渋温泉の元気な女性たち

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    今日、小雨の降る中、駐車場のボウボウに伸びた雑草を刈った。

    雑草とはいえ、草の茎はまるで木のように太い。鎌だけでは追いつかず、のこぎりまで持ち出して草藪を切りはらった。

    いつもならば、ずぼらも手伝って、伸び放題伸びたままにしておくのだが、今年は草の花粉がものすごくて、自動車のそばへ行くだけでくしゃみが出そうになる。

    このまま花粉症に突入では困るので、少しでも身近な花粉はよけておこうと思った。




    ----で、放送された渋温泉特集を観た。

    年配の女性たちが今も現役でがんばっている姿に、元気をもらったような気がした。

    そんな中でも、98歳の女性が自分で紙芝居を作り、昔から伝わる地元の民話などを高齢者施設で披露している様子には、正に脱帽だった。

    その女性が、今年また新たな創作紙芝居を作ったという。

    それは、これまで手掛けた内容とは一味違うもので、彼女が生きて来た渋温泉の歴史を紙芝居にまとめたものであった。

    「気が付いたら、この渋温泉で一番の年上になってしまい、わたしだけが知っている昔の渋温泉を若い人たちに教えておかなければいけないと思ったの」

    その紙芝居には、彼女が中野町(現在の中野市)にある中野高等女学校(現在の中野立志館高校)へセーラー服を着て、往復16キロもの道のりを毎日徒歩で通った当時の思い出や、日暮れになると各旅館の前の道に三味線を持った粋な新内流しがやって来ては、宿泊客に新内節を聴かせてお代をもらっていたことなど、古き良き時代のありさまが分かりやすく描かれていて、旅館を経営している彼女の甥夫婦も、神妙な面持ちで彼女の巧みな語り調子に耳を傾けていた。

    今の渋温泉を盛りたてている若い経営者たちも、折につけアイデアを絞ったイベントを開催しては観光客の目を楽しませているが、彼らはどれほど渋温泉のたどってきた歴史を知っているのだろうか?

    話の上では聞いていることがあっても、それをどれほど実感として受け止めているのだろうか?

    戦時中、激しくなる空襲を逃れ、親元から離れた大勢の疎開児童たちが、渋の各旅館に分宿しながら地元の小学校へ二部授業(地元の児童が下校した後に登校すること)を受けに通ったことや、その疎開児童が他の疎開地へ移ったあとは、温泉場が傷痍軍人たちが療養する湯治場となったことなども、彼女は感慨深そうに語っていたが、こうした話は、今の若者たちもしっかりと心に留めておかなければならないことなのである。

    単に目の前の上澄みをかき回すだけではなく、水面下に沈泥している歴史の重みにも積極的に目を向けなければ、渋温泉の将来など見えはしないと、彼女の紙芝居は教えているようにさえ思えた。

    90歳にして喫茶店を経営する女性は、若かりし頃、裕福な外国人しか滑ることの出来ない志賀高原のゲレンデでどうしてもスキーをしてみたいと、自分も外国人になりすまし、片言の英語を話しながら滑った時の痛快さを楽しそうに語り、グルメ雑誌にも掲載される有名ラーメン店の女主人は、店を興した弟の味を守り続けることが自分の仕事だと胸をはった。

    彼女たちが育み温めて来た歴史という大きな財産が渋温泉にはある。

    今の若い人たちには、そうした歴史に学び、ぜひ彼女たちの弛みないチャレンジ精神を現代に活かして欲しいものである。
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Posted by ちよみ at 22:09Comments(2)ちょっと、一息 26

対人恐怖症の女性

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    初対面の人とは、どうしてもうまく馴染めなかったり、周囲の人が皆自分に対して敵意をもっているように錯覚してしまうという対人恐怖症。

    こういう症状を抱えている人は、自分を極度に防御しようとするために、いつも眉間にしわを寄せていたり、言葉使いがぞんざいになるなど、周りからは逆に怖い印象をもたれることがある。

    わたしの家の近所にも、これに近い評判の女性がいるのだが、彼女は、話をする時もほとんど相手の顔を見ようとしないし、世間話などの余計な時間は決して作ろうとしない。

    必要事項だけを話すと、さっさと帰ってしまうような女性なので、ぶっきらぼうだとか、言葉使いがきついとか、彼女をよく言う人は、あまりいないのである。

    先日、そんな女性の母親が、わたしの母親を呼び止め、珍しく娘の話をしたのだそうである。

    「うちの娘(次女)なんだけれど、高校を出てから東京の学校へ行くために、もともと東京の学生専門のアパートに入っていた姉(長女)を頼って上京し、同じ部屋で暮らすことになったのよね。

    このアパートが面白いんだけれど、四人のまったく異なる学校へ通う学生が同じ部屋を共有するというところだったわけ。

    姉の方は、もともと外交的な性格だから、そんなところでも平気で暮らしていたんだけれど、妹は小さい時から人見知りが激しかったせいもあって、どうしてもそんな赤の他人と一緒の生活に馴染めなかったらしいの。

    で、姉が一緒にいてくれた時は、まだ良かったんだけれど、姉が卒業してしまい、自分一人でそこへ住まわなくてはならなくなってから変になっちゃったのよね。

    同じ部屋の女の子たちが、娘の服を勝手に着て外出したりするようになって、それが迷惑だと言えなくて、たった一人で悔し泣きしていたりしたようなんだけれど、とうとうある日、大泣きしながら電話をかけて来て、

    『もう、こんな人たちといたくない!学校もやめたい!家へ帰りたい』

    って言うんで、これはこのままにしておいたら、この子はどうにかなっちゃうんじゃないかと思ったものだから、あたし、その電話を切った直後、最終列車で東京まで行って、すぐに荷物をまとめて翌日娘と一緒に帰って来ちゃったのよ。

    結局、学校も中退になっちゃったんだけれど、あれ以上の一人暮らしはさせられなかったから・・・。でも、娘の身体はもうストレスで大変なことになっていて、その後、腸の手術までするはめになって・・・。あのまま辛抱するように説得して頑張らせていたら、きっと死んでいたんじゃないかと思うのよね。

    過保護だって言う人もいたけれど、人間は、寂しさや心細さが原因で精神的にも肉体的にもめちゃくちゃになっちゃう場合もあるのよ。怖いと思ったわ」

    家へ帰って来てからの娘さんは、手術で一命を取り留めはしたものの、もう一切人を信じなくなってしまったようなのだ。

    あれから、既に30年近くも経っているのだが、彼女の中にある、服を勝手に着てしまったルームメートたちへの恨みは、未だに消えていないそうである。

    「長女はもう他県へ嫁いでしまっているし、夫も亡くなって、あたしが死んだらこの子、どうなっちゃうんだろうって、考えると夜も眠れないのよ」

    と、母親は話していたそうである。

    一度受けた究極の心の傷は、そう簡単に癒えるものではない。

    優しく気立ての良い娘に育ってくれたことは、確かに親の誇りだが、いざという時は、なりふり構わず毅然として、嫌なものは嫌だといえる勇気を、彼女も持っていたなら----と、母親は悔やんでいたそうである。
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Posted by ちよみ at 11:39Comments(2)ちょっと、一息 26