老化は病気ではない・・・・・551

~ 今 日 の 雑 感 ~


老化は病気ではない



    医事評論家の水野肇さんが書かれていたコラムの一文に、「老化現象は病気ではない」と、いうものがありました。

    それなのに、今の老人たちは、老化による足腰の痛いことや体調の悪いことを「病気」だと思って、次から次へと大病院へ押し寄せるために、勤務医たちは皆、疲労困憊し、医療ミスも起きやすくなっているのだというのです。

    老化は、病気ではないので、医師たちも治しようがありません。

    症状を和らげることしか出来ないのが現状なのだそうです。

    しかし、老人たちは、医師に「治して欲しい」と、詰め寄るので医療現場は困惑してしまうのです。

    水野さんは、こういう場合最も必要なのは、「総合診療医」の存在だと言います。老人たちの身体を心身共にトータルにケア出来る医師が、これからの高齢化社会にこそ必要なのであると-----。

    ところが、現実は、大病院の外来診療での老人たちのたらい回しであり、一人の老人がいくつもの診療科をかけもち受診するために、一日に35種類もの薬を使用するなどという、とんでもない薬漬け医療がはびこっているのだというのです。

    だが、世の中の現状は、そんなニーズとは逆方向へと進んでいるそうで、「総合診療医」のなり手が非常に少なく、またいたとしても、その知識や技量が乏しいために本来ならば「総合診療医」の診断で治療が出来るはずの患者までもが、大病院へ送られてしまうのだそうです。

    かつて、日本社会は大家族制でしたから、家の中で充分に老人介護は可能でした。

    しかし、現在の核家族宅、もしくは独居老人宅では、在宅介護などおいそれと出来るはずはありません。もしも、それでも家族が面倒をみろと言われれば、老人に対して「早く死んでくれないか」などという気持ちが先行してしまうのもやむを得ない事実なのです。

    身体が自由に動かなくなった高齢者は、出来ることなら完全介護の施設で親切、丁寧なケアの元、余生を送らせてほしいと願うものですが、大きく膨れ上がる老人医療費が、そんな高齢者たちの行き場をなくしているのです。

    特別養護老人ホームに入りたくても、高額な入居費を払わなければならないため、安価な施設を転々と渡り歩く「老人難民」が増えているのです。

    そこで、水野さんは提案します。

    「老化現象だけで病院へは行くな!」と----。

    人間、必ずいつかは死ぬのだから、それまでは、自分の身体の少々の具合の悪さや痛みは仕方がないことだと考えて、安易に病院へ行くなと、いうのです。そうすれば、必要な医療費も少なくてすみ、その分が本当に介護を必要とする老人たちの方へ回るのだと----。

    足が痛い、痛いから歩かない、ますます足が弱る、さらに痛くなる----この悪循環で、人間はダメになって行くのだと言います。

    身体が少しばかり痛かろうがどうしようが、病気でないかぎりは自分の身体を使い続ける。

    そんな老人たち一人一人の地道な努力が、今後ますます激しくなる高齢化社会の崩壊を防ぐことにもつながるのであり、「老人の将来を守るのもつぶすのも、老人である」----この考え方を忘れて欲しくはないと思いました。

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欲求不満人間のあらさがし・・・・・550

~ 今 日 の 雑 感 ~


欲求不満人間のあらさがし


    あなたの周辺に常に「あらさがし」に血道をあげている人はいませんか?

    あなたの発したほんのささいな言葉の欠点をついて、ネチネチと因縁を付けて来るような人です。

    それが、その相手の不利益になることならばまだしも、ただ単にあなたを追い詰めようとか、あなたに嫌な思いをさせてやろうという動機で、重箱の隅をつつくような性格の人は、おしなべて心の中に大きな欲求不満をかかえているのです。

    自分だけが面白くない日常を送るなんて割に合わない。

    周囲の人も不幸の道連れにしてやろう。

    そんな気持ちの表れが、病的なほどの「あらさがし」となっているのです。

    しかし、その「あらさがし人間」には、そのことに対する自覚があまりありません。むしろ、「自分は、こんな誰も気が付かないことを指摘できるのだから、なかなか大したものだ」と、いうような優越感さえ持ってしまっているのです。

    たとえば、あなたが、

    「昨日の午後は、喫茶店でお茶を飲んだわ。あそこってケーキもおいしいのよね」

    と、何気なく話したとします。すると、「あらさがし人間」は、間髪をいれず噛みつきます。

    「あら、あの喫茶店でお茶?変わったものを飲んだのね」

    あなたは、またか・・・・と、溜息をつきながらも、こう答えます。

    「お茶というのは言葉のあやでしょ。本当は、カフェオレを飲んだのよ。どうして、そんなことまで詳しく説明する必要がある訳?」
    
    これでは、せっかくの楽しい会話が台無しになってしまうというものです。

    しかし、暇人で、なおかつ夫や子供の問題でうっ憤をかかえている主婦などは、特に、このような「上げ足とり」や「あらさがし」をして、溜飲を下げるのです。

    人の話し方や物事の捉え方、表現の仕方などには、それぞれの個性というものがあります。

    一口に「赤」と、言っても、それが「えんじ色」なのか、「緋色」なのか、「濃いオレンジ色」なのか、人によって見えている色は様々です。また、その人のこれまでの生活環境や年齢、経験、性別等々によっても、言葉は変わってきます。

    そういう「あらさがし人間」に共通して言えることは、「自分の経験則からしか物事を判断できないという極めて狭い範囲における学習能力しかない」と、いうことでもあるのです。

    正に「井の中の蛙、大海を知らず」と、いうところでしょうね。

    要は、想像力が極めて希薄だということのなのです。

    これが、普通の大人の常識があるのであれば、「わたしは、こういう経験しかしたことがないけれど、もしかしたら別のことを経験している人もいるのかも知れない」と、考えるべきところを、そういう「あらさがし人間」は、「そんなのはおかしい。自分はこう教わった」と、実に短絡的に万事を判断するのです。

    これは、極めて怖いことですし、また、相手にしなければならない人たちにとってみれば、大迷惑な人間なのです。

    まあ、周囲の人は、またか…という諦めも手伝い、ある程度は大目に見ることもあるでしょうが、あまりこれが頻繁だった時には、一発ガツンと怒鳴りつけてやる必要もあるでしょうね。

    「お前の言っていることの方が、あらだらけなんだぞ!突っ込まれたくなかったら、大人しく口を閉じていろ!」  続きを読む