人を好きになる法則・・・・・545

~ 今 日 の 雑 感 ~


人を好きになる法則



    今日のグランセローズは、群馬ダイヤモンドペガサスに3対6で負けた。face07

    オリスタでのホームゲームだったのだから、もう少し気を入れて欲しかったが、疲れが出始めているのかな?

    特に、給前投手・・・・。きみは・・・・無の境地になれ!!

    まあ、それはそれとして、この間のブログで『希少価値』の話をしたが、好きな男性に対して『希少価値の女』になることが、男性の気持ちを摑む上で、重要な要素であるということだった。

    しかし、これはあくまで女性が男性を恋愛の対象として見ている場合の話である。

    では、ごく一般的に相手からの好感を得る場合には、いったいどういうことをすればいいのだろうか?

    これは、上記の『希少価値』とはまったく正反対のことをすればいいのである。

    つまり、人の気持ちというものは、いつも顔を合わせている人間に親近感を持つという特性を有しているからなのである。

    あまり馴染みのない土地へ行った時、偶然いつも顔を合わせている近所の人を見かけたりした場合、思わず声をかけたくなるというのも、そんな心理のなせる技なのである。

    いつも頻繁に会うことの出来る相手に対して、人はまず安心感を持つ。そして、その会う回数が多ければ多いほど、身内意識が強くなるのである。

    自分の名前について考えて欲しい。いつも身近にある自分の名前に使われている文字を見た時、まったく関係ない名前を見た時とは明らかに異なり、親近感や時には懐かしささえもがわくはずである。

    人の顔もこれと同じで、どれほど仲が良くても疎遠な人物のことよりも、身近な人物の方により好意を感じるものなのである。「遠くの親戚よりも近くの他人」----正に、こういうことなのである。

    そして、「好き」という感情に関しても、最初から好意を抱くよりも、話をしているうちにジワジワと相手を好きになって行く方が、その関係はより長続きするというものなのだ。

    ある時、その人物を「ちょっと、いいところあるじゃない」と、評価すると、次に会った時は、前以上にその評価を高めるような心理状態が出来上がるのだそうである。

    それこそが、俗に「気心が知れる」ということであり、お互いの間の仲間意識が次第に強くなっても行くのだ。

    それならば、メールや電話でも同じことが言えるのではないか?-----と、思いがちだが、これがあに図らんや、その効果は、やはり実際に顔を合わせることには、遠く及ばないのだそうである。

    以前、わたしとブログのコメントをやり取りしていた別サイトのブロガーさんが面白いことを書いていた。

    「どれほど、ブロガー同士お互いの間に信頼関係があっても、メールやコメントのやり取りだけでは、相手の本音が見えない気がして焦りや不安が募り、そのプレッシャーに耐えられず、結局それらのやり取りをやめてしまった」と-----。

    人間は誰しも疑心暗鬼を懐いて生きている訳で、好意を持続させるためには、お互いの顔が常に見える状態でいなければ難しいということなのかもしれない。


    もちろん、例外はあるだろうが・・・・。
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文章のルール?・・・・・544

~ 今 日 の 雑 感 ~


文章のルール?



    この間、ちょっと面白い新聞記事を読んだ。

    小説を書くのも、曲を作ることと似ているという話だ。

    音楽には、さまざまなジャンルがあり、「ブルース」「ジャズ」「ロック」「タンゴ」「ワルツ」など、それぞれに応じた曲のルールというものがある。

    一小節に幾つ音符を入れるかとか、必ずある音は半音上がるとか、そういういわゆる曲を作る上での手法の違いを心得ながら、その方法に則って書けば、それなりの曲が出来上がるというものなのだそうである。

    小説にも、これと同じような法則があり、その鍵を握っているのが「接続詞」なのだそうだ。

    この「接続詞」を、極力はぶいた上に、一人称を用いて小説を書くと、これが「ハードボイルド・タッチ」と、いうものになるとのことである。

    実は、わたしがこのブログに書いた『ダニー・コリガンの部屋』の文章を、シナリオライターの友人が、かつて、「ハードボイルドだね」と、言ったことがあったのだが、その出だしがこれである。



    ロサンゼルス、ダウンタウン7番街のヒルストリートと交差する近く、細くて薄暗い路地を20メートルばかり奥へ入った古いアパートメント・ビルの3階に、おれの新しい部屋がある。

 三日前に越して来たばかりの部屋だ。

 アパート正面のドアを開け、らせん階段を駆け上がり、鉄製の冷たく重い扉を押して入るこのカビ臭いチンケな巣に、おれは、毎晩、眠るだけのために帰って来る。




    こんな塩梅なのだが、確かに、「しかし」「つまり」「そして」「だから」などの「接続詞」が全く入っていない。しかも、「おれ」という一人称の書き方である。

    このように分析してみると、意外に文章もある一定のルールによって書けば、下手なりにもそれらしいものが出来上がるようである。

    また、こういう書き方は、自分の気持ちを淡々と綴っていけばいいだけなので、案外スラスラと書けるものでもある。要は、小学生の作文の延長で書いていけるのだ。

    たとえば、こんな具合に----。

    

    おれは、母ちゃんに作ってもらったデカい握り飯を一つリュックサックに放り込み、水筒にはウーロン茶を詰めて家を出た。

    今日は、待ちに待った遠足だ。

    目的地まで約五キロ。この間、クラスの列のおれの隣には、大好きな同級生のかおりがいる。

    おれは、これからの数時間を、かおりと一緒に歩くのだ。




    かなりませた作文になるが、これも「ハードボイルド・タッチ」である。

    でも、こんな作文を書いたら、間違いなく先生に呼び出されるだろうな。

    文章のルールが判れば、もっと色々な書き方が楽しめるかもしれない。icon22



    

    
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