福島瑞穂のはったり不発・・・・・573

~ 今 日 の 雑 感 ~


福島瑞穂のはったり不発



    この間、当ブログで「本気かはったりか?」という記事を書きました。

    「はったり」を見せる人は、必ず大勢の面前で、「辞めてやる!」と公言するものなのです。

    つまり、そういう人は、本心では絶対に辞めたくはないと思っているので、もしも、本当に辞めることになるなどとは考えてもいないというのが相場なのです。

    そして、この手を社民党・福島瑞穂党首も使ったのだと思うのです。

    「辺野古の文字が合意文書に書き込まれたら、絶対に閣僚としての署名はしない」

    閣議決定とは、閣僚全員一致が原則だそうですから、元・消費者少子化担当大臣である福島党首がそれに署名しないということは、必然的に閣僚辞任を表明したということになるのです。

    北沢防衛大臣が話していたように、「署名しないというのなら、それはすなわち鳩山内閣の閣僚としての責任を放棄することなのだから、署名するかしないかという前に、閣僚を辞任するのが筋だ」と、いう意見は、むしろ当然のことだと思います。

    にもかかわらず、福島党首の気持ちの中には、「署名しなくても、鳩山さんがわたしを閣僚から外せるわけがない。もし、わたしを外せば、社民党が連立政権から離脱してしまうかもしれないと考えて、絶対、合意文書から辺野古の文字を消してくれるはずだ」と、いう確信に近い楽観があったのではないでしょうか?

    しかしながら、その福島党首の「辞めてやる」という『はったり』は、連立のなんたるか、沖縄問題のなんたるかが実感として理解できていなかった鳩山総理には、まったく通じませんでした。

    『はったり』とは、そこに相手の危機感が伴わなくては機能しない手段なのです。

    が、端から危機感の「危」の文字も持ち合わせていない鳩山さんには、ほとんど通じなかったのです。

    「そうですか・・・・。では、残念ですがお辞め頂きたい」

    そう言われてしまった福島党首の胸の内はいかばかりだったでしょうか?

    「まさか、罷免だなんて、こんなはずじゃァなかった」と、臍(ほぞ)をかんでもあとの祭り。それでも、連立内にだけは留まりたいと思っても、閣僚を出していない連立与党など、未だかつて聞いたこともない訳ですから、結局、ドミノ倒し的に社民党は悲願であった与党からも出て行かざるを得ない破目になってしまうことでしょう。

    福島党首の誤算は、自分が内閣という行政府の一員であり、既に党の国会議員であるという立法府を離れた立場であるということが最後まで理解できなかったところにあるのだと思います。

    筋を通したと、ご本人は弁明するでしょうが、わたしには、ただのわがまま、意地っ張りとしか思えません。

    もしどうしても、日米合意に沿った決定しか選択肢がなかったのならば、ここは、内閣の一員としての職をまっとうし、その上で今後如何にして沖縄の負担を軽減したらよいかを考えるのが彼女の取るべき真の道だったように思います。

    与党を離れた彼女たちにいったい何が出来るでしょうか?

    「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」----国を動かすとは、ある意味自分を捨てるということなのですから。  続きを読む


ブログの縁は異なもの・・・・・572

~ 今 日 の 雑 感 ~


ブログの縁は異なもの



    ブログをやっていて思うことは、世の中には本当に『縁』というものが存在するのだということである。

    世界中でブログを書いていたりまた読んでいる人は、正に星の数ほどもいるであろうが、その中から、一つのブログに行き着き、しかも、そのブログにコメントを書き込み、そのコメントがもとでその後も親しく会話を交わすという間柄となる確率を考えると、気の遠くなるような物だと思うのだ。

    これこそ正に『縁』であり、偶然の中の偶然のなせる技なのだと、今更ながら驚くしかない。

    確かに、ブログを書いていると、不特定多数の大勢の人からコメントをもらい、また、こちらが偶然書き込んだコメントに返事をもらう訳だが、まず、そのブログを開けようと思うこと自体が、既に一つの『縁』である。

    しかしながら、そんないわゆる『縁』の新芽は、必ずしもすべて育つわけではない。

    ブログを開いてはみても、コメントを書こうと思う気持ちになる場合は、それからさらに確率をを狭める。そして、意を決してコメントを書き込んだとしても、返事がもらえなければ、『縁』の新芽はそこで枯れるのだ。

    しかし、そんなコメントに返事が書かれると、細々ではあるが『縁』の糸ができ、芽も少しばかり成長する。

    だが、それだけであとはナシのつぶてということだって、珍しい話ではない。

    それでも、それがきっかけとなって、その後も何くれとお互いにコメントを書きあうことになったとしても、ほんの些細ないさかいがもとで、音信不通になったり、時には敵対関係になることだってある。

    また、わたしの経験上、どれほど親しくコメントをやり取りしていたとしても、どうしても、それ以上に相手の領域に踏み込めなかったり、また踏み込ませなかったり、横やりが入ったりして、交信が途絶してしまうことだってある。

    これもまた、『縁』がなかったということに他ならない。

    ところが、そんなごくごくわずかな確率の中でも、単なる時候のあいさつではなく、単なる褒め合いなどでもない、しっかりとした意見交換が出来、反論したりされたりしたとしても決して切れない『縁』が見付かることもあるものなのだ。

    決して、コメントのやり取りの数ではない。ごく稀にしかコメントをやり取りしない間でも、そういう関係は確かに築くことが出来る。

    それは、おそらくお互いに無理のない関係というべきものなのかもしれない。

    そんな関係が見えた時、『縁は異なもの味なもの』と、いう言葉を実感するのだろうと思うのである。icon22

    

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