話題いろいろ
2012年08月31日
話題いろいろ

親戚とご近所から、たくさんの白桃をもらった。
わたし好みの硬くて大きな実が、何ともジューシーでおいしい。
旬の果物は、何となくテンションがあがるな。
夏バテが少し和らいだ気がした。
で、26日に志賀高原の蓮池特設会場で行なわれた「ミス志賀高原コンテスト」は、第46代グランプリ(ミス)に、長野市の大学生・三石佳那さん(20)が、準ミスのクラウンとクイーンには、同じく長野市の会社員である石賀美保さん(25)と永井香帆さん(20)が選ばれた。
大沼池の大蛇の花嫁を選ぶというこのミス・コンテストは、今回全国から56人がエントリーし、本審査には14人が登場した。
今年は、奇しくも長野市出身者がミスと準ミスを射止めたのだが、長いコンテストの歴史上でも珍しいことだったのではないだろうか。
インターネット投票が解禁されたことも、選考に影響した可能性がある。
これは想像だが、これからの一年間のミス、準ミスは相当に多忙になるため、県外出身者では対応しきれないことも多々出て来るのだと思う。
実は、以前、わたしの知り合いの娘さん(町内出身)が準ミスに選ばれたのだが、ミスが県外出身者でたびたびのイベントへの出席が難しかったため、ほとんどの仕事を彼女一人でこなしたのだという。
「一人では本当に大変で、家業を手伝っていても、連絡があれば急いで化粧をして支度して飛び出さなければならなかった」
と、話す。ミス志賀高原は、単におしとやかに微笑んでいればいいだけの飾りものではない。志賀高原のイベントでは、スキーヤーたちに混じって、華麗な滑走も披露しなければならない時もある。
とにかく、重労働が待っている。それを見越して、今回の選考はなされたのかもしれない。
膝痛に悩む人には「貧乏ゆすり」が効果的だという話題を、テレビで取り上げていた。
つま先を床に付けての貧乏ゆすりで、膝の軟骨が復活するかもしれないという理論なのだという。
これを実践している高齢者が、車椅子から杖歩行が出来るまでに回復した例もあるそうだ。
と、いうことで、母親がさっそくやり始めた。さて、効果や如何に?
この間のテレビ番組で、ブサイク芸人として有名なお笑芸人の男性が、たった一日でイケメンに変身するという企画をやっていたが、驚いたのは、美容整形外科の院長が考案したカクテルビタミン注射を一本打っただけで、それまでのくすみ切った肌が、ごく短時間のうちにみるみる白くなってしまったことである。
「美白を手に入れるなんて、容易いこと」
と、いうことで、その効果をまざまざと見せつけられてしまっては、これまで何十万円、何百万円という大金を費やして美白に取り組んで来た世の女性たちの努力は、一体なんだったのだろうか?----と、唖然とさせられた。
しかも、そのカクテルビタミン注射は、視神経にも好影響を及ぼし、視界も明るくなるという。
素人には判らない驚きの医療が、世の中にはまだまだたくさんあるのだろうなァ・・・と、思った。
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にぎやかな立ち話は通行人を不愉快にする
2012年08月30日
にぎやかな立ち話は
通行人を不愉快にする
通行人を不愉快にする

楽しそうに声をあげて笑いながら会話を盛り上げているご近所の主婦たち。
そんな彼女たちの近くを通る時、何となく不愉快な気分になる人は多いはずである。
何だか、自分が仲間外れにされているような不快な思いをしたり、地位が低められたような気持ちになって、身体を縮めるようにして通り過ぎたり、自分の方から会釈をしたりして行き過ぎなければならないような「妄想性認知」を覚えることもある。
おしゃべりをしている人たちには、そういう意識はないのだろうが、近くを通りかかった人間は、「疎外感」や時には、「恐怖感」すら感じるもので、会話の人数が多ければ多いほど、この威圧感は増して行く。
たとえば、この立ち話が上司同士となれば、近くを通る部下はさらに委縮し、部外者意識が深まることにもなり兼ねない。
そんな会社は、社員の士気も低下して、業績アップなど望めないものである。
では、もしも、あなたがそんなおしゃべりの輪に加わらなければならない時は、どのようにすれば、そばを通る人たちを不快にさせずに済むのだろうか?
こういう時は、いくら会話が弾んでも、おしゃべりに夢中にならず、近くを通りすがった知り合いに対しては、「あなたのことを無視していませんよ」という合図として、軽く会釈をするなどの配慮が肝心なのである。
そして、立ち話をする場所も、廊下の隅や道の脇など、通行の邪魔にならないような、人目に触れにくい所を選ぶのが賢明である。
それを怠ると、相手に多大な心理的迷惑をかけることになるため、その行為がもとで、あとあと不信を買うことにもなりかねない。
おしゃべりの輪は、自分でも気付かぬうちに出来上がっていたりもするので、つい話にのめり込みがちではあるが、そんな時も、常に「自分たちは他の人からどんな風に見えているのだろうか?」という、第三者の目を忘れない配慮が大切なのである。
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認知症を発見する方法
2012年08月30日
認知症を発見する方法

認知症を早期発見する方法は、いくつかあるのだが、先日のテレビ番組では、こんなやり方を教えていた。
まず、10秒間で、野菜の名前を10個答える----と、いう方法である。
この方法は、野菜の名前を10個思いつくかということが、認知症発症の目安になるのだが、同じ野菜名を何度も上げたりしていないかとか、野菜の名前がスムースに口から出るかとか、野菜の名前の中に野菜とは関係ない物が含まれていないかなども同時に検査するというものなのだそうである。
次に、ペン、消しゴム、三角定規、輪ゴム、ハサミなどを机の上へ置き、それらを覚えてもらったのち、スカーフなどをかぶせて隠し、しばらく世間話などをしたあとで、隠れているものが何だったのかを当ててもらうという方法である。
もちろん、覚えやすく名前が言いやすい物なら、隠すものは何でもいいのだそうだが、短期の記憶保持力を検査するには効果的なやり方なのだという。
これは、自動車免許の高齢者教習にも用いられている方法だそうで、この場合は口頭ではなく筆記で答えるのだそうである。
最後に、100から順に7を引いて行くという引き算をしてもらうという方法である。
このやや複雑な計算を暗算でやってもらうことで、認知症患者が苦手な集中力の有無を調べるのだそうである。
でも、数字が苦手で、数字を見ただけで拒否反応を起こすわたしのような人間には、この検査方法はまず意味をなさないのではないかと思う。
何故なら、数字と聞いた途端に、思考回路が停止してしまうからだ。数字が苦手な人のために、漢字問題で同じような検査効果がでるものを考案して欲しいものである。
そして、単なる物忘れと認知症の違いを容易に判断するやり方もある。
単なる物忘れ----夕飯に何を食べたのか思い出せない。
スーパーで何を買いたかったのかを忘れる。
以前何度か会ったことがある人だということは判るが、名前が思い出せない。
認知症----夕飯を食べたか否かが思い出せない。
どうしてスーパーにいるのかが思い出せない。
以前何度か会ったことがある人を見ても、初対面だと思ってしまう。
でも、世の中には、ほとんど人の顔を覚えないという癖のある人もいるので、この検査だけで必ずしも認知症を判断出来るとは言えないかもしれないな。
因みに、買い物の際に一万円札ばかりを出すという人も、認知症の疑いありということだ。
買った品物の値段が計算できないので、一万円札を出しておけば間違いないとの思いで、そうする傾向があるのだという。
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アイドルを考える
2012年08月29日
アイドルを考える

先日放送された『24時間テレビ35「愛は地球を救う」』(日本テレビ系)にて、さわやかな司会ぶりが高評価を得ていた櫻井翔。しかし一部ファンの間で、櫻井を心配する声が上がっているという。今年7月に行われた、来年公開の主演映画『謎解きはディナーのあとで』の海外ロケにて、駆けつけた現地ファンを完全に無視する異様な行動をとっていたという。
実は今年の春頃から、ファンの間で「様子がおかしい」とウワサされている櫻井。撮影現場などで、ほかのメンバーを盾にし、まるで出待ちファンから逃げるかのように、その場を離れる姿が目撃されている(既報)。
(中略)
「当日は、ロケ情報を聞きつけたファンが50人以上集まってきたのですが、櫻井だけはジャニーズ関係者に完全ガードされ、キャップを深くかぶったまま常に下を向いていたんです。共演の北川景子や竹中直人が笑顔で手を振ったり、ファンによる撮影にも快く応じていたにもかかわらず、櫻井1人だけがファンを完全に無視するという異様な光景だったとか」(芸能プロ関係者)
櫻井のこの態度について、前出関係者はこう分析する。
「集まったファンたちに、関係者が『撮影は絶対にしないでください』と再三繰り返していたのですが、日本とは感覚が違うのか、半数以上のファンが携帯を片手にシャッターを押し続けていたんです。中には小型のハンディカムで、終始動画撮影を行っていた人物までいて、その内容はすぐに削除されましたが、一時期は動画サイトにもアップされていましたよ」
確かに禁止行為を平然とされてしまえば、櫻井でなくともムッとしてしまうところだ。ちなみにその動画を視聴したと見られる海外のニュースサイトには、「ファンサービスを徹底拒否する、日本の勘違いアイドル」という内容の記事まで掲載されてしまったという。
(中略)
かねてから出待ちにも対応しない櫻井に、業界からは「グループ内でも櫻井1人だけが浮いている」という声も出ているが、レギュラー番組に加え、映画撮影、五輪キャスター、さらには『24時間テレビ』と怒涛のスケジュールで仕事をこなしていた状況を考えれば、こういった姿も仕方がないことかもしれない。無事にそれらが終了した現在、櫻井の心に余裕が生まれていることを願いたい。(YAHOO!ニュース)
櫻井翔くんといえば、アイドルグループ「嵐」のメンバーの中でも、殊にインテリ男子のイメージが強く、品行方正を絵にかいたような好青年という印象が一般的だろう。
実際、わたしの周囲の若者たちに訊けば、メンバーの中では櫻井くんの好感度が一番高い。
「ニュースキャスターも務めているし、映画やドラマの役柄も実直な医師や頭の切れる真面目な執事の役で、信頼感がある」
と、いう感想だった。

しかし、わたしの彼を見た第一印象は、これとは少し違う。
映画についての意気込みを訊ねられた時も、言葉が上滑りしているようで、与えられた答えをそつなく返していただけのように感じられた。
「彼は、本当に自分が演じている役柄を好きなのだろうか?仕事だから仕方がないという気持ちだけで、上辺のキャラクターを無関心のままにこなしているだけなのではないか?」
と、いうものであった。某医療系映画の主人公を務めた関係上、現実の医療現場を取材していた番組でも、医師の話を聞いている態度は、「番宣のため、仕方なく」という付け焼刃の感が拭えなかったからである。
この人は、本当にこのインタビューがしたかったのだろうか?----と、いう疑問が付きまとい、取材されている患者や医師が、まるで時の人・櫻井翔の実直ぶりの引き立て役をさせられているようにさえ見えたのである。
おそらく、今の彼は、自分がどれほど人々から期待されている人間かが、はっきりとは理解できていないのではないかと思う。
シナリオに泣けと書いてあれば泣き、笑えと書いてあれば笑う。そんなほとんど心で考えることのない演技を、ベルトコンベアー式に淡々と行なっているだけなのではないだろうか?
そのため、彼のコメントには常に何処か白々しさが透けて見える。
「嵐」人気にあやかってドラマの主人公を決めるのも視聴率稼ぎのためには、制作側としても致し方ないのだろうが、出来ればドラマの主人公には、
「この役は、何が何でも自分が演じてみたい魅力にあふれている」
ぐらいの気迫を持っている役者に演じて欲しいのである。
櫻井くんは、ドラマをその場限りの仕事と割り切っているがために、大事なファンサービスまでも気が回らないのだろう。
彼は、本当は何がしたいのか?もしかしたら、櫻井翔自身も未だ暗中模索の世界を漂流し続けているのかもしれない。
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自分の非を認めない人
2012年08月29日
自分の非を認めない人

世の中には、自分が悪いことを知っているにもかかわらず、それを決して認めようとしない人がいる。
明明白白の事実として、証拠までも突き付けられながら、それでも悪いのは自分ではないと言い張る。
それを認めたからと言って、別段命にかかわるほどのことでもないのに、絶対に事実を受け入れようとはしない。
そして、それでも徹底的に自らの立場が追い詰められたものになると、
「ああ、おれが悪いんだろう!お前たちは、おれを責めれば気が済むのだろう。だったら、悪者はおれということにしておけばいいじゃないか」
と、いうような実に大人げない開き直りに出るのである。
これは、間違っても自分の非を認めている人間の態度ではないし、おそらくは本人も本気でそう思ってなどいないはずだ。
こうなってしまったのでは、相手の非を正そうにも、もはや手の打ちようがない。駄々をこね、信州の方言であるエボをつり始めた人間には、どれほど理論立った説得をしても、聞く耳なしである。
こうなってしまった場合、このエボつりに対抗する手段としては、「そうだ。悪いのはあなただ。ちゃんと反省しなさい」と、一言告げて、あとは関わり合いを持たないようにするということだけである。
しかし、実は、これよりももっと厄介な人間もいる。
それは、自分の非を指摘された時、あえてその話題を避け、話をまったく違う方向へ持って行ってしまう人間だ。
自分が悪いとか、間違っているということを否定するどころか、そんな事実はあり得ないし、よしんばあったとしてもどうでもいい話だ----と、いうことで相手を煙に巻いてしまおうという魂胆なのである。
こういう反応を示すのは、何故か男性よりも女性に多いといわれる。
どうも、男性より女性の方が自己保身欲求に長けているせいか、それとも世間を甘く見ているのか、潔さからは縁遠い感性で出来ているようだ。
おそらくは、面と向かってのケンカに持ち込みたくないという思いからなのであろうが、こうした態度は不誠実と受け取られても仕方がない。
自分の非を指摘されても、それをはぐらかそうとして何を言われているのかさえ、判らないようなふりをする。
「あなたが悪い」と、言われても、「そうなのよ。本当にわたし被害者なの。悪いのは向こうの方なのよ」などと、わざとトンチンカンな答え方をして、相手を呆れ返らせてしまうという手法を用いる者さえいるのである。
したたかというか、悪賢いというか、正に悪女の返答である。
そして、普段はむしろ物分かり良く度量の広い賢女を気取っていたりもするのである。
もしかしたら、あなたもそんな女性を信用に足る優しい人だと、頭から誤解しているのかもしれない。
ご用心、ご用心。

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文章の簡略化は難しい
2012年08月28日
文章の簡略化は難しい

暑い!!

台風のせいなのか、今日もとんでもなく暑い。
この炎天下、散歩をしていたら、日傘をさした近所の主婦とすれ違ったが、あまりの暑さに冷たい物をとり過ぎてお腹をこわしたと、苦笑いしていた。
で、映画「プロメテウス」の評判がかなり悪いようだ。
「人類の起源を探る」なんていう壮大なテーマと思いきや、実際は単なるエイリアンドラマだとか。しかも、日本語吹き替え版が相当にエグいらしい。
主人公の声を担当する剛力彩芽が、恐ろしく棒読みなのだという。
でも、ちょっと、怖いもの見たさで聞いてみたい気もするな。(笑)
ところで、皆さんは、次の新聞記事の文章を読んで、誰のことを書いているのかお判りだろうか?
見出しは、「錦織、16強ならず 勝つ光見えなかった」である。
第1サーブが入る確率が低く、ストローク戦も「ぐいぐい押された。そこで勝てないと自分のいいところが出ない」と、嘆いた。
まだ22歳だが、デルポトロは20歳で全米オープンを制した。世界ランクで20位以内に入り「もう若手ではない。上の選手に勝たないといけない使命感」が強くなったという。高みに行くには「安定感が必要。その中で攻めも混ぜないといけない」と課題を挙げた。
これは、新聞のスポーツ欄の記事の一部なのだが、この「世界ランクで20位以内に入り」とは誰のことを指しているのか、この文章を読んだだけで即座に判るだろうか?
わたしには、記事の見出しから、この文章が、テニスの錦織選手のことを書いているのだと判りながらも、世界ランク20位以内とは、この時の彼の対戦相手であるデルポトロ選手のこととしか思えなかった。
つまり、文章のつなぎに主語が入っていないために、どちらの選手のことなのかすぐには判然としないのである。
文字数制限のためなのか、近頃のスポーツ記事は特に文章が簡略化されていて、途中誰のことを書いているのか判らなくなることが多々ある。
プロ野球の記事に関しても、文章の中に球団名が一切出てこないため、Aという選手は何処の球団に所属しているのか予め知識がなければ、最後までチンプンカンプンということもあるのだ。
高齢者が読みやすいよう一文字を大きくしているので、その分文章が短くならざるを得ないために、選手の背景など読者が知っているものという前提で、記事は書きすすめられて行くのだろう。
しかし、上記のように見出しと写真で、錦織選手のことが書かれているというのは理解できても、途中の文章が誰のことを指しているのか判らなければ、読者は内容を勝手に解釈してしまい思い違いをしかねない。
この「世界ランク20位以内に入り」の前に、「錦織は」と、一言あったなら、たぶん勘違いをする確率はかなり減ったはずである。
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湖畔の人影
2012年08月28日
湖畔の人影

これは、先日、知人から聞いた不思議な話です。

会社の夏休みを利用して、信州のとある高原を訪れた二人の同僚女性社員は、その夜、宿泊したホテル主催のバーベキューパーティーに参加した。
ホテルの前庭には、手漕ぎのボートに乗ることも出来る美しい湖が広がっている。
宿泊客たちは、赤々と燃えあがる焚火の炎を囲んで、飲んだり食べたり、ビンゴゲームやギター伴奏で歌を歌うなど、互いに初対面同士にもかかわらず、大いに盛り上がり楽しんでいた。
そのうちに、女性社員の一人が、パーティーの喧騒から少し離れた場所で、羨ましそうにこちらを見ている二人の男性の姿に気が付いた。
彼女は、何処となく寂しげな二人が気になって、そちらへ歩み寄ると、明るく声をかけた。
「あなたたちも、一緒にやりませんか?ビールもお肉もまだたくさんありますよ~」

男性たちは、最初、遠慮がちに軽く手を横に振っていたが、女性が微笑みながら手招きすると、ようやくおずおずとそばへ近寄って来た。
「あなたたちも、このホテルへ泊られているんですか?」
女性が訊ねると、男性たちは小さく頷く。
夏山だというのに二人の男性の身形が、まるで冬山登山でもするかのような厚着だったことを、やや不自然には感じたものの、彼女は男性たちを、同僚女性のいるテーブルまで誘おうとした。
すると、にわかに男性たちの一人が、こんなことを言い出した。
「パーティーも楽しいけれど、これからぼくたちとボートへ乗りませんか?夜の湖も気持ちがいいですよ」
女性は、一瞬奇妙な胸騒ぎを覚えて躊躇うと、
「お誘いは嬉しいけれど、今夜はやめとくわ。あっちに友だちも待っているし・・・」
そう断った途端その男性の手が、女性の手首を、いきなりわし掴みにして湖の方へと引き寄せ始めた始めた。
「いいじゃないですか、ほんの小一時間だけですよ。付き合って下さい」
そういう男性の顔が、まるで憎悪に満ちたかの如くあまりに険しく歪んでいるのを見て、彼女の顔から血の気が引き、全身を恐怖が走った。
「やめて下さい!行かないって言っているでしょう!」
全身の力を込めて抵抗したが、男性の腕力が勝り、身体はずるずると湖の方へ引きずられて行く。
少し離れた場所にあるデザートテーブルのそばで、その叫び声を聞いた彼女の同僚女性は、徐々に湖の方へ近付こうとしている友人の様子を不審に思い、飲みかけのビールを放り出して慌てて駆け寄って来た。
「どうしたの!?」
「助けて!この人たち、しつこいのよ!ボートに乗るのなんて嫌だって言っているのに・・・」
女性が悲鳴に似た声で訴えると、同僚女性は怪訝な目つきで苦笑する。
「誰がしつこいって?誰もいないじゃない」
「え?」
振り返ると、そこには男性たちの姿など影も形もなく、ただ湖の真っ黒な水面が広がっていただけであった。
二人の男性は、一体何処へ消えたのであろうか?
女性は、思わず男性に掴まれていた手首を見た。
そこには何者かに握られたようなアザがくっきりと浮かび上がり、しかもびっしょりと濡れていたのだった。
この二人の男性は、一体何者だったのでしょうね?
女性をボートへ乗せて、どうしようと思ったのでしょうか?
満点の星が輝く夜の高原のバーベキューパーティーやキャンプファイアーは確かに楽しいですが、隣にいる人が本当にこの世の者なのかまでは確証が持てないという、不思議な話でした。
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男性受けの悪いヘアスタイル
2012年08月27日
男性受けの悪いヘアスタイル

今日の暑さは尋常ではない。
エアコンをかけているにもかかわらず、家の中を熱風が吹いていた。
この暑さ、一体いつまで続くのか・・・?

で、散歩に行くのもダルいので、部屋でパソコンをいじっていたら、たまたま「男性受けの悪い女性のヘアスタイル」なるページを発見した。

男性と言っても、どんな年代の男性にアンケート調査したのかは定かでないが、どうもしっくりこないという女性のヘアスタイルには、こんなものがあるようだ。
1 前髪を真一文字に切りそろえたヘアスタイル。
これは、女性には清楚とか可愛らしさなどの好印象で受け止められやすいのだが、男性目線からは、不気味、暑苦しい、不潔、カワイ子ぶりっ子----のように思われやすいのだそうだ。
2 頭の上へお団子を作るヘアスタイル。
最近、こういうヘアスタイルをしている女性を時々見かけるが、女性からすれば可愛い、コケティッシュ、ユニークというような雰囲気で、特別嫌な感じもしないのだが、男性目線では、変わり者、みっともない、飛んでいる、彼女にはやって欲しくない髪形ということで、評判はあまりよろしくない。
3 太い三つ編みのヘアスタイル。
女性にとっては乙女の定番ヘアなのだが、男性は、田舎臭い、年を考えてもらいたい----などの気持ちになるそうだ。
そこで、ある程度年齢が行ってからの三つ編みは、きっちり編むのではなく、何となくふわりとルーズに編むのが違和感を懐かれにくいコツだそうである。
4 お嬢さま風の縦ロールヘア。
女の子なら一度は夢に見るお姫様ヘアスタイル。しかし、男性にしてみると、顔が大きく見える、高慢に見える、日常生活には似合わない----など、意外に不評。日本人の黒髪には特に奇異に感じられるスタイルなのかもしれない。
5 クールに見えるオールバック。
知的で出来る女を演出するオールバック・スタイルも、男性には、きつい感じがする、怖い、近寄りがたいといったイメージで受け止められがちだとか。どうしても、このヘアスタイルがしたかったら、カチューシャなどでアクセントを付けることが大事だそうだ。
6 前髪まで後ろできっちり束ねたキャビンアテンダント風ヘアスタイル。
女性にとっては、ある意味仕事場では不可欠なヘアスタイル。ところが、男性には、老けて見える、規格的すぎるなどと、評判はイマイチだとか。前髪をずるずるぶら下げているよりは、よほど好感が持てる髪形だが、確かに年よりも老けて見えることは事実。こういう時は、後ろで束ねた髪のお団子をあまり下へ作らないようにするとか、髪を束ねる位置を少し上げぎみのポニーテールに作るなどの工夫も必要だそうである。
では、反対に男性のヘアスタイルで老け顔に見えるものといえば、どういうヘアスタイルかというと、トップの髪よりも横の髪の方がボリュームがあるヘアスタイルだそうだ。
抜け毛や薄毛で髪のトップがへたって来ると、どうしてもサイドの方が広めに見えてしまい、老け顔の元になる。
若々しく見せたいなら、トップの髪を立たせるようにボリュームを加え、サイドを短めにカットするのが良いとのことである。
ビジネスマンなどの接客業では、あまり過激なヘアスタイルは難しいので、サイドも適度な短さにそろえると無難とのことだった。
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ドライカレーを作ってみた
2012年08月27日
ドライカレーを作ってみた

何か、最近、パソコンの打ち間違いが多くてすみません。(・_・;)\
あとから読み返してみて、誤字脱字がザックザック。
気付いたところから直していますが、変な箇所はだいたいの想像で読んでって下さい。
「噂の東京マガジン」のトライ娘コーナーで、ドライカレーに挑戦していたので、わたしも簡単ドライカレーを作ってみた。
サラダ油を引いたフライパンに玉ねぎのみじん切りを入れ、マーガリン(もしくはバター)を少し加えて良く炒め、ひき肉がなかったので、魚肉ソーセージで代用。
小さく切ったソーセージを玉ねぎと混ぜ合わせると、今度はそこへカレー粉を投入するのだが、これまたカレー粉がないので固形のカレールーで代用。
まな板の上へラップを敷き、固形カレールーを置く。そして、指に気をつけながら包丁でカレールー2かけを刻む。
刻んだルーをフライパンへ入れてから、さらに玉ねぎやソーセージと良く混ぜ、そこへ冷やご飯を投入。
味をみながら塩を足し、カレーが満遍なくご飯と馴染むまで炒めれば完成だ。
粉末ドライカレーの素があれば、もっと手軽に作れるのだが、これでもまあまあおいしく仕上がる。
ところで、あなたは、何かに挑戦したり自分を高めたい時、どんなことを考えるだろうか。
「自分には出来る。必ずやり遂げられるはずだ」
というような自己暗示をかける人も多いのではないだろうか。
これに似たようなもので、痛みを軽減させる場合にも、こうした自己暗示が効果的だそうである。
これは、「クエイズム」という精神療法の一種なのだそうで、たとえば、幼い子供が転んで泣いている時、母親が子供の痛がる箇所を手でこすりながら、
「痛いの痛いの飛んで行け~」
と、おまじないをしている光景を目にすることがあるが、これもその「クエイズム」なのだそうだ。
だが、これをもっと効果的に行なうためには、言葉の中に「痛み」を意識させるような文句を入れない方が良いのだという。
つまり、「痛いの痛いの」を繰り返さずに、「痛いの飛んで行け~。飛んで行け~。飛んで行け~」と、言う方がより暗示の効果は高まるのだそうである。
暗示により、自分を高めたいとか痛みを軽くしたいと思う時は、出来るだけ肯定的な言葉を用いるのがコツだということなのであろう。
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映画で医療問題を学ぶ信大医学部
2012年08月26日
映画で医療問題を学ぶ信大医学部

信州大学医学部では、昨年から二か月に一度ほどの割合で、平日の夕方医学部講義室で、医療問題を題材にした国内外の映画を鑑賞し、それについて医学生たちが感じたことを自由に話し合う授業外の取り組み、「メディカル・シネマ・クラブ」という活動を行なっているそうである。
今年の最初に上映されたものは、2009年のアメリカ映画「私の中のあなた」で、白血病の姉を救うために骨髄などの提供者と期待されて生まれて来た妹が、その姉のための骨髄の提供を拒み裁判を起こすという内容。
臓器提供を目的とした子供の出産は、倫理的に許されるのか----と、いう問題をディスカッションのテーマに選んだ。
この他にも、過疎地域の医師問題を取り上げた「ディア・ドクター」や、医療保険のあり方を問う「ジョンQ」なども鑑賞して来たそうである。
クラブを発案した医学部遺伝医学・予防医学講座のS准教授は、
「映画は、医療問題を整理して具体的に提示してくれる良い教材。さまざまな問題を日常生活に位置付けて考えて欲しいと思った」
と、語っている。
医学生たちは、これから独り立ちして臨床現場での研鑽をつまねばならないわけで、実際の医療現場では患者一人一人の立場や生活を理解した医療提供が不可欠となる。
それには、自分の生きて来た過程の狭い世界しか理解できない知識や人生経験だけでは、患者とのコミュニケーションが取れずに、すぐに行き詰ってしまうことだろう。
そうした人生経験の浅さをカバーするためにも、映画を通して医療現場が抱えるさまざまな問題を疑似体験しておくことは、実に大事なことだともいえる。
そこで、僭越ながら、わたしもそんな臨床医療の参考になるであろう、一つの医療関連のドラマを紹介したいと思う。
それは、アメリカの医療系テレビドラマ「Dr.HOUSE(ドクター・ハウス)」だ。
ドラマには、とにかく色々な症例患者が登場する。一言で言えば、臨床医療を基盤とした画期的な病因推理ドラマである。
このドラマは、2004年からアメリカのFOXテレビで放送されている一話完結のシリーズ物で、制作当初、アメリカのスタッフは、この「ドクター・ハウス」を、細菌を犯人とする「CSI 」のような病気の原因追究のドラマにしようと考えていたのだが、制作して行くうちに、登場人物たちの魅力が大きく膨らんで来て、次第に、人間ドラマの様相を呈するようになって来たのだそうだ。
その軸になっているのが、主人公のハウス医師と、ハウスの同僚で同じく医師のウィルソン部長の友情。そして、ハウスの部下である三人の若い専門医たちの悩みや葛藤。そして、彼らを叱咤し見守る女性、カディ院長の存在である。

ドラマの舞台は、アメリカのニュージャージー州プリンストン・ブレイズボロ教育病院という、架空の病院で、グレゴリー・ハウスは、とにかく高慢で偏屈な、型破りの中年男性なのです。専門は、病気の原因を突き止める解析医学で、彼自身が病気で片足が不自由という設定。
彼は、エリック・フォアマン(黒人男性)、アリソン・キャメロン(白人女性)、ロバート・チェイス(白人男性)の三人の若い医師たちと、討論形式で様々な病気の症例や投薬方法を考え出しながら、難病患者の治療に当たって行く。しかし、ハウスの特異な性格が災いして、すぐに彼らとトラブルになる。特に、フォアマンとは、尽くぶつかり、二人の治療方法のどちらが正しいものとなるかは、ドラマの見どころでもある。
また、リサ・カディ院長は、そんなハウスの性格を百も承知で、院内クリニックの患者も担当させるが、ハウスは、面白くない。彼が興味を示すのは、単なる風邪や腹痛の患者ではなく、あくまでも未知の症例なのだ。
そんな訳で、いつも患者や医師たちともトラブルが絶えないハウスのことを、呆れながらも、決して見捨てず、常に味方になってくれるのが、腫瘍科部長のジェームズ・ウィルソン医師。そして、このウィルソン医師とハウスの問答がまた絶妙なのである。
たまには、このようなドラマを観て、医学知識をテストしてみるのもいいのではないかと思った。
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高齢者のキャパシティー
2012年08月26日
高齢者のキャパシティー

以前、わたしが入院していた時、斜向かいのベッドのおばあさん患者は、食事の時間になるといつも看護師さんを困らせていた。
「こんなしょっぱいお味噌汁、飲めないわよ。もっと、わたしの口に合った物にして。それから、明日の夕食はお刺し身にしてね。二日に一度はお刺し身を食べているの。ご飯も炊き方が下手だわ。もう少し水加減に気を付けてよ」
とにかく、文句が多い。
その都度、看護師さんは、
「お味噌汁は、栄養士さんが考えて減塩になっていますから、大丈夫ですよ。それから、お刺し身は、メニューに入っていませんから、退院したらご自宅で食べて下さい」
と、説明する。しかし、どうしても我慢がならないおばあさんは、お味噌汁をもっと薄味に替えて欲しいと言い張って、看護師さんは仕方なく、別のものに取り替えて来た。
こうした介護施設で職員が最も気を遣うのが、高齢者一人一人の適応能力の違いだという。
若い人たちは、たとえば学校生活でも判るように、皆が給食に同じものを食べても、同じ教育を受けてもそれが当然だと思い、ほとんどの人は違和感を訴えるようなことはない。
ところが、高齢者は、長い人生の間に自分だけの嗜好や習慣が当たり前となってしまっているために、認知症になってもそれを変えることを極端に嫌う傾向があるのだそうだ。
とにかく共同生活というものに馴染めない人が多いのである。
それこそ、味噌汁の味にしても、白味噌でないと嫌だとか、味噌汁の具に関しても自分なりの繊細なこだわりがあるため、それが集団行動のネックとなり、職員へ暴力を振るうなどの問題を持ち上げて、他の入所者の迷惑になるからという理由で、施設を出なければならなくなるお年寄りも少なくないのである。
何事にも柔軟に適応する若者と違い、高齢者が許容できる集団生活のキャパシティーは、かなり狭くなっているというのが実情なのだそうだ。
また、認知症の高齢者がこうした共同生活に順応しにくい理由には、高齢者自身が自分を年寄りだと認識していないケースも多々あるのだという。
自分は、まだ若くて元気なのだから、どうして、こんな年寄りたちと同じ場所にいなければならないのか・・・という思いが、共同生活を難しくする要因になっているのだそうである。
一口に認知症高齢者といっても、彼らはまったくべつべつの人生を背負って来た個々の尊厳を有する人々なのだ---という意識を常に持っていないと、介護は成り立たないというのであるから、職員たちの苦悩は深い。
しかし、もしも、今後介護を受けることになるかもしれない世代が、このキャパシティーを出来るだけ広くすることを心がける生活を日々送ることで、それが習慣づけられれば、いざ自分が施設に入ることになった際、自分自身もプライドを傷付けられるような辛い思いをしないで済むことにもなるのではないだろうか。
それには、「これじゃなくてはダメだ」とか「これしか食べたくない」「わたしのやることが一番」というような固執的生き方を見直すことが大事だと思われる。
規則正しい生活は、心身にとって確かに重要なことかもしれないが、それが自分だけに都合の良い規則になってはいないか改めて考えてみるのも、未来の高齢者たちには必要なのかもしれない。
ところで、ブログの読者は若い人が多いせいか、タイトルに「高齢者」とか「お年寄り」という言葉を入れると、一気にアクセス数が落ちる。
以前、ナガブロでブログを書いていた人も、「ナガブロ読者は、社会問題に関心が低すぎる」と、嘆いていた。
まだ七十代の男性を頭から年寄り扱いして、彼の好きなファッションはモンペだろうなどとの軽口を書くようなブロガーもいるのだから、まだ自身が健康そのものの若者たちには、高齢者に対しては、その程度の認識しかないのは致し方ないといえばないのかもしれないが、高齢者問題は、決して他人事の話ではない。(そのブロガーにも祖父母はいるはずなのだ)
明日の我が身と自覚して、しっかりと考えて欲しいテーマなのである。
因みに、六十代後半から七十代といえば、ロックやポップスのグループサウンズ全盛期の全共闘世代でもあり、ファッションに関しては、今の若者など足元にも及ばないほどの過激なニュールックを愛した人たちでもある。
お年寄り=古い----という観念しか持ち合わせていない若者は、もっと文化史を勉強しなさい!
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本音を漏らせる相手を見付けるには
2012年08月25日
本音を漏らせる相手を見付けるには

人と人の相性というものは、相手に「姿勢反響」があるかどうかで、ある程度は見極められると言われる。
「姿勢反響」とは、相手が自分の動作と同じような動作をすることである。
あなたがカップに手を伸ばした時、無意識のうちに相手もカップをとっていれば、「姿勢反響」が起きたと考えられる訳で、こうしたことが何度も繰り返される相手とは、気が合いやすいともいえるのだそうである。
また、あなたが何か話をしている時、あなたの方へ身を乗り出すような仕草をして聞いているという人がいたら、その人はあなたの話を真剣に聞いている証拠でもあり、逆に、椅子の背もたれに寄りかかるような仕草をしていたり、頭の後ろへ手を回すような格好をしていた場合は、あなたの言っていることを半ばバカにしているか、あなたの話に飽きている証拠なのだそうである。
実際に顔を合わせた場合は、これらのことで相手の気持ちをだいたい推し量ることが出来る。

さらに、あなたが悩みや不満を聞いて欲しいと持ちかけた時、相手がそういうやり取りは迷惑だという素振りをするような場合は、相手にはあなたの本音を聞くだけの度量や余裕が欠けているものと考えて良いだろう。
そういう態度は、一見大人の判断をしているようにも見えるのだが、実際はそうではない。
本心では、そういう話を聞きたくてたまらないと思っているのだが、単なる格好付けで拒否しているだけなのである。
つまり、安易に相談を受けて煩わしいことに関わりたくないという自己保身しか頭にない人だということが判る訳で、そういう人にはたとえ本音を話したところで、何の解決策も見付かりはしないのである。
本音を漏らせる相手とは、まずは良くも悪くもあなたの言い分を頭からすべて受け止めてくれる人であり、あなたの話を聞いた途端に即座に結論を持ち出すような返答をする人ではないということなのである。
わたしもこれまでいろいろな人と会って来たが、おしなべて若い世代の人たちは何故か結論を急ごうとしているように思えるし、それが常識的で知的なやり方だと思い込んでいるのかもしれない。
わたしは、そんな会話の際にも、相手の態度を観察するのが好きで、さまざまな疑問や悩みをあえてぶつけてみたりもするが、中には、何も知らないおばさんが・・・とでも言いたげな顔つきで、上から目線で教え聞かせようとする若い女性もいた。
そんな時は、こう結論付けることにしている。
「この女性は、決して他人が心を許して本音を語れる人ではないな。見えているのは、自分の貧弱な虚栄心だけなのだろう。でも、あと20年もすれば、少しは自分の無知に気付くこともあるかもしれない」
と----。 続きを読む
刑事ドラマに一言
2012年08月25日
刑事ドラマに一言

長野朝日放送で、午後放送されている「警視庁失踪人捜査課」----。
本放送の時は、まったく観ようという気にもならなかったドラマだが、再放送を何気に観ていて、意外に面白いことに気が付いた。
まず、ドラマの設定だが、一応日本の警視庁内にある架空の捜査課を舞台にしているのだろうが、演じている俳優たちの台詞回しや行動は、まるでアメリカドラマのような雰囲気である。
やたらに長い廊下を歩きながらの会話は、よくアメリカドラマが取り入れる手法である。
制作スタッフは、おそらくそうしたことをあえて意識しているのではないかと感じた。
ただ、このドラマが、「相棒」のように息の長いものとならなかったのは、刑事たちの位置づけの失敗が一因であろう。
主人公とパートナーになる刑事を、女性にしたのはまずかったように思った。
女性と男性がパートナーになる場合は、女性側が主人公ならば視聴者心理としてはしっくりくるのだが、男性側が主人公となると、やはりパートナーには男性が良いように思う。
たとえば、戦場物を例に上げると判りやすいのだが、視聴者心理として、男性ばかりが出るドラマは、男性女問わず違和感なく受け入れられる。
しかし、女性ばかりが出るストーリーは、何処かぎこちなさが消えないものらしく、よほど脚本やキャスティングがしっかりしていない限り、観る人の好感を得にくいという難しさがあるのだそうだ。
また、もう少し各刑事たちの個性を出せば、判りやすくなったのかもしれない。
個人的には、主人公に過去のトラウマがあるという設定はあまり好きではないので、これもドラマを煩わしくさせている要因だろう。
そんな訳で、今までまったく観なかった「相棒」以外の刑事ドラマを、このところ時々観ている。
ユニークなのは、「警視庁捜査一課9係」だろう。
「太陽にほえろ!」の正統派刑事ドラマ路線を行くシリーズ物で、たとえ未遂とはいえ同僚刑事同士がベッドを共にするような踏み込んだ恋愛模様をストーリーに盛り込んだものは、あまりお目にかかったことがない。
まるで、「キャグニー&レイシー」のようで、日本のドラマもだんだんアメリカ並みになって来たなァ・・・と、ちょっと笑った。
「遺留捜査」に関しても、女性上司が気丈なやり手で、彼女に対して、先日の放送で殉職した部下が淡い恋心を懐いていたことを、主人公だけが知っている----という設定も、なかなか面白かった。
刑事ドラマは、かつての「七人の刑事」や「太陽にほえろ!」のような完全男性主義的イメージから、次はその反動からか、やたらに一人の女性刑事が肩ひじ張って悪に立ち向かう「エイリアン」のリプリータイプになり、今は男性刑事と女性刑事が性別に関係なく、より人間臭さを垣間見せながら、犯人を追いつめるという形態に変わりつつあるようだ。
今後は、どんな刑事ドラマが作られて行くのだろうか?
人情やリアリティーばかりを追求しても、決して面白いものは生まれないだろうから、これまで以上に制作側のアイデアの質が問われることになるのだろうな。
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増える認知症高齢者
2012年08月24日
増える認知症高齢者

厚生労働省は24日、2012年の認知症高齢者が推計で305万人に上ると発表した。65歳以上人口の約10%を占める。従来の予想を上回るペースの増加で、20年には400万人を超える見通しだ。
厚労省によると、03年時点での予想は10年で208万人、15年で250万人、20年で289万人だった。同省は認知症高齢者が当初の予想を上回った原因について(1)介護保険制度が普及し調査対象者が増えた(2)高齢者の寿命が延びた(3)病院で受診する高齢者が増えた―などと分析している。
しかし、10年9月の要介護認定に関するデータを基に推計し直した結果、10年ですでに280万人と予想の1.35倍となっていたことが判明。15年で345万人、20年で410万人、25年で470万人に達するという。(YAHOO!ニュース)
確かに、病院へ行っても、「この人認知症じゃないのかな?」と、思えるお年寄りが多い。
会計窓口で、自分の番が来ていると勘違いして会計を済ませようとしていた高齢者に、担当職員が何度も、「まだ、お名前をお呼びしていないので、もう少しお待ちください」と、繰り返していたこともある。
また、ある日用雑貨量販店では、ゴムホースのある場所をレジの店員さんに訊ねていた高齢者がいたのだが、ホースの販売コーナーを教えてもらい、そちらへ歩き出した途端、
「あの~、今、教えてもらった場所だけれど、何処だったっけ?」
と、問い直した。店員さんは、もう一度説明するが、やはりその高齢者は、後ろを向いてそちらへ歩き出した瞬間、
「えっと、何処だって?」
と、再び聞き直していた。すると店員さんは、いったんレジ打ちの手を止めて、高齢者をホースのコーナーまで案内したのだった。
こんなこともあった。
ある店舗で70代とおぼしき友人女性たちが数人で買い物をしていたのだが、その中の一人が、店員さんに品物の値段を聞いた。
店員さんが、「〇〇は、500円で、△△は600円です」と、言う。値段を訊いた女性は、そのことを少し離れた場所にいた仲間の女性たちに伝えようと歩き出したのだが、思い出したように、また店員さんのところまで戻った。
「△△は、いくらって言ったっけ?」
「600円です」
「ああ、そう----」
女性は、そう言って歩き出したが、直後にまた店員さんの所へ戻り、
「いくらだって?」
と、訊ねたのである。こういう風景は、最近何処でも目にするようになって来たので、さほど奇妙とも思わなくなって来た。
こうした高齢者の応対をする店員さんたちも慣れたもので、決して嫌な顔や不思議そうな顔もせずに自然な様子で何度でも根気強く返答しているのだ。
認知症高齢者に対する社内教育が徹底している証拠だと思う。
これからの社会は、一人暮らしの高齢者も多くなり、ますますこうした介添え人なしで生活をするお年寄りたちが増えて行くことだろう。
しかし、周囲の人々が奇異な目で接することなく軽度の認知症の人たちを受け入れ、そういう光景が当たり前になる時代が、既に始まっているのだという実感が見えた瞬間でもあった。
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独身者と既婚者の価値観のズレ
2012年08月23日
独身者と既婚者の価値観のズレ

ヤフーの知恵袋に、既婚女性からの面白い投稿があった。
「昔から付き合いのある独身の友人女性とよくランチを一緒にするのだが、友人は今まで通り3000円クラスのランチを食べに行こうと誘う。友人は、年収1000万円もある高給取りだから、そのぐらいは当たり前のように思っているのだが、わたしは、結婚してからは自由になるお金もないし、夫の給料のことや将来を考えれば、そんな贅沢はとてもできない。
ランチに1000円出すのだって考えてしまう。なのに、友人はそのことにまったく気付いてくれないので、どうしたらいいのか困っている」
これに対する回答は、
「夫が安月給なので、もう以前のようなランチは食べられない。もっと、安いお店へ行かない?と、夫のせいにして友人に本当のことを話す」
「ランチ代で破産するなんてバカらしい。そんな金銭感覚の友人となら別れたほうがいい」
と、いうものが大半だった。
確かに、ランチに3000円は法外だろう。
いったい、その友人は何をやっている人なのだろうか・・・と、そちらの方が気になるが、時には、こうしたケースの逆もある。
独身時代は爪に火をともすような生活をしていたのに、お金持ちの夫をゲットした途端に、毎日のランチ代に2000円も使うことが当たり前になってしまったという女性もいるのだ。
独身者と既婚者には、どうしても価値観にズレが生じやすくなる。
既婚者は、何処にでも我が子同伴は当たり前で、独身者と会う際もついいつもの感覚で連れて行ってしまうのだが、独身者にしてみれば、これほど迷惑なことはない。
わたしの大学時代の友人も、同じく大学の友だちが子供を連れて彼女の家を訪ねた時、とうとうブチ切れた。
「子供なんか連れて来ないでよ!ゆっくり話も出来ないじゃない!」
そうなのだ。わたしの友人は、かつての同級生と静かに思い出話や近況を語り合いたかったのだが、子連れの相手とでは気を遣ってしまい、それが出来ないのである。
いや、子供だけではない。相手に夫がいるというだけでも、独身者は既婚者に気を遣う。
お互いに独身時代は、男性の職業や容貌なども話のタネにして面白おかしく盛り上がっていたはずなのに、話題が相手の夫にも関係するのではないかと思えば、腹話も出来なくなると、その友人は言う。
独身者と既婚者の間は、そうやって疎遠にならざるを得ないことが往々にしてあるのだ。
この質問者の女性と、その金持ち友人の間も、おそらくそんなところであろう。
質問女性は、「友人に気遣いがない」と思い、友人の方は、「結婚してしみったれたわね」と、落胆する。
どちらが悪いわけではないのだが、要するに住む世界が変わってしまったということなのである。
もしかしたら、友人女性もまた、結婚したことでそれとなく会話の中に夫の話題を持ち出す質問者に、
「旦那の話題なんかどうでもいいわよ。のろけ話なんか別の場所でしなさい。気遣いのない人ね」
と、立腹していたのかもしれない。それが、3000円のランチへの誘いという意地悪になって表われていた可能性もある。
既婚者と独身者が親しい友人同士の場合、仲を長続きさせるコツは、経済観念を低い方へ合わせることと、既婚者は出来るだけ独身者の前では子供や夫の話題を持ち出さないこと----などが、大事なのではないだろうか。
既婚者にとっての夫は生涯をかけた大事なパートナーかもしれないが、その夫を知らない独身者にとっては、ただの見知らぬ赤の他人に過ぎないのだから・・・。
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絶妙な距離---2.195キロ
2012年08月22日
絶妙な距離---2.195キロ

何故、マラソンの距離は、42.195キロなどという中途半端なことになってしまったのかといえば、104年前のロンドン五輪でのコースは、当初、イギリス王室が所有するロンドン郊外のウィンザー城を出発し、名門のイートン校やハロー校などを経由する競技場入り口までの約40キロの予定だったそうなのだが、当時の英皇太子が、「子供たちにスタートを見せたい」と望んだために、この端数が生まれてしまったというのが、有名な説ではある。
しかし、これには他の説として、「最後の385ヤード(352メートルは)王室関係者だけではなく、約10万人の観客にもレースを楽しんでもらうために生まれた」という理由もあるのだという。
この不思議な端数だが、元マラソン選手の瀬古利彦さんは、この端数があったからこそ、マラソンは劇的なドラマを形成するスポーツとなり得たのだと話す。
「(この端数は)実に不思議な距離で、マラソンは40キロを過ぎてからドラマがいっぱいある。35キロからが本当の勝負と言われるが、最後の2.195キロで練習した人としてない人の差がはっきりと出るのだ」
と、いうのである。
この約2キロ延びた距離は、「ドランドの悲劇」のような五輪史で語り継がれる物語を生んでもいる。
イタリア選手のドランド・ピエトリは、ゴール手前で意識がもうろうとして、何度も倒れては起き上がるを繰り返しながら、息も絶え絶えに競技役員の手を借りてテープを切った。
しかしこの後、「助力を受けた」というアメリカの抗議によってピエトリは失格となり、二着のジョニー・ヘイズが金メダルを獲得したのだった。
今回のロンドンオリンピックでも、男子マラソンは、正にこの端数の戦いでもあった。
1908年のロンドンオリンピックで偶然に生まれた2.195キロではあるが、これがあったからこそのマラソンともいえるのであろう。
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あなたには説明力があるか?
2012年08月21日
あなたには説明力があるか?

ヤフー知恵袋を読んでいて時々思うのだが、投稿者が何を言いたいのか良く判らない質問文がある。
ある投稿は、今風の書き方である「そうゆぅことを・・・」とか「こんにちわ」などの幼稚なひらがなを連ねて文章が進んで行くので、それだけでも読みづらいのだが、とにかく感情が先走り過ぎて、状況説明がメチャクチャなのである。
文章の途中から、彼女という言葉が入って来るのだが、その彼女が投稿者自身のことなのか、それとも別の女性を指すのかも次第にこんがらがって来てしまっていた。

女性が三人出て来たら、その三人がそれぞれ誰なのかを読んでいる人にしっかりと判ってもらわなければならない。
そして、次に大切なことは、文章が自分本位にならないということだ。
自分は知っていても、読んでいる相手は初めて知る話ばかりなのだから、状況説明も出来るだけ詳細に行なう方が良いだろう。
さらに、そうした状況説明に欠かせないのは、物の名称や用語である。
物の名前が判らなければ、それが何というものでどのような使い方をすればいいのかも、相手に納得させることは出来ない。
その投稿者の文章は、これらがしっかりと書けていなかったために、回答者からの返事は、投稿内容である悩み相談に対する回答ではなく、
「それよりも、あんた小学校からもう一度作文の勉強し直せば?」
「こんな判りにくい文章しか書けないなんて、まずはそっちの方を心配しろよ」
「話が見えないので、答えようがありません。ごめんなさい」
というものが多かった。
ブログを書いていても、確かにいちいち状況説明をするのが煩わしいこともある。
もっと手っ取り早く自分だけが判る言葉で出来事を羅列したいと思うこともあるが、それでは読んで下さる人たちには実に不親切な文章になってしまう。
あなたには、他人に言いたいことを理解してもらえるだけの説明力があるだろうか?
読んでいる人が文脈を通して矛盾や疑問を感じない----そんな文章が書けているだろうか?
他人に正確に物事を伝えるということは、簡単なようで意外と難しいものなのである。
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高校野球のあり方
2012年08月21日
高校野球のあり方

日本高校野球連盟は21日、2年生の部員が強盗容疑などで逮捕された作新学院(栃木)が岐阜国体(9月30日開幕)の高校野球(硬式)の出場を辞退したと発表した。同校から申し出があり、受理された。補欠1位校の仙台育英(宮城)が代わって出場する。
作新学院が出場していた全国高校選手権開催中の17日にこの部員は逮捕されたが、同校は連帯責任を問われず出場を続け、21日の準々決勝で東海大甲府(山梨)に負け、敗退した。この部員は出場登録メンバーではなかった。(YAHOO!ニュース)
まあ、作新学院の国体辞退は当然の決定だと思う。
このまま出場したら、戦う相手校にも失礼だろう。
高校野球は、あくまでも教育の一環である。
甲子園での勝ち負けは、それに付随する結果だといえる。
最近の高校野球は、あまりに物理的にも精神的にもプロ化し過ぎていて、学校も生徒も、高野連も、これが学業の一部であることを忘れているのではないだろうか?
野球部員は、グラウンドという青空教室で野球というスポーツの勉強をしているのである。
にもかかわらず、今は試合を勝ち進むことのみが主眼となり、大会を通じての生徒たちの心身の成長は蔑ろにされている感が拭えない。
高校生が野球を通して、体力向上や連帯力、忍耐力、信頼感、積極性、責任感、ルールや歴史文化としての知識、礼節、そして世の中は決して自分の思い通りに運ぶ訳ではないことを学ぶのが、部活動の最大の主旨である。
確かに、甲子園での高校球児たちの溌剌としたプレーは、国民に勇気や元気をもたらすものではあるが、上記の主旨が確実にベースにないのなら、高校球児という名前は返上して欲しいものである。
今年の夏の甲子園大会は、何となく後味の冴えないものになってしまったなァ・・・。


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縁は異なものとは言うけれど・・・
2012年08月20日
縁は異なものとは言うけれど・・・

「おれ、今までずっと考えて来たんだけれど、本当はもっと違う人生があったんじゃないかって・・・さ」
以前、ある男性がこんなことを言っていた。
「実はさ、今の女房のこと、結婚した時も何とも思っていなかったんだよね。そもそも、どうしてあいつと一緒になったのかだって、未だに良く判んないんだよ。
まだ、独身の頃、おれ、ある出版社へ仕事で何回か出入りしたことがあったんだ。
その時、そこにすごく可愛い事務の子がいてさ、その子会いたさにその出版社の仕事は自分に任せて欲しいって上司に頼んだくらいだったから、いつか一緒に飯でも食いに行きたいな・・・なんて考えて、ある日、一大決心でその子をデートに誘うことにしたんだ。
でも、それを話そうとした日は、ちょうど彼女、出版社を休んでいて、彼女と一緒に事務をとっていたもう一人のちょっと小太りの若い女性事務員に、彼女を食事に誘いたいということを伝え、彼女の返事を待っているって、おれの電話番号(携帯電話はない時代)を教えておいたんだ。
そしたら、翌日だったと思うんだけれど、伝言頼んだ女子事務員から電話がかかってきて、彼女に伝えたらデートOKだって言うんで、おれも喜んで当日待ち合わせ場所へ行ったんだよ。
でも、そこで待っていたのは彼女じゃなくて、おれが伝言頼んだ女子事務員で、『あの子、急な用事で来れなくなっちゃったから、代わりにあたしが来た』って言うんだよね。
まあ、用事なら仕方がないかな・・・ってことで、おれも帰ろうとしたら、その事務員が、『どうせここまで来たんだから、一緒にご飯でもどう?あたしがおごるよ』なんて言い出して・・・。
おれも腹へっていたから、つい何気にご馳走になっちゃって・・・。そしたら、次の日にその事務員から電話が来て、『今度は、一緒に映画でも観る?』なんて言うもんだから、そればかりは断わったんだけれど、『彼女も一緒だよ』って言うんで、それならとOKして、また待ち合わせ場所で待っていたら、来ていたのは、やっぱりその事務員だけだったんだよ。
それから、何となくその女性事務員とばかり付き合うようになってさ。
それが、今の女房ってわけ----。
何か、おれ、うまくだまくらかされたような気持ちのまま、こんな年齢(とし)になっちゃったんだよね」
縁は異なものとはいうけれど、この男性は、やっぱり奥さんの術中にまんまとはめられて、はずみで結婚してしまったんだろうな。
奥さんは、男性のことが大好きで、たぶん、彼が見染めた女子事務員に、彼女への伝言は一切伝えていなかったんだと思う。
意中の女性を確実に射止めたいと思ったら、仲介者を立てるのは考えものだ。
男性の話は、たとえどんなに遠周りでも、ズクを惜しんだら本命を逃すことにもなり兼ねないという、ある種の教訓だな。
とはいえ、その好きでもなかった女性と既に何十年も夫婦でいるのだから、結局、人の心なんてものは他人には計り知れないんだけれどね。

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突然ギレする日本人
2012年08月20日
突然ギレする日本人

今日、あるクリニックの待合室でテレビを観ていたところ、NHKの「特報首都圏」という番組で、現代人のストレスが各所で暴力事件を引き起こしている----との話題を取り上げていた。
暴力事件が多発している場所の一つが、駅だという。
すれ違いざまに肩がぶつかったというだけで、相手を刺してしまった30代男性は、

と、警察の取り調べに答えたという。また、プラットホームから電車待ちの人を線路上へ突き落した男性も、
「とにかく、イライラしていた」
と、話したらしい。駅構内で切符の買い方に戸惑っている人に助言しようとして、いきなりその男性から顔面パンチを浴びせられたという駅員もいるという。
他の暴力多発場所には、病院もあるという。
診察の待ち時間が長いことから、「いつまで待たせるんだ!」と、暴言を浴びせられた看護師や職員は全体の30パーセントから50パーセントにも上り、時には、
「診察室へ出入りする事務職員の顔が暗すぎるから、あんな奴はやめさせろ!」
などの、どう考えても患者本人には直接何の関係もないことで、キレまくられた職員男性もいたそうである。
このような公共の場でのイライラ爆発が近年多くなっている背景には、社会の過剰サービスが影響しているのではないかと、番組ゲストの専門家は話していた。
あまりに社会のサービスが良くなり過ぎたことに慣れ切ってしまい、それ相応のサービスが受けられなかった時の自制が効かなくなっているのも、キレる人間が多くなった原因の一つであるということだった。
「昔の日本人は、もっと心にゆとりを持っていたし、他人に対しても寛大だった」
と、専門家は話すが、では、どうして現代人は他人への寛容さを失ってしまったのか----といえば、
「それは、現代人に寂しい人が多くなったからである」
とのことであった。人の孤独感や寂しさは、そうでない人を見た時、瞬時にして怒りの感情に変わるのだという。
世の中にイライラが蔓延している理由は、それだけ寂しい人が増えた証拠でもあるのだ。
自分の周囲の幸福感が煩わしくてならない人たちは、自身の中の苛立ちをどんどん膨張させて行くわけで、あるところまで膨張しきった時、たまたまそばにいた人に対して、その感情が暴力的に爆発するのである。
某会社は、そんな孤独を抱えがちの社員のストレス緩和のために、古民家を利用して社員同士の親睦を深めているそうである。
一人が好きだという人たちも、結局はたった一人では感情のはけ口を見付けられないのである。
「突然ギレ」という一種の現代病を克服するための特効薬は、とにかく孤独にならないこと----なのかもしれない。
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