか?」

    「『ローマの休日』が最高ですね!」

    こういう具合に話を運んで行くと、相手の好みや趣味がはっきりと判るのである。

    一見、まるで、英会話の教材かとも思えるような言葉運びだが、これが案外会話を長続きさせるコツでもあるのだ。

    実は、先日、どうにも会話が噛み合わないことがあった。

    母親を二度目に病院へ担ぎ込んだ時、担当して下さった医師が、ベッドで横になる母親に向かい、

    「何回、吐きましたか?」と、訊ねた。

    母親は、「吐きっぱなしです・・・」と、答える。

    母親にしてみれば、自動車に乗っている間中、常に間断もなくビニール袋の中へゲェゲェやっていたので、そう答えたのだが、担当医師は、おそらく、

    「胃の中の物が口から出たのは何回ですか?」

    と、訊きたかったのだと思う。そう質問されていたら、たぶん、母親も、

    「胃の中は、もう空っぽですから、黄色い水のような物しか出ませんでした」

    と、答えられたのである。

    つまり、言葉とは、ちょっとした言い回しの違いで、相手の答えも変わって来るのである。

    また、答えにくくもなったり、気軽に返事が出来たりもする。

    些細なことだが、言葉の選び方一つで、重大なことを聞き出すことが出来たり、逆に聞き漏らしたりもするのだ。

    相手が返事に困っていたら、まず、自分の方から具体例をあげて、相手がYESかNOで答えられるような質問の仕方をお勧めする。

    そうやって、小さなとっかかりが付けば、今度は簡単に相手の方から色々と話し出してくれることもあるのだ。

    
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大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」・・・・・934

~ 今 日 の 雑 感 ~


大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」




    今年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」に対する評価が、真っ二つに分かれているそうですね。

    究極の駄作だ----と、いう人たちと、判りやすくアクがないので安心して観ていられる----という両極端の意見の人たちがいるとのことです。

    しかし、割合的には、辛口評価の人たちの方が断然多いようで、脚本に対する酷評が大半を占めているといいます。

    今回の脚本を担当しているのは、同じく2008年の大河ドラマ「篤姫」の脚本を書いた作家だそうで、この「篤姫」が女性たちの間でかなりの高視聴率を稼いだこともあり、再びの登板となったようです。

    ところが、今度の「江」に関しては、どういう訳か以前の華やかさや物語のキレがいま一つで、俳優たちの演技にまでそれが影響し、つじつま合わせの感が強い、その場しのぎのストーリー展開になっているとの意見が多いそうです。

    つまりは、「篤姫」の時は、原作がしっかりしていたので脚本家に特別な文才がなくてもあのくらいのドラマ内容には容易になったということです。

    ところが、今回の「江」に関しては、脚本家がほぼすべての筋立てを考えなくてはならないために、その力量のなさが露呈してしまっているとの見方をする視聴者も多いとのことでした。

    確かに、どう考えても年端もいかない九歳の娘の江が、伯父・織田信長や明智光秀に意見するようなシーンは、あまりに荒唐無稽と言わざるを得ません。

    まあ、上野樹里が、九歳児を演じることがそもそも荒唐無稽の事態なのですけれどね。(笑)

    でも、もしも、この役を年相応の子役が演じていたとしたら、また、受ける印象はかなり変わったのではないかと思うのです。

    わたしは、以前から、時代劇が現代劇と最も違う要素は、子供も大人も同等な目線で描けるというところにあるのではないかと思っているのです。

    つまり、子供を子供扱いせずに描けるということで、昔、「編み笠十兵衛」という高橋英樹主演の時代劇がありましたが、ここで、主人公の十兵衛が、幼い男の子を前にして、まったく大人に向かうような丁寧な口調で話しかけるシーンがありました。

    こういう物語設定は、現代劇では絶対にありえません。

    しかし、「女子供」というようなくくりで、子供を一人前以下として扱うようになったのは、おそらく明治以降のことではないかと思います。

    その前までは、たとえ十歳の子供といえども、身体は小さいものの精神は一人前の大人と同様に扱っていたものです。

    そのことを考えれば、「江」のストーリー構成も、あながち間違いではないのかもしれません。

    わたしの聞いた話が正しいとすれば、江は、こののち十一歳という年齢で嫁ぎ、十四歳の時お腹に子供がいるにもかかわらず出戻ります。現在の法律に照らせば、正に犯罪ですね。

    そんなこんなで、生涯にわたり三度もの政略結婚を強いられ、戦国という時代の中で子供を産む道具同然に使いまわされたというのが江という女性の真実の姿なのだそうです。

    でも、結局、彼女がいたことで、織田信長の血が徳川幕府へと引き継がれ、信長は江を通して天下を掌中にして太平の世を築くという野望を成し遂げることになったわけです。

    本能寺の変の際、自害した信長の遺体はついに発見されませんでしたが、のちに江が家康の子の徳川秀忠との間に儲けた家光(一説には秀忠の子ではないとも言われる)が、さしずめ信長の生まれ変わりではなかったか----と、考えることも出来るのです。

    何故なら、信長は森蘭丸などの小姓を寵愛していたという説もあり、家光もまた女性には興味を示さないことで有名な徳川幕府の三代将軍だったからです。

    歴史には、さまざまな要素が想像されてこそ、面白みもあるというものです。

    今回の大河ドラマは、一話完結の戦国版「のだめカンタービレ」として、楽しむのもアリではないかと思います。  続きを読む


目に見えない不思議な力・・・・・933

~ 今 日 の 雑 感 ~


目に見えない不思議な力



  
    「九死に一生を得る」と、いう話を耳にする時、そこに不思議な偶然の力が働いているのではないかと思える場合がある。

    たとえば、ある男性は、1923年の関東大震災の際、家のトイレに入っていたのだが、向かいの雑貨屋にたくさんの風鈴が下がって鳴り響いている様子を見たくなり、トイレから飛び出して家を出た瞬間に、あの大地震が起きた。

    後ろを振り向くと、自宅がぺしゃんこにつぶれていて、正に命拾いをしたということである。

    また、ホテルの火災が起きる直前に、用事が出来てそのホテルを離れ、九死に一生体験をしたとか、墜落した旅客機に乗るはずだった男性が、空港で突然腹痛を起こし、一便遅らせたおかげで助かったなどという話もある。

    こういう話を聞くたびに、何かしら、人間の能力では考えられない目に見えない力が働いて、その人たちの窮地を救っているように思えるのである。

    実は、先日、亡くなった叔父の家へ行こうと家を出た両親の件も、それに似通ったシチュエーションが重なっていたような気がするのだ。

    両親が家を出る前、叔母の家の住所がうろ覚えだったので、親戚の家へ電話をかけて訊ねたところ、

    「連れて行ってもらったことはあるが、よく判らない」

    との返事。思い返してみれば、もう既にこの時点からおかしな状況だった。

    そして、叔母の家の住所が判らないまま、自動車で走り続けるうちに母親がひどい車酔いになり、父親だけは何とか叔母の家までたどり着き悔みを述べることが出来たが、結局、母親は行けずじまい。

    その帰り道、ついに母親が動けなくなる。

    そのまま、しばらく休んでいれば酔いもおさまり、もう一度叔母の家へ行くこともできたようだが、想定外に、周囲の住人たちが何人も出て来て救急車を呼んでしまう。

    救急車で病院へ運ばれて治療を受けるが、どうしても動けない。

    とうとう、昼過ぎから夜中まで病院で過ごすこととなり、母親は叔母の家へ行けなかったのである。

    まるで、何物かの力が働き、母親を叔母の家へ行かせまい、行かせまいとしているかのように、わたしには思えた。

    こういうことが重なる時は、決して無理をせず、運気の流れに逆らってはいけないと聞いたことがある。

    わたしは、別段、運命論者という訳ではないが、人も動物である以上、もしかしたら、本能の何処かでそうした危険や災いを無意識のうちに察知している可能性も無きにしも非ずなのだ。

    しかも、なお不思議なことに、この日、わたしだけが家へ残ったのは体調に不安があるからだけではなく、何故か、甥から電話が入るような気もしていたからである。

    すると、案の定、甥が高校入試合格の電話をかけて来た。

    人生には、予期せぬ出来事というものがある。

    しかし、よくよく考えてみれば、それもすべてその人間自身が引き寄せていることで、単にそのことに気付いていないだけなのかもしれない。

    そんなことを、ちょっと考えるきっかけになった、今回の出来事であった。

    

    

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犬は怖いが、タバコは欲しい・・・・・932

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犬は怖いが、タバコは欲しい




    「ふぐは食いたし、命は惜しし」

    こんな戯れ歌を聞いたことがあるが、昨日、これに似たようなことがあった。

    一人の青年が我が家を訪れ、

    「タバコが買いたいんですけれど・・・」

    と、言う。こちらが、

    「うちは、タバコ屋じゃないですよ」

    と、言うと、

    「それは、判っているんですが・・・」

    と、何とも歯切れが悪い。

    「実は、タバコの自動販売機のあるお店で買いたいと思っているのですが、そこに犬がいるんです」

    青年は、犬が大嫌いなのだそうで、自分の代わりにタバコを買って来て欲しいというのだ。

    「お金は、出しますから、お願いできないでしょうか?」

    確かに、そのお店には犬がいる。でも、大人しい犬で、人に吠えかかるということは今まで一度もないし、むしろ、客が来れば家の中へ入って、家人を呼んで来るほどの賢い犬である。

    「あの犬なら、大丈夫ですよ。体は大きめですが、何も悪さはしません」

    こちらが説明しても、青年は、やはり怖いと言う。

    確かに、犬嫌いの人にとってみれば、犬が大きかろうが小さかろうが、嫌な物は嫌だろう。

    すると、ちょうどタイミング良く、そのお店の人が我が家の外を通ったので、

    「あの人が、その店の人だから、犬を家の中へ入れて欲しいと頼んでみたら如何ですか?」

    と、アドバイスした。青年は、ホッとした顔で、その人の方へと歩いて行った。

    「そこまでしても、タバコが吸いたいのかなァ・・・」

    父がため息をつく。

    しかし、そういう父だって、禁煙する前までは、タバコがポケットに入っていないと落ち着かないとさえ言っていたはずなのだが・・・。

    人間とは、実に勝手な生き物である。     続きを読む


ブログの読者は移り気・・・・・931

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ブログの読者は移り気



    この間、珍しくブログランキングを見てみた。

    すると、目を疑った。

    これまでナガブロを盛りたてていたブロガーたちのブログが、軒並みランクダウンしているのだ。

    それも、極度の落ち込みになっている。

    このブログも、以前に比べ訪問者がかなり減った。

    まあ、それには一応、訳があるのだけれど・・・。(笑)

    もともと企業やショップ関連、趣味・マニア関連、食べ物関連のブログは、固定読者が多いので比較外としても、毎日地道に更新している個人日記ブロガーたちの記事が、これほどまでに順位を落としているとは驚きだった。

    ナガブロ内にも新興勢力が現われたようで、大河ドラマさながら、ブログの世界も下剋上が起きつつあるのかもしれない。

    ただ、こう言っては何だが、わたしが読んでいて面白いと思うブログは、やはり、コツコツと日常生活の何でもないような出来事を情感豊かに書き綴っている記事である。

    (しかしながら、そういう記事の数は、一時期よりも相当減ったが・・・)

    写真も少ないし、中には文字だけというブログもあるが、日々の楽しさや悩み、または疑問を真摯に問いかけているものに好感が持てる。

    ブログ本来の書き方は、どちらかといえばそういうものだろうと思うから・・・。

    読者には、単に見た目が派手なブログばかりでなく、たとえ文字ばかりの無器用なブログでも、その内容に注目して頂きたいと思うのは、わたしだけではないだろう。

    ブログランキングの推移を見て、ふと、そんなことを考えてみた。



    

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すこぶる呆れ返る話・・・・・930

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すこぶる呆れ返る話face09



    母親がひどい自動車酔いのため病院で検査を受ける予定になっていたのだが、今日になっても体調が万全でない。

    「しばらく車には乗りたくない」

    と、言うので、地元の開業医さんで診てもらうことに決め、あちらには検査をキャンセルする旨を連絡した。

    ところが、その応対ぶりに驚いた。

    一口で言えば、患者の都合よりも、診察した医師のメンツを立てて欲しいというのだ。

    「とにかく、筋を通せ」というのである。

    わたしは、まるで、極道世界の話かと驚愕した。

    筋だのメンツだのという話が、病院スタッフの口から飛び出すとは思いもしなかったからだ。

    問題は、そんなことよりも、患者の気持ちや体調の方が大事だろう。患者がどんなに苦しんだとしても、医師のメンツの方を優先するのか?

    母を診察して下さった医師は、そんなことにこだわるような人ではないと思う。

    「もし、どうしても大変なら、近くの開業医さんに診てもらって下さい」

    と、言ってくれたのは、その医師なのだ。ところが、その後、別の医師(研修医)が、診察して下さった医師の言葉をさえぎるように現われ、色々検査をしろと言い出したのである。

    確かに、身体に重大な病気が隠れているかもしれないし、それが確定しない以上治療が出来ないと懸念する気持ちも判らないではないが、そんな多くの検査に頼らずとも、本当に実力のある医師ならば、問診やこれまでにやった検査から、確実な診断を導き出せるはずであるし、また、これまでのベテラン総合診療医はそうして来たはずだ。

    まずは、出来るだけ患者の体や心に負担をかけずに治療をするというのが、医療人の基本ではないだろうか。

    わたしを診察して下さっている先生方は、それをいの一番に考えて、日々、患者の診療に尽力しておられる。

    なのに、最近の医療は、高齢者やその家族が医療機関を利用したら、患者や家族の意思は無視して、自分たちの都合だけを優先すべし----というマニュアルが出来ているのではないかとさえ感じることがある。

    しかし、少し前までは、そんなことはまったくなく、スタッフたちはとても親切かつ気さくに患者とふれあってくれていた。

    何かが、おかしい・・・・。

    病院中がイライラしている。

    わたしの感覚が変なのかと思い、母と同じ病院に通う近所の人たちにも訊いてみたが、やはり、同様の印象を持っていた。
 
    患者を人と思わないような雰囲気がまん延しているのならば、これは大きな問題だと考える。

    たぶん、もう、病院には連絡しない。

    あのようなケンカ腰のヤクザまがいの言い方をするスタッフと水掛け論を戦わすほど、こちらも暇ではないのだ。face09

    

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第二の人生は仏門へ・・・・・929

~ 今 日 の 雑 感 ~


第二の人生は仏門へ



    新聞を読んでいたら、面白い記事が目にとまった。

    元大手家電メーカー役員をしていた柴田文啓さん(75)という人が、千曲市八幡の開眼寺という寺で住職をしているという記事である。

    福井市出身の柴田さんは、10年前に専属住職としてそれまで住職が不在だった同寺へ入り、今では、地域の人たちに「おっしゃん」と呼ばれて慕われているという。

    座禅会を毎週開いて住民たちとの交流の場を設けたり、不登校の子供やその親、働く意欲がわかない若者の相談に乗り、また、同寺滞在中に自殺しようとした女性を助けたこともあるという。

    そして、柴田さんは、

    「お寺の住職のような人さまから相談を受ける仕事は、人生経験を積んだ人の方がよい」

    との考えから、定年を迎えた人達の第二の人生の選択肢の一つとして、仏門へ入る道を提案している。

    地方では、住職のいない無人の寺が増えている。

    そういう寺の住職の担い手として、定年退職した人たちの力に注目したいというのだ。

    「定年後、毎日ゴルフばかりではすぐに飽きる。世のため人のためになることが生きがいにつながるのでは・・・」

    語る柴田さんのような人が大勢出てくれると、過疎化が進んだ村のお年寄りたちも安心出来るのではないだろうか。

    いつの時代も、寺は地域住民の心の拠り所でもあり、いざという時は子供たちの避難場所にもなる。

    わたしのいる地域にも、かつて尼寺だった梅翁寺という寺があるが、一時、無人となり荒れ放題であった。

    ところが、ごく最近若い住職が入り、境内も手入れが行き届き、見違えるように美しくなった。寺の前を通る園児や小学生の表情にも安心感が見えるような気がする。

    六十代は、まだまだ現役世代。

    そんなお父さんたちの第二の人生に、出家という選択肢もありではないかと、記事を読んでいて思った。



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長~~~い一日・・・・・928

~ 今 日 の 雑 感 ~


長~~~い一日




    一昨日の夜、入院していた叔父が亡くなった。

    そして、昨日の朝、両親が父の運転する自動車で一人になった叔母の家へと向かった。

    わたしは、体調の都合もあり、家へ残った。

    まあ、今日は叔母にお悔やみを述べるだけだから二、三時間もすれば戻って来るだろうと高をくくっていたところ、お昼前になって、突然、父からの電話。

    叔母の家へ行く途中で、母が車酔いになり、車を止めて欲しいと言うので、近くの駐車場へ入れたところ、外へ出てしまい、動きたくないと言い出してしまったという。

    父は、携帯電話を持っていないので、そばの公衆電話から電話して来たのだった。

    わたしは、急いで従姉の家へ電話をかけ、駐車場にいる両親のところへ行き、父親だけを拾って叔母の家へ届けて欲しいと頼んだ。

    母を自動車の中へ置いておかねばならないので、それを動かすことが出来ないからだ。

    従姉は、即刻父を迎えに行ってくれて、叔母の家での悔みを済ませると、再び駐車場で待つ母のところへ戻り、自分の車で帰って行った。

    父は、母を助手席に乗せて自動車を動かす。ところが、また車酔いはひどくなり、「止めて!止めて!」と、叫ぶので、またまた、ある事務所の駐車場で休むことに。

    すると、そういう母の苦しむ様子に驚いた事務所の人たちが、な、なんと救急車を呼んでしまったのだ。face08

    いや、本来ならば、呼んで下さったと言うべきなのだろうが、まさかの展開となった。

    そして、我が家に、その事務所の人から電話が入り、一部始終の状況を説明。わたしは、その後、病院へ入った父からかかって来た電話に、とにかく、その事務所の駐車場へ置きっぱなしの自動車を運転して、家まで戻ってきて欲しいと言った。

    父は、治療中の母を病院へ残して帰宅。今度は、わたしが自動車で、病院へ向かった。

    点滴や一通りの検査などをした母の治療が終わり、まだ、ふらふら状態の母を自動車に乗せて病院を出た時は、既に夕方になっていた。

    ところが、母は、またもや「気持ちが悪い。車を止めて!」と、叫ぶ。そして、赤信号で止まった途端、自分でドアを開けて外へ飛び出してしまった。車の中では嘔吐し続けていたものの、もう、強引に家まで連れて帰ろうと思っていたのだが、油断した。

    母は、夕方の帰宅ラッシュの道路脇にしゃがみ込んでしまったので、どうしようもない。

    再び、母を車に積むと、病院へと戻るしかなかった。

    救急外来の処置室で、点滴をして横にならせてもらい、それから約七時間。

    わたしは、途中で一旦家へ帰ったところ、夜中の0時過ぎになって、付き添いを交代した弟が何とか母を運んで来てくれた。

    母は、昔からかなりひどい自動車酔いをする体質なのだが、今回のはちょっと想定外にひどかった。

    今日は昨日の奮闘がたたり、一日グッタリで、今だに背中が痛い。

    治療して下さった医師は、改めてしっかりした検査をして欲しいと言っていたが、難しい問題だ。

    何せ、乗り物に乗ると、またこの状態になることは明白だ。

    病院まで行くことが出来ない以上、検査も無理ということになる。

    とにかく、長~~~い一日だった。face03  続きを読む


世は正にこともなし・・・・・927

~ 今 日 の 雑 感 ~



世は正にこともなし




    ブログを書くネタがない・・・。

    行動範囲が狭すぎるために、そうそう何かが起きる訳ではないのだ。

    そうかと言って、毎日家で食べている物などや人様から頂いた物を写真でアップしても、あまりに芸がなさすぎる。

    毎日の備忘録としてのブログであれば、それでもいいのだろうが、わたしのようなズクなしには写真を撮るのも面倒だ。

    冬は寒さも手伝って、活動自体が鈍くなり、部屋にいても毛布にくるまっているばかりなのだ。

    色々なサイトの他のブロガーさんたちの記事を見ると、皆、実に活発で感心する。

    ああ、そういえば、この間、甥っ子二人に友チョコならぬおばチョコをあげた。

    あれも、写真に撮っておけばよかったのかな・・・?

    金色の紙に包まれた小さなチョコレートだが、中身がどういうものだったのか詳しくは知らない。何せ、今流行りの手作りチョコレートをやるほどの根性はないし、情熱もない。

    思春期の男の子がチョコレートを食べるのかどうかも、定かでない。

    食べ過ぎるとニキビも出るしね~。

    でも、実はわたし自身は大のチョコレート好きなのだ。喫茶店でケーキを頼む時も、たいていチョコレート・ケーキを選ぶ。

    しかも、出来るだけ固い板チョコなどが層になっているビターな物なら最高である。

    ところで、名探偵ポワロの活躍する推理小説にも、よくチョコレートが殺人事件の凶器や物語の鍵として描かれる。

    ポワロはベルギー人だから、チョコレートが大好物なんだよね。この小説で、実はチョコレートは、本来子供の食べ物ではなく、ワインや葉巻、チーズと同じように大人のための嗜好品であることを知った。

    ブランデー・グラスを片手に、チョコレートをつまむなんて絵づらは、日本人には「?」だけれど、もしもそんなおしゃれなシーンが似合う紳士がいたなら、きっと片頬に笑みを浮かべながら呟くのだろうな。

    「世は正にこともなし・・・・」

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当たりさわりのない人間関係って・・・・・926

~ 今 日 の 雑 感 ~


当たりさわりのない人間関係って・・・



    
    テレビドラマの時代劇を観ていると、旅先でほんの数時間相部屋になっただけで、相手の仇討のための助太刀を買う破目になるというようなシーンが出て来ることがあるが、これは、何も全くの作り話ではないようだ。

    かつての日本人同士には、確かに「袖振りあうも他生の縁(この世のわずかな関係も、前世からの因縁によるもの)」という考え方があった。

    だから、一度知り合った者には、とことん付き合うというようなこともさほど珍しいことではなかったのである。

    そのために、かつての偉人伝などを読むと、どうして、これほど貧しい人が大富豪になれたのか?などということが普通に起きている。

    つまり、主人公とかかわった人たちが簡単に彼を見捨てないからなのである。

    しかし、今の世の中の人々は、そうした必要以上の人と人との関わりを嫌う。一見、親切そうに手を差し伸べたように思えても、とことんその相手のために尽くそうとは思わない。

    すべて中途半端なのだ。

    いや、中途半端ならまだいい方で、見て見ぬふりをして通り過ぎる人たちの方が断然多いのが現実である。

    自分自身に余裕がない人間が世の中に多すぎるのかもしれないし、もともと他人のために手を貸すなど馬鹿げていると思い込んでいる人もいるだろう。

    ホテルなどへ行った時に、ボーイさんが現われて「お荷物をお運びします」などと言って、旅行カバンを持ってくれる場合があるが、わたしは、これを拒否することが多かった。(かなり昔の体験だが)

    だって、このボーイさんが荷物を運んでくれるのはホテルの中だけで、一歩ホテルを出れば結局その重い荷物を自分で運ばなくてはならないわけで、そんなわずかな距離を運んでもらう程度の親切など何の意味もない、むしろおためごかしで迷惑だ----と、思ってしまうからだ。

    どうせ、「お荷物をお運びします」というのなら、駅までも運んでくれるのが本当のサービスではないかと言いたいのだ。

    そういう中途半端な親切に飽き飽きしているのは、わたしだけではないだろう。

    上辺だけの当たりさわりのない関係を好むという風潮が、いつ頃から日本に根付いたのかは定かでないが、人々が必要最小限の関わり合いしか求めなくなって来た要因の一つに、スーパーマーケットの販売方式があるようにも思える。

    そして、それは、家電量販店などの「電気製品はお買い上げいただいたお客様が取りつけて下さい。こちらは、販売するだけです。そして、故障したら、ご自分でメーカーと交渉して下さい」という、最悪の商売の仕方へとつながっているのである。

    こんな世の中であるから、必然的に他人のことなど無関心になる。

    相手の気持ちに一歩踏み込もうとしても、そこから先はガッチリとガードして決して入り込ませない。

    そんな無味乾燥人間ばかりが増殖した日本に、かつての高度成長時代のような活気が取り戻せるはずがないのである。

    日本が世界第二位の経済大国の座を中国に奪われたのも、当然の結果なのだ。

    人の心の結束が崩れ、ぶつ切り状態になっている社会に成長など望むべくもないことは、自明の理と言わざるを得ない。
    

    

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恋ができない人達が増えている・・・・・925

~ 今 日 の 雑 感 ~


恋ができない人達が増えている




    「恋なんて、面倒くさい」「恋愛なんて、時間の無駄」「相手の気持ちを考えるだけ、疲れる」「自分の理想に合う異性がいない」「世の中の異性は、見る目がない」

    最近、こんな声を発する独身男女が多いそうだ。

    そういう人たちは、おしなべてこんな感想を漏らすという。

    「わたしのことを素敵だなんていう男性は、気色が悪い」

    「ぼくを好きだなんていう女性は、腹黒い奴だ」

    これに似た言葉は、奇しくも、お笑いタレントの光浦靖子さんや、岡村隆史さんも言っていた。

    一昨日のNHKの番組では、こうした異性に拒否反応を示す人達の根本には、共通した思い込みがあるのだと説明していた。

    それは、「自分は、誰からも愛されないほど、容姿や性格に問題がある人間なんだ」という認識なのだという。

    これに対して、ゲスト出演していた光浦靖子さんは、

    「思春期に周囲の人からの言動で、自分は可愛いと思われていないことが判ってから、恋愛を諦めた」

    という趣旨の発言をしていた。

    ところが、アドバイザーの男性は、そうではなく、既に幼い頃から聞いていた親の言葉が影響しているのだと言い、

    「子供は、親が絶対的存在だから、親の言うことは間違いがないと刷り込まれる。そんな頃に『お前は、頭が悪い』とか『器量がよくない』などということを言われていれば、子供は、自分はそういう人間なのだと信じ、自分自身を愛せなくなるのだ」
   
    と、話していた。

    確かに、幼い子供は、自分の容姿や性格、頭の良し悪しなどを気にしたりはしない。いつも、世の中で自分が一番可愛く、一番格好いいのである。

    だからこそ、お姫様やアニメのスーパーヒーローにもなれると信じているし、女の子に将来の夢は?----と、訊ねると、ほとんどの子供が無邪気に「お嫁さん」と答えるのだ。

    つまり、大人になり、何の躊躇もなく恋愛が出来、結婚することが出来る男女は、無条件で自分は素晴らしい人間だと思い込むことが出来る人々だと言えるのである。 

    「恋は盲目」という言葉があるが、これは、何も周囲に対して物が見えなくなるということばかりではない。

    自分自身の本当の姿さえ判らなくなってしまうということなのである。

    どれほど不器量な人間に対してでさえ、「きみは、そのままでいいんだよ」という優しい言葉を投げかけてくれる異性の出現が、真実を見事に覆い隠してしまうのが、恋愛なのである。

    そして、誰もがそういう言葉を言ってくれる異性の出現を待ち望んでいる。

    恋愛に臆病な人に限って、そうでない人よりも理想が高いというのも、そういう丸ごと自分を愛してくれるプリンセスや白馬の騎士が現われるのを、心の何処かで信じて疑わず待ち続けるからなのだ。

    しかし、そんな理想の相手がおとぎ話のようにやって来る保証など何処にもない。

    そのことも、彼らは良く理解している。だから、「自分を好きだなどという人は、信用できない」ということになってしまうのである。

    もしも、あなたが恋をしたいと思うなら、一言で言って「ものすごい自惚れ人間になれ」ということである。

    世界中で、一番美しく、格好いいのは自分だと思い込める人でなければ、恋愛など出来はしない。

    「人を愛するためには、まず自分を愛せ」

    番組のアドバイザーの言葉を借りれば、恋愛の奥義とは、正に、これに尽きるのではないだろうか。

    
    

    

    

    
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寝ている時が一番いい・・・・・924

~ 今 日 の 雑 感 ~


寝ている時が一番いいface04



    
    わたしの場合、外出は、病院へ行くか、買い物か、ほとんどこれだけだ。

    家族の他は、外湯で会う近所の人以外、誰とも顔を合わすことはないし、話もしない。

    映画を観に行くでもなく、レストランへ食事に行くでもなく、毎日がほぼ同じ調子で過ぎて行く。

    たまに親戚の人たちが来るが、昔のように腰を落ち着けて話をしては行かなくなった。

    高齢で病気持ちなので、人さまの家に長居が出来ないという理由からだ。

    従姉も、この両親と一時間も離れていられないために、わたしと二人でショッピングに行くなどということも出来なくなってしまった。

    「もう、燃え尽きた・・・・」

    と、言うのが口癖である。

    特別、楽しいこともなく、毎日動きにくい身体で家にばかりいるというのは、次第に時間の概念もなくなって来て、眠っている時だけが幸せに思えて来るものである。

    薬のせいか、病気のせいか、とにかくいつまでも眠っていられる。

    座っているだけでも疲れるので、横になっている時が最高なのだ。

    散歩コースもいつも変わり映えのない風景で、いささか飽きてきた。
 
    朝起きた時から、既に、夜寝ることを考える生活が、もう十年も続いている。いや、その前もあちこち身体の痛みに悩まされて来ていたので、これまでどうやって生きて来たのか、良く思い出せないのだ。

    何だか、最近は、この世は単なる仮住まいだったのかもしれないと、思うようになって来た。

    まあ、それでも別にいいのだけれど・・・。

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恋愛ベタは自尊心が高い・・・・・923

~ 今 日 の 雑 感 ~


恋愛ベタは自尊心が高い




    「お前、不細工なくせに相手を選ぶんだよな~」

    と、友だちから、良く突っ込みを入れられる人は、かなり自尊心の高い人だと思います。

    確かに、自分は大して美人(ハンサム)ではないかもしれないけれど、学歴は高いし頭もいいし、そこそこで妥協するような軽い女(男)ではない筈だ----と、内心思い続けているのではないでしょうか。

    そして、自分の容姿に対してコンプレックスがあればあるほど、より人間として素晴らしい異性を求めるようになるものなのだそうです。

    つまり、今のままの自分をそっくりそのまま愛してくれる異性が、必ずや現われるはずだから、理想を落として手を打つなど出来るわけがないとの信念を曲げないのも、そういう人たちに共通する考え方なのです。

    また、そういう考えの人たちは、自尊心の塊ですから、恥をかくことを最も恐れます。

    意中の異性に想いを告白して、万が一「ごめん。きみとは付き合えない」などと、その気持ちを否定された場合の対処の仕方が判らないのです。

    「よくも、わたしの顔に泥を塗ってくれたな!」

    そんな怒りに捕らわれ、一生相手を恨むことにもなり兼ねません。

    自分も恥をかきたくないし、相手を恨みたくもないと考えるあまり、本心は大好きなのにわざと嫌みな女を演じてみたり、確実に相手が退くであろう愚かな男としてふるまってみたりもするのです。

    しかし、その本音の部分では、そんな自分でも愛してくれる異性が必ずいるはずで、この態度はギャグだということを判ってくれるに違いないと、かすかな期待を常に懐いているのも、そういう人たちの特徴だといいます。

    この間、テレビのトーク番組を観ていたら、お笑いタレントの一人の女性が正にこの典型だと指摘されていました。

    「あなたは、自分のことは棚にあげて、相手の男性に高い理想を求め過ぎです。顔も頭も収入も、完璧にそろっているような男性ばかりを恋愛の目標に設定しているようですが、もう少し身の丈に合った男性にしなさい」

    と、カウンセラーのアドバイスを受けていましたが、その女性は、やはり理想を落とすことは嫌なようで、

    「じゃァ、自分がもっといい女になればいいんですよね」

    と、言い返し、スタジオのゲストたちの「処置なしだな・・・」という、ため息を誘っていたのが印象的でした。

    それにしても、最近は、こういう若者が増えているといいます。

    「自分は、他人が思うような程度の低い人間ではない。バカにされてたまるか!」

    こんな気持ちの人間のそばへ寄って行こうなどという物好きな異性は、ほとんど皆無だと思って間違いないようです。

    失恋は、多いにすべし----と、言うのがカウンセラーのアドバイスでしたが、恋愛を楽しむことが出来るようになるには、究極の恥知らずにもならねばならないという、覚悟も同時に必要なようですね。

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写真の縮小が出来た!・・・・・922

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写真の縮小が出来た!(^o^)/




    ナガブロは、ブログの管理画面で写真のサイズ変更が出来るので良いのですが、写真をメールに添付したいような時は、やはり、小さなサイズに縮小しなければ困りますよね。

    そんなことが出来るソフトを持っている人はそれを使えば簡単に出来るのですが、わたしは、そのように気の利いた物を持っていないので、これまでは、インターネット検索でいちいち無料のサイズ変更ホームページを見付けて使わせて頂いていました。

    ところが、いつの間にか、このホームページがネット上から消えていたのです。

    何処かから、クレームでも付いたのでしょうか?

    真相は判りません。

    さて、これからは、どうやって写真の縮小をしたらいいのか・・・?と、困惑していたところ、な、なんと、今日、自分のパソコンにもともとついている機能に、この写真サイズ変更が出来る物が備わっていることを発見したのです!

    「なに?今まで気が付かなかったの?」

    なんて、言われそうですが、何せ、アナログ人間の最たる典型ですから、ここまでたどり着くのも奇跡的な話で、スタートボタンをクリックして、「ペイント」という項目が出たら、それを利用すれば良いだけのことでした。

    ただし、サイズ変更をするまでは、ちょっとややこしい手順を踏まなくてはなりませんが、出来てしまえば何のことはないのです。

    それで、縮小したのが、この写真です。(オリジナルサイズ)





    血圧降下剤飲みながら、回らない頭で良く頑張った!icon22  続きを読む


骨密度が戻った・・・?・・・・・921

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骨密度が戻った・・・?



    一時は、100歳以上と言われるほどにまで脆くなっていた骨密度だが、この間、検査をしたら大腿骨の付け根付近の骨に関しては、ほぼ年齢相応にまで回復しているらしきことが判った。

    まあ、それでも、あくまで-----らしき、ということであるが、検査技師さんは、

    「先生に褒められますよ」

    と、驚いていた。(そりゃ、多い時には日に16グラムもの大量の乳酸カルシウムやビタミンDを飲み、動かない身体で杖をつきながら必死のリハビリを続けましたからね・・・)

    この骨密度検査だが、最初、わたしは、「しなくてもいいですよね」と、拒んだ。しかし、担当の先生は、

    「ぼくが興味あるんです」

    と、言われ、ならば、先生のデータのために・・・と、わたしが答えると、

    「ちよみさんも知っておいた方が良いですからね」

    と、説得され、検査を受けることにしたものだった。

    確かに、骨密度は回復しつつあるので一安心だが、未だに血中のカルシウム値は少ないようだ。ところが、副甲状腺ホルモンは再び過剰に出始めているという。

    副腎からのホルモンも異常値を示しており、血圧が高いのもそのためらしい。

    身体の浮腫みも相変わらずで、

    「どうして、太るのでしょうか?」と、担当医に訊ねると、

    「太っているんじゃなくて、浮腫んでいるんです。水分ですよ」と、教えて下さった。

    何だか、まだまだとても普通の身体ではないが、地道に治して行くしかないようである。

    少し長い時間歩いていると背も縮み、普通の人では考えられないような疲れや背中、腰の痛みも出るが、以前に比べれば歩くスピードもかなり速くなった。

    走ることなど到底出来ないが、三年前の芋虫状態からすれば相当な進歩である。

    それにしても、この全身の浮腫みが取れてくれれば、かなり生活しやすくなると思うのだが・・・・。  続きを読む


大相撲の八百長問題・・・・・920

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大相撲の八百長問題





    日本相撲協会に浮上した八百長問題。

    2000年に元幕内力士の板井氏が、記者会見で「八百長だらけだった」と、発言したことで、その頃からこの疑惑はくすぶり続けてきたが、おそらく、時間が経過するうちに、この八百長相撲が角界では何となしに黙認されて来たのではないかと想像する。

    大相撲に限らず、プロレスなどもいわゆる「興行」という言葉で表わされるように、演出は付き物のスポーツである。

    如何にして、観客を楽しませるか----そこに、「興行」の当たり外れがあるわけで、単に力士が強ければ良いということでもなく、土俵にドラマが必要なのだと思うのだ。

    それが八百長であったかどうかは定かでなくとも、10年、20年前の大相撲は面白かった。

    個性あふれる大勢の力士たちが、正に群雄割拠という具合に、各界の覇権を争っていたものだ。

    そして、その分、観客やテレビ中継を観る視聴者たちの目も肥えていた。

    無気力相撲や八百長まがいの取り組みは、簡単に見破ってもいたが、また、それはそれで実に大らかに楽しんでいたようにも思う。

    しかし、それは、あくまでも力士と観客との間の関係である。

    日本相撲協会と文科省の問題となると、これは安易に黙認出来る話ではない。

    日本相撲協会は、文科省の所管団体である以上、国を欺く行為をしたとなれば大問題である。

    皇族方にも八百長相撲をお見せしていたのか----と、言うことにでもなれば、放駒理事長一人の首が飛ぶだけでは済まされない。

    公益法人認可が取り消されれば、両国国技館を使用することも出来なくなるそうだ。

    この問題が、現役幕内力士や過去に力士であった親方衆にまで波及することとなれば、国技である大相撲そのものの存続さえ危ぶまれる事態ともなりかねない。

    

    

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意味が判らん!・・・・・919

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意味が判らん!




    近頃は、電話料金も、メールの使用量も、家電の保証料も、何もかもが口座引き落としになっている。

    それは、時代の流れで仕方がないのかもしれないが、いついつ幾ら引き落としたという明細が、文書で手元に届かないという場合が実に多い。

    パソコンや携帯電話で自ら調べるしかないのが実情で、正直、ほとんど信憑性や実感がわかないのだ。

    やはり、お金の問題は、請求書と領収書という具合に、しっかりと書面で送り届けてもらいたい。

    昨日は、突然、「電化製品の会員費が引き落とし出来ませんでした。このままでは、会員資格がなくなります」などというダイレクトメールが大手の家電量販店から届いたが、そもそも、うちは、それについて口座引き落としなどお願いしていないし、その会員費は、いつも店頭で直に支払っているものだった。

    だから、即座に電話をかけて、「とにかく、どの口座からも引き落としはやめて欲しい。会員には、また、店頭で入り直す」と、オペレーターに告げた。

    母親などは、未だにパソコンや携帯を、おもちゃの類だとしか思っていない。

    だから、そこで調べたことなども、ほとんど嘘だと思っている。

    間違いがないのは、文書で受け取った場合のみ。

    パソコンの前に長々腰かけているのも、「また、遊んでばかりいる」としか思わないのである。

    でも、年配の人たちに聞けば、ほとんどの人たちは、そう思っているようだ。パソコンで物を買うなどということは、絶対に容認できないという。

    品物は、ちゃんと店頭まで行き、現金を支払ってレシートをもらい、受け取る。

    それしか、信用できないのだと言う。カードでの支払いなど、とんでもないことなのだ。

    わたし自身も、自分の目で見て触って実感しないと、品物を買う気にはならないというところが多分にある。ネット通販など抵抗なく出来る人には、驚くばかりだ。

    このように、何でもかんでもバーチャルな世界で実感のないままに物事が処理されて行く世の中を、わたしなどは、恐ろしいとさえ思う。

    未来の医療は、医師が実際に手を下さずとも、ロボットが医師の代わりに手術や投薬治療を行なうようになるらしい。

    そうなると、いわゆるスーパードクターなど必要なくなり、見習い中の研修医でも高度医療が可能になるのだという。

    果たして、そんな時代が素晴らしい未来と言えるのだろうか?

    これは出来るが、これは出来ない-----そんな縦割りの知識や技術だけしか身についていない人間たちばかりが社会にあふれ、連携というものが一切忘れられた未来など、絶対にお断りである。

    しかし、既に、大手企業は正しくそうした社員が増員され、Aについては判るが、Bの話を訊けばまったく答えられないという人間がぞくぞくと大量生産されているのだ。

    直にコミュニケーションなどとりたくない。機械で処理できるシステムの開発だけに血道をあげている会社ばかりである。

    そんなところに血の通ったサービスが生まれるはずがない。

    如何にも、人間が笑顔で対応するかのような企業コマーシャルを連日テレビで流しているが、それがほとんど眉唾であることを、もはや知らない者はいない。

    「〇〇についてお聞きになりたい人は1を、〇〇についてお聞きになりたい人は2を・・・・」

    電話にこんな音声を流すのは、もうやめて頂きたい。今までのように、即、人間が出て、すべての質問に対して的確親切に応対してくれる企業が、本当の意味でこれからの時代、求められていると思うのは、わたしだけではないはずである。

    
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コメントを書き込んだら、忘れる・・・・・918

~ 今 日 の 雑 感 ~


コメントを書き込んだら、忘れる



    ブログを読ませてもらって、思うことがある。

    どうして、せっかくもらったコメントに返事を書かないブロガーがいるのかと----。

    ある人が言っていた。

    「コメント書き込んだら、ちよみさんが返事をくれて、本当に嬉しかった」

    わたしには、意味が理解できなかった。

    だって、コメントに返事を書くのは当然のことだと思っていたから・・・。でも、近頃は、そうとばかりも言えないそうなのだ。

    コメントに対して返事をもらえる方が珍しいと思っている読者が多いそうである。

    そういえば、わたしも、これまでコメントを書き込んでも返事をもらえず、幾度も嫌な思いをしたことがあった。

    コメントを書き込んで欲しくないのなら、コメント欄を閉鎖すればいいのだが、親しい人や気心の知れた相手だけからコメントをもらいたいという身勝手な人たちが多いのも事実なのだ。

    もちろん、最初から好戦的なコメントやからかい半分、皮肉交じりのコメントを書き込む人には、わざわざ返事を返す必要もないと思う。

    しかし、友好的な感想や意見を書いて来ている人を、無視するというのは容認できない。

    とはいっても、そういうマナーを知らない者は少なくないのが現実だ。

    だから、わたしは、ある時から悟った。

    ブログのコメントを書き込んだあとは、書いたことを忘れるようにすればいいのだと。つまり、返事を読む必要はない。

    もちろん、いつもコメントのやり取りをしている人たちのレスは、間違いなくもらえるので読もうと思って当然なのだが、初めて他ブログにコメントを書き込む場合や、未だ気心が判らない相手の記事にコメントを書いた場合は、書き込んだことだけで一旦は良しとするのである。

    もしも、たまたまそれに対する返事を見付ければ、御の字で、そうでなければ、そういうブログは二度と開けなければいいのだ。

    しかし、そういう他人のコメントを平気で無視するような人たちが増えたことは、別にそれほど悪いことではないのかもしれない。何故なら、こちらも同様に、自分に都合の悪いコメントは、さっさと削除してしまえるということなのだから。

    まあ、これまでわたしも、かなり辛辣な皮肉交じりのコメントを幾つももらったものだが、良く辛抱して付き合い、真面目に返事を書いて来たものだと、我がことながら感心する。



    そして、わたしのコメントに、いつも真摯に返事を下さるブロガーの方たちには、心から感謝いたします。

    

    

    

    
    

    

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すさまじい雨漏り・・・・・917

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すさまじい雨漏り(T_T)



    我が家のベランダは、とにかく広い。

    なんで、こんなに広く造ってしまったのかと思うくらいに広いのだ。

    しかも、そのベランダのコンクリートの床が、工事の手抜きでひびが入り、そこから雨水が浸透し、屋根を伝わって一階の天井付近へしみだしてくる。

    だが、夏場の雨は、まだいいのだ。天気がよくなればベランダも乾き、雨水の浸透はなくなる。

    ところが、一年中で最も悲惨な時期が、ちょうどこれからで、ベランダに積りに積もった雪が氷となり、やがて、春先の太陽光で徐々に融け始めると、ほとんど毎日のように、大量の雨漏りが発生するのである。

    一階の台所付近などは、傘をささないと歩けないくらいの降り方である。

    バケツや洗面器が床一面に並べられ、ボタボタと大きな音を立てて落ちる雪解け水で、あっという間に満杯になる。

    ナント、家を建てたばかりの年から、この作業を繰り返しているのだから、欠陥住宅もいいところだ。

    何度も左官さんや建設業者に頼んでベランダの床を補強工事してもらっても、一年もつかどうかで、また元の木阿弥となってしまう。

    本当に、ベランダなど大きくするものではない。

    白いテーブルや椅子を置いて、本を読みながら優雅にくつろぐなどというシーンは、雨の少ない南国なればこそ可能な話なのだ。

    雪深い山国信州に、合う訳がない。

    信州の風土には、小さな物干し場があれば、それでいい。

    

    

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病気は、心が作る?・・・・・916

~ 今 日 の 雑 感 ~


病気は、心が作る?




    「病気は、心が作る」などという人がいるそうだが、ナンセンスだ----と、思う。

    わたしは、セラピーというものには疎いが、

    「病気は心の中から出て来る」という考え方などに、とても賛成できるものではない。

    時々、「その人の性格が病気を作る」とか「性格の歪みが病気を引き寄せる」などということを言う人もいるが、こういう言い方は、現在、病気で苦しんでいる人に対して実に失礼な言い方ではないかと思うのだ。

    病気は、決してその人の気持ちが生み出すものなどではない。

    遺伝や内分泌系、生活習慣、ストレスといった様々な要因からもたらされる不可抗力なのである。

    確かに、「病は気から」という言葉はあるが、それは、自分は病気ではないか・・・?と、常に心配し続けている人は、ストレスが高じて本当の病気になる----と、いう意味であり、怒りっぽい性格だから病気になるわけではない。

    生活環境の変化による精神的ストレスやホルモンバランスの異常が、その人の性格を怒りっぽくしているにすぎないのである。

    最近のスピリチュアルブームでは、心が身体を支配しているような言い方をする場合が多々あるが、その心をつかさどるものは脳であり、脳は間違いなく物理的生命体のコントローラーなのである。

    脳が存在しない人間に、心はあるのか?----おそらくは、ないであろう。

    では、脳の存在しない人間は、病気にならないのか?心がないのだから、悩みもない。セラピーの理論からすると、そういう人間は、病気にならないという理屈になるはずなのだ。

    つまり、心をどれほど平穏にコントロール出来たとしても、病気にはなる。

    人間が空気や水や食物を必要とし、暑さ寒さ、雨風などの天候の影響を受け、時間という概念を捨てられない限り、誰もが病気になることは、避けられない事実なのである。

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