言葉の魔術・・・・・567
2010年05月26日
~ 今 日 の 雑 感 ~
言葉の魔術
言葉の使い方で人の気持ちは麻痺を起すということは、この間書きました。
契約をする時に、「では、ここに署名捺印して下さい」などと言えば、契約者は一気に緊張してしまいますが、「さて、書類を書きましょうか」と、いうだけで、その緊張感が緩和できるという例も、言わば『言葉による感覚の麻痺』です。
そういうことを考えると、病院で医師が患者に病名を告知する時も、ある程度の言い方のテクニックで患者の気持ちを操縦することが可能なのだそうです。
たとえば、A医師は、患者にこのように病名を伝えました。
「大変残念なのですが、あなたは既に糖尿病です。自覚があろうとなかろうと、これは命にかかわる重大な病気です。このまま症状が悪化すれば、合併症を引き起こし、失明したり手足を切断しなければならなくなります」
片やB医師は、こう診断結果を患者に伝えました。
「血糖値が高いですが、大丈夫、あとは健康体ですよ。この検査結果なら充分改善も見込めます。まあ、早く診察を受けて正解でした。これからは、食事や運動の指導などもさせて頂きますから、根気よく頑張りましょうね」
如何ですか?
断然、B医師の言葉の方が安心感を受けますし、B医師に好感すら懐く患者もいるでしょう。
しかし、A医師の言葉を聞いた患者は、ショックを受けると同時にA医師に対して敵意さえ感じるかもしれません。
現に、わたし家の近所の主婦は、内科の担当医に「いくら膝が痛くても、あなたには、これ以上の痛み止めを処方することは出来ません。ただでさえ劇薬を飲んでいるんですから、わたしは、責任負えませんからね」と、言われたことで、院長にこの医師を解雇して欲しいと言いたくなったと、話していました。
その内科医は、主婦の身体のことを考えて親切心で話したのですが、主婦には「なんて意地悪な医者だ!」としか思えなかったのだそうです。
まあ、この主婦はかなり体重も多く、医師から常に痩せろと言われ続けてきているのですが、それでもどうしても痩せられないために、そのことでも医師と常にバトル状態だったので、こんな不快感を覚えたのだと思うのですが・・・・。
太った身体を気にしている女性に、「痩せなさい」は、かなり自尊心を傷つける言葉でもあるようで、これを言われただけでも、この主婦のように怒り出すという人も多いようです。しかし、では、他にどのような言い方があるのでしょうか?
こういう女性は、もともと意志が弱く、運動嫌いな上に膝痛をかかえ、さらに食欲がセーブできないので太っている訳ですから、あまり生易しい言葉をかけていても効果はないと、その担当医も思っているようなのです。
昨日も、共同浴場の体重計にのり、「この体重計、絶対に壊れている!!」と、叫んでいました。
それにしても、一度にまんじゅう10個食いは、いくらなんでもやり過ぎだと思うのですが・・・・。
そこで、考えました。もしも、わたしが彼女の担当医なら、この主婦にこんな言い方をすると思います。
「奥さんは、お綺麗なんですから、もう少し体重をコントロールすれば、もっと魅力的になると思いますよ」
さて、如何でしょうか?
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奇跡と偶然は違う・・・・・566
2010年05月26日
~ 今 日 の 雑 感 ~
奇跡と偶然は違う
『奇跡』----ありそうもない不思議な出来事。
『偶然』----思いがけない予想できない状況で、たまたまそうなること。
国語辞典には、このように意味が書かれています。
しかし、わたしたちは、とかくこの二つの物を安易に混同しがちです。
客が大勢入っているレストランで、たまたま一つだけテーブルが空いていたとします。果たして、これは『奇跡』か『偶然』か?
おそらくは、いえ、間違いなく『偶然』でしょう。
何故なら、レストランにテーブルや椅子があることは決して不思議なことではありませんし、その中で一席ぐらい空席があったとしても、特別不自然なことではないからです。
しかし、やたらに自分には『奇跡』が付きまとうと思い込んでいる人にとってみれば、このようなささいな『偶然』さえも、『奇跡』だと言いたくなるようなのです。
では、『奇跡』とは、いったいどのようなことを言うのでしょうか?
キリスト教の定義する『奇跡』を起こしたとされる聖職者は、『聖人』と称されるのですが、その人物が成し遂げたことが本当に『奇跡』に値するものかを認定するまでには、相当綿密な検証がなされ、万が一にも『偶然』の入り込む余地がないと確証が得られた場合のみ、その人物は『奇跡』を起こしたと、認められるそうなのです。
しかし、その認定が決するまでには、長ければ100年もの歳月がかかるのです。
しかしながら、近年人々の間に起きる『奇跡』は、なんと簡単な物なのでしょうか?
前日A市で顔を合わせたかつての同級生と、翌日も、今度はB市で出会ったら、それも『奇跡』になってしまうのです。しかし、これは単に『奇遇』でしかないはずなのです。
さっきまで大雨だったのに、出かけようとした途端にカラリと晴れた。これとて、『偶然』でしょうし、決して、あなたが天気をコントロールしたわけではないでしょう。
タクシーに乗りたいと思っていた矢先、目の前の道路をタクシーが走って来た。これも、その道路が一般道であれば、まったく不思議なことではないのです。
では、このタクシーがごく普通の車体構造をしていたにもかかわらず、海の上を時速100キロで走って来たとしたら、これは確かに『奇跡』と呼べるでしょうし、天気に関しても、あなたが何の道具も使わず、自由自在に雨、晴れ、雪、台風などををコントロール出来るのならば、それは一種の『奇跡』かもしれません。
ですから、『奇跡』は、そうそう容易くその辺りにゴロゴロと転がっているものではないということなのです。
未来を予想して、それがたまたま的中したからと言って、自分には『奇跡』を起こす力があるなどと、軽率に吹聴しないことです。
『奇跡』とは、あり得ない時間、あり得ない場所に、あり得ないことが起きた時こそ、そう呼ぶことがわずかに可能となる物なのですから。
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