ただの雑感・・・・・148
2009年08月31日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ただの雑感(ネタがないので)(>_<)
わたしのパソコンは、クリックした途端に画面が一瞬下へ落ちることがよくある。
だから、「ナガブロ」のトップページを開いて、並んでいる写真を見て、「お、これ見てみよう」と、その写真をクリックした時、画面がゴンと、下へ落ちる訳で、結局、開かれたのはその写真の上のブログ-----なんてことがしょっちゅうなのだ。
しかし、中には、絶対に読みたくないと思うブログもある訳で、誤ってそれが開いてしまった場合は、こちらの「足あと」が、しっかり相手の管理画面に残ってしまうので、実に、ムカつくのだ。
トップ画面を見る時は、「足あと」を消す設定をすればいいのだろうが、何せ、性分が面倒臭がりやなもので、ほとんど「ログアウト」状態にすることはない。
今日もまた、ど~でもいいブログを一つ誤ってクリックしてしまった。わたしが、既に読む意味のないブロガーのブログだと思っているものだ。たぶん、わたしのハンドルネームを「足あと」に発見したブロガーは、「粗忽者が!」と、嘲笑っていることだろう。いや、もしかしたら、中信地域に住むさるブロガーが、時々わたしにやるような、「ある種の嫌がらせ」と、捉えられているかもしれない。
でも、それならば、それでもいいのだが、もしも、こちらが引導を渡したブロガーのブログに、わたしの「足あと」が、突然、現われた時は、パソコンの不調による単純ミスだと、ご理解願いたいものだ。

ただし、時々、わたしの甥っ子が、わたしのパソコンで「ナガブロ」を見る時があるので、その際に、「足あと」が残ることがままあることも、重ねてご了承願いたい。

ところで、この間、テレビを観ていたら、視聴者投稿ビデオの中に、実に恐ろしいシーンが写り込んでいるものがあった。
病室の青年が寝ているベッドの脇から、見知らぬ人の顔がのぞいているものや、三面鏡の前で書きを梳かしている三歳ぐらいの女の子が、ビデオを撮影しているお母さんの方を向いて笑っている時、三面鏡の中にはもちろん女の子の後頭部が映っているのだが、ただ、一番右端の鏡にだけは、前を向いてこちらを睨む女の子が映り込んでいるという、何とも奇怪なものであった。
もう一つは、夜の闇の中を、白い着物を着た首なしの男がものすごい叫び声を発しながら、若者たちを追い掛けて来るという映像。これも、かなりのインパクトがあった。
これらは、もし映像処理をされたものでなければ、何と説明したらよいのだろう。
スタジオのゲスト・タレントたちも、あまりの怖さに、凍りついていた。


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ああ、勘違い!・・・・・147
2009年08月30日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ああ、勘違い!(>_<)
世の中には、「どうしてこんなことを!?」と、いうように、他人が仰天するような勘違いをしている人が、たま~にいるものですね。
ほとんどが、長年この土地に住んでいる年配者の中から選ばれるのが常ですが、それでも、中には、選ばれるまでに何年もかかってしまう人もいるのです。
そうなると、候補者であるご主人よりも、やきもきしてしまうのが妻の方で、うちの主人は、このまま、組長を経験しないで終わってしまうのだろうかと、心配でならないのです。
ところが、そんな時、ご主人がようやく組長に選ばれたという女性がいました。しかし、いざ、選ばれてしまうと、今度は、組内の様々な行事や書類の作成、会計などなど、仕事が目白押しで、他の役員たちの協力があるとはいえ、ご主人の能力では、何とも心もとないと、思った女性は、いつしか、相談役や、役員の人たちがその組長宅へ集まると、必ず、ご主人のそばに座って、話を聞くようになっていたというのです。
これには、役員たちも、呆れかえり、
「奥さん、ここは、一応、組の役員会議の場なんだから、関係ない人は遠慮してもらいたいんですけれどね」
と、言いましたが、その女性は、言われている意味がよく判らなかったものか、
「だって、あたしは、組長の妻なんですよ。一緒に話を聞いてもいいじゃないですか」
と、ひどく不思議そうに言ったのだそうです。
そして、この女性は、ついに極めつけの「勘違い」をしでかしてしまったのです。正式な組の会合が公会堂であった時、ご主人がちょうど病気で欠席しなければならなくなったにもかかわらず、副組長へ委任をすることなく、この女性が組長代理だといって、出席してしまったのです。
会合に出ていた組員たちは、皆、びっくりしました。組長が欠席の場合のために、副組長がいるのです。どうして、まったく関係のない組長の妻が、会議を仕切らねばならないのでしょうか。
これには、流石に、役員たちも厳しく言って聞かさねばならないと腹を決め、
「奥さん、組長さんの代理は、副組長さんがやりますから、席から下がってもらえませんかね」
と、説得したところ、やっと、女性は、自分が場違いのことをしているのだという現実を察し、思わず赤面して、そこから逃げ出したのだといいます。
南米の何処かの国では、夫が大統領になった途端、次の大統領には自分がなれるものと信じて、議員の資格もないのに、いきなり選挙に打って出ようとした夫人もいたと聞きます。
女性の中には、自分の夫が役職に就くと、自分も同じくその職に就いたように勘違いをしてしまう者がいるのです。
確かに、奥さんの内助の功でご主人は出世出来たのかもしれませんが、夫と妻は、まったく別の人間なのだということを、しっかりと、肝に銘じてほしいものだと、思いました。


老人の話はくどくなる・・・・・146
2009年08月29日
~ 今 日 の 雑 感 ~
老人の話はくどくなる
先日、友人たちと話をしていたら、「どうして、年寄りの話は、やたらにくどくなるのか?」という話題になりました。
すぐに、言葉が口から出て来ずに、こちらが質問しても、相当時間が経ってから返事が返って来るのも、不思議だと、いうのです。
すると、ある友人が言いました。「経験がありすぎて、何から先にしゃべったらいいのか、どんな言葉で語ればいいのか、自分の話が間違っていたらどうしようとか、そんなことを色々考えているうちに、返事に時間がかかってしまうんだと思うよ」
それを受けて、別の友人が、「わたしだって、この前、若い人たちに交じって、ある試験を受けたんだけど、最後に作文が出て、テーマが、『涙』でね、若い人たちは、みんな、何の躊躇もなくスラスラと書き始めているんだよね。でも、わたしは、すごく悩んじゃって、原稿用紙と十分もにらめっこしちゃった。だって、『涙』にも、いろんな『涙』があるでしょう?嬉し涙や、悲しい涙や、悔しい涙や------。わたしには、あんまりたくさんあり過ぎて、何を書いたらいいのか、判らなくなっちゃったのよ」
わたしも、聞いていて、確かにそうだろうなと、思いました。二十代の頃の『涙』にまつわる思い出などは、身内が、亡くなったこととか、飼っていた犬や猫が死んだこととか、怪我をしたり病気になったりしたこと、イジメに遭ったなどということぐらいの、ごく狭い経験しかありませんが、年を取るにつれて、『涙』の訳も、複雑に変化し、それに対する感受性も若い頃とは変わって来ます。
「死」という概念一つにしても、「小さな女の子が交通事故で死亡」などというニュースに接した時、わたしたちは、「可哀そうに」「気の毒に」「ひどい話だ」などと、思いますが、ある高齢者の女性に意見は、それとはまったく違うものでした。
その女性は、こう言ったのです。「死んでよかったんだよ。この世の中、女なんて、生きていたって面白いことなんか何にもありはしない。わたしみたいな寂しい年寄りになるくらいなら、子供の頃に死んじまったほうが幸せってもんだよ」
そんな会話の途中に、一人の友人は、「だから、お年寄りの話は、やたらくどくなるんだね」と、言い出したのです。
「わたしね、近所のお年寄りの人たちと世間話をするボランティアをやっているんだけれど、お年寄りの話って、すごく進み方がのろいのね。いつまで待っても、結論が出て来ないの。それこそ、お寺へお参りに行ったという話でも、朝起きて、庭の花に水をくれたところから始まるのよ。それも、まっすぐには進まずに、お隣のおじいさんが出て来て挨拶をしたという所から、そのおじいさんのお孫さんの話の方へ脱線して行ってしまうのね。こちらが、お寺の話の方へ話題を軌道修正しようとしても、また、違う方の話を延々と続ける訳よ。どうして、そんなことになってしまうのか、最初のうちは判らなかったんだけれど、この頃、ようやくその理由が判ってきたの」
その友人が、気付いた理由というのが、
「お年寄りは、みんな、寂しいんだよ。話をサッサと進めて、結論を出してしまえば、わたしたちが、早く別の人の方へ行ってしまうと思っているみたい。出来るだけ、長く自分のそばに引きとめておきたいから、わざと、話を長引かせているんだよね」
そうなんです。そのことは、わたしも薄々気付いていました。
これは、今から、五、六年前のことですが、近所の主婦が困っていたことがあったのです。ある時、その主婦が、買い物先で偶然に一緒になった七十代の女性に、何気なく「今度、うちに遊びに来て下さい。お茶でもどうですか?」と、誘ったところ、その夜さっそくその七十代の女性が主婦の家を訪れ、深夜の十二時を過ぎても帰らず、おしゃべりを続けていたのだというのです。さすがに、主婦のご主人が怒ってしまい、女性の家族に電話をかけて、迎えに来てもらったのだと、話していたことを思い出しました。
高齢者は、心の中に、山のような憤懣や、寂しさを抱えている。話をしている時だけが、唯一、安心していられる時間なのでしょう。しかし、高齢者同士の対話では、自分の方が大変な思いをしているんだという被害者意識と自尊心の方が前面に出てしまい、とかく、トラブルが発生しやすくなることも事実なようです。
これからは、ますます高齢化社会が進み、自分の話を聞いてほしいと思う老人が急激に増えて行くものと思います。そういうことも考えて、高齢者自身もまた、話は出来るだけ簡潔に済ませるという努力をして頂きたいと、思うのです。

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軍歌を歌ったことありますか?・・・・・145
2009年08月29日
~ 今 日 の 雑 感 ~
軍歌を歌ったことありますか?
皆さんは、「軍歌」を歌ったことありますか?
今では、戦争回帰とか、古臭いとかなどの理由で、あまり歌われなくなった「軍歌」ですが、そういう政治的背景をまったく抜きにして聴いてみますと、どうして、これが、なかなかの名曲が目白押しなのです。
歌詞も、曲も、今の若手が作る曲先の歌とは根本的に違い、軍歌の歌詞は、日本語の美しさを最大限に引き出している、実に的確な言葉遣いを用いているものが多いのです。
しかし、現在は、軍歌を歌いたいなどといえば、右翼か何かと勘違いされるというので、カラオケでも敬遠されがちだと言います。そんな訳で、肩身の狭いジャンルではありますが、もしも、これらの軍歌の歌詞を書き換えたら、もっと気軽に歌えるようになるのではないだろうかと、考えます。
それほどに、曲のいい歌がたくさんあるのです。
特に、わたしが好きなのは、「空の神兵(そらのしんぺい)」「燃ゆる大空」「雪の進軍」などです。
「空の神兵」は、落下傘部隊の勇姿を描いた歌ですが、歌詞といい、曲といい、今聴いても、決して不自然さのない「軍歌」だと思いますし、特に、メロディーの美しさは、たくさんの軍歌の中でも群を抜いていると思います。
また、「燃ゆる大空」は、その軽快なメロディーを、一度聴けば必ず覚えてしまうほど、明るく、さわやかな軍歌です。
そして、皆さんもよくご存じの「雪の進軍」。これは、映画「八甲田山」の中で、雪中行軍をする兵隊たちが何度も口ずさむ有名な軍歌です。
でも、せっかくのこの名曲も、軍歌というだけで敬遠されるというのは、如何にももったいないと思うのです。何とか、歌詞を現代の人たちが気軽に歌えるようなものに変更して、後世まで歌い継ぐことは出来ないものでしょうか。
年配の従軍経験者たちだけが、過去を偲(しの)んで歌うというだけでは、きっと、あと数十年で、こうした歌は日本の歌謡史から姿を消してしまうのではないかと思うのです。
戦争とは全く切り離して、純粋に歌謡としての「軍歌」を評価してみるのも、必要な時期が来たともいえるのではないでしょうか?
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ピアニスト・辻井伸行・・・・・144
2009年08月28日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ピアニスト・辻井伸行
世の中に、ピアニストと呼ばれる人は星の数ほどもいますが、その演奏テクニックをこれでもかと見せつけたり、いわゆるコンクール必勝マニュアル通りの弾き方で、聴衆を惹きつけたとしても、それは、ほんの一時の喝さいを浴びるだけで、そのピアニストの生命を持続させることはできません。
音楽も、絵画などの芸術を同じように、その演奏家独自のだれも真似の出来ない「色」が出せなくては、本物といえないのが常です。
世界中に毎年現われては消えて行くあまたの綺羅星の如き、若いピアニストたちの中で、この辻井伸行というピアニストには、何処か他の者たちとは違うな-----と、思わせるものを、わたしは感じました。
わたしは、辻井さんの演奏をテレビでしか観聴きしたことがありません。しかし、初めて、彼の演奏を聴いた瞬間、何か、とても温かな感覚に包まれたのです。
辻井さんのピアノには、特別あざとい技術がある訳ではなく、最近の若手によく見られる大袈裟なパフォーマンスがある訳でもありません。
聴衆に媚びるような技を労しなくとも、その身体からにじみ出る何とも言えない優しさが、音となってピアノの鍵盤からあふれ出るといったような、絶妙な味わいが、彼の演奏にはあるのです。
おそらく、それは、辻井さんが生れながらに持っている本能的な勘といいましょうか、筋肉の収縮といいましょうか、誰かに教えられて身に付いたというものではなく、辻井さんが天性有している独自の力加減が、そんな演奏を可能にしているのだと思います。
大きく翼を広げたと思った途端、すうっとその力を抜く。抜いたと思った瞬間に、再び這い上がるような伸び上がりを見せる。今まで、何度も、聴きなれた曲が、まったく別物のように生命を吹き込まれ、生まれ変わる-----。
まったくの素人が聴いても、「おっ、いいね」と、思ってしまう安心感が、そこにはあるのです。
ピアノを弾いたことのある方はお判りになるでしょうが、他の楽器と同様に、いったん鍵盤の位置が頭に入ってしまうと、何処にどの音があるかなどということは、特別鍵盤を見ずともほとんど感覚で判るものなのです。もし、目をつむっても、簡単な曲なら、普通の人でも空で弾くことが可能です。
つまり、目の見えない人がピアノを弾くのと、健常者が弾くのと、さほどの違いはありません。つまり、問題は、一番最初に弾こうとする曲を、どのように覚えるかということだけなのです。それを、楽譜で覚えるか、点字の譜面で覚えるか、耳だけで聞いて覚えるか、それは、ピアノを弾く人の選択の自由というところでしょう。
もし、健常者でも、楽譜の音符が理解出来なければ、誰かの演奏したピアノ曲を何度も聴いて覚えてもいいのです。そこに、メリット、デメリットはありません。
確かに、辻井さんは目が不自由ですが、一般のピアニストと、何ら変わりはないのです。それでも、彼のピアノは素晴らしい。そして、素晴らしいと思えることの理由のもう一つに、辻井さんの演奏がとても判りやすいということもあるのです。
芸術でも、文章でも、判り易さというものは、とても重要です。
何故か、辻井さんの演奏を聴いていると、「あ、もしかしたら、わたしにも弾けるかも・・・・」と、思わせるような親しみやすさがあるのです。もしも、子供たちが、彼の演奏を聴いたら、「自分もピアノを習ってみようかな?」と、思うのではないかとすら感じます。
わたしにとって、辻井伸行というピアニストの出現は、ちょっと嬉しい発見でもありました。
*** 辻井伸行-----ピアニスト。1995年7歳で全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノ部第1位受賞。2009年6月7日、アメリカで開催されたヴァン・クライバーン 国際ピアノコンクール優勝。
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男の戦争と女の戦争・・・・・143
2009年08月27日
~ 今 日 の 雑 感 ~
男の戦争と女の戦争
人間の記憶というものほど、不確かなものはないようです。
あれほど辛く、苦しく、悲惨な記憶であるはずの太平洋戦争も、時が経るにつれて、人の心の中では、様々な化学変化を起こし、ある人にとっては、逆に甘美な記憶へとすり替わってしまうことすらあるようなのですから。
また、逆に、大して辛い経験ではなかったことまでも、恐ろしく悲惨な体験として、記憶に刻まれてしまっているという人もいます。
この記憶の違いは何なのでしょうか?同じ体験をしても、ある人は、良き思い出として、また、ある人は、二度と思いだしたくないほどの現実として心に刻んでしまう。
わたしには、色々、戦争中の体験談を高齢者の方たちに取材しているうちに、そこには、簡単にいって、男女の性別の違いがあるように思えて来たのです。
わたしが、話を聞かせて頂いたある男性高齢者の方は、海軍の主計兵(調理場で働く兵士)でした。
その男性は、軍艦の中で兵士たちの食事を作る仕事をしていたのですが、やはり兵隊である以上敵の攻撃にさらされながらも、懸命に縁の下の仕事に従事していたといいます。
その男性は、やはり、上官に殴られたり、毎日怒鳴られてばかりいたそうですが、それでも、その当時の話をする時は、何故か、とても、懐かしそうで、楽しそうですらあるのです。そして、未だに戦友と会えば、涙を流しながら『同期の桜』を熱唱するのだといいます。
その男性が言うには、「少なくとも、戦時中は、男としての生き甲斐があった。生死が隣り合わせの過酷な環境だったが、それでも、真の友人が出来、毎日が生きているという充実感でいっぱいだった」と-----。
しかし、これが、女性となると、まったく感じ方が違うのです。ある高齢者の女性は、看護婦として戦地で、負傷兵の治療に従事したそうですが、それは凄惨な現場で、病院とは名ばかりの医薬品などほとんどない不衛生な場所での勤務だったといいます。麻酔なしでの手術など日常茶飯事で、もう二度と、あんな思いはご免だと言います。
戦後も、その記憶を必死で抹殺しようと努め、軍歌も戦争ドラマも大嫌いだというのです。戦争の記憶を風化させてはいけない、などというのは、戦争を知らない世代の人たちの理屈で、心底戦争は嫌だと思う人間にとっては、たとえ終戦記念日とはいっても、その頃の話など、テレビで放送するのはやめて欲しいと思うと、いうところが本音だそうです。
そんな気持ちの彼女のところへ、ある日、突然、かつて病院で世話になったという元軍人が会いに行きたいと手紙を寄こしたこともあったそうですが、彼女は、きっぱり断ったといいます。
どうして、あんな嫌な記憶を、いまさら思い出すようなことをする気になるのか、彼女には、その元軍人の気持ちが判らないというのです。
元軍人は、おそらく、当時の若く美しい看護婦から受けた親切が忘れられず、その時のお礼を言いたいという純粋な思いで、彼女との面会を望んだのだとは思いますが、しかし、女性にとっては、あんな戦火の中の恐ろしい記憶の断片を、たとえ一時でも思い出すことすら辛かったに違いありません。
この記憶の持つ意味の違いを考える時、男性は、とかく、過去の出来事を美化する傾向があり、女性は、より強い嫌悪感へと拡大する傾向にあるように思いました。
ですから、わたしは、戦争体験を高齢者に語ってもらう時、男性の話は、ある意味、やや割り引いて聞くことにしていますし、女性の話は、より、正味に近いものとして聞いています。
また、陸軍にいた元兵隊と、海軍にいた元兵士の方では、やはり戦争の捉え方は違いますし、戦地での経験がある方と、内地勤務だった方では、また、戦争に対する感覚も違います。
それに、戦場で戦った兵士よりも、満洲からの引揚げの民間人の方が、より過酷な終戦を迎えたとも言えるのです。引揚者の中には、ソ連兵に見つからないようにと、泣いている赤ん坊を、もう一人の幼い兄弟に抱かせて、二人を背後から銃で撃ち殺し、上の兄弟だけを連れて日本へ戻って来たという、一家の人の話も聞きました。
このような色々な体験談を聞くと、一口に「戦争は嫌だ」などという単純な言葉では言い表せられない現実が,たった六十四年前にあったのだということを、改めて、考察し直さねばならないと思うこの頃なのです。 続きを読む
わたしは、竜馬が嫌いです・・・・・142
2009年08月26日
~ 今 日 の 雑 感 ~
わたしは、竜馬が嫌いです
先日、南宜堂さんのブログ記事に、坂本竜馬と土方歳三の共通点が書かれてありました。
二人とも、生まれは天保六年(1835年)で、土方歳三の方が、半年ほど早い生まれなのだそうです。
わたしは、司馬遼太郎氏の書かれた坂本竜馬が主人公の小説は、読んではいませんが、土方歳三が主人公の「燃えよ剣」は、中学生の時に読みました。
何故、皆さんが、面白いという坂本竜馬の物語を読まないのかといいますと、わたしは、子供の頃から、どういう訳か、この人物が好きになれなかったのです。
写真で見る風貌もさることながら、とにかく、その生き方に共感出来ませんでしたし、高知県(土佐藩)という土地柄も肌に合わなかったのだと思います。高知弁にも、抵抗がありますし、四万十川などと聞くと、気分が悪くなるのです。
それが、どうしてなのか、理由は判りません。わたしは、高知県に行ったこともなければ、身近に高知と関係する者もいないのですが、生理的に受け付けないといいますか、その気持ちが、おそらく坂本竜馬にも影響しているのだと思います。
薩長同盟を提言したということからして、「お節介者が、余計なことを!」と、子供心に思ったものでした。
それに、竜馬の女性の好みも、どうかと思う訳です。ああいう、おりょうのような女性を好み、結婚が間近だった女性を平気で袖にしているといういい加減さにも、呆れます。しかも、おりょうとの新婚旅行で、小鳥を的にして、自慢のピストルで射撃の練習をしたというエピソードにも、閉口しました。
とかく、政治家の中には、自分を坂本竜馬にたとえる人がいますが、「わたしは、中岡慎太郎に近い」と、いう政治家の方が、まだ許せます。
でも、竜馬を支持する方たちは、彼がいたからこそ、明治維新は起こせたのだと、言われるかもしれません。果たして、そうでしょうか?竜馬の代わりなら、何人でもいたと思います。上田藩の赤松小三郎などは、坂本竜馬よりも、もっと時代の先を読んでいました。
「言うたらいかんちゃ、おらんくの池にゃ、潮ふく魚が泳ぎよる」

こんなホラ話が大好きな龍馬だからこそ、大仕事が成し遂げられたのだということも出来ますが、この大ボラが、命を締めたのでしょう。
わたしの、曾祖父が最後まで、徳川の武士であることを誇りにしていた人物でしたから、このような気持ちがDNAに刷り込まれているのかもしれませんね。

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信 濃 の 国・・・・・141
2009年08月25日
~ 今 日 の 雑 感 ~
信 濃 の 国
もしも、あなたが、長野県外から県内へ移り住み、新しく事業を興そうと考えておられるのなら、その第一歩として、長野県の県歌である、「信濃の国」を、六番まですべて歌えるようになることをお勧めします。
事務所内に、この県歌の歌詞を額に入れて飾っておくこともよいでしょう。歌詞には、英語バージョンもあります。
お得意さんを開拓する時などの飲み会の席で、これを一番でも二番でも披露できたら、もう、商談は50パーセントは成立したも同然だという営業マンさんもおられるくらいです。
それだけ、「信濃の国」は、長野県民にとってなくてはならない重要な歌なのです。
しかし、ここで、一つ大切なことは、決して「信濃の国」の発音の仕方を、間違えてはいけないということです。県外の人は、これを発音する時、「* ・ .. ..」と、発音しますが、長野県民は、「.・・ ...」と、発音するのです。これを間違えると、露骨に眉をひそめられます。
では、長野県民は、どうしてここまで、県歌を愛するのか------。それを、お話ししましょう。
「信濃の国」という歌が正式に県歌となったのは、1968年(昭和43年)5月20日のことで、県歌としては、まだ誕生して間もないということを初めて知りました。
わたしは、この「信濃の国」は、既に一世紀以上も前から長野県民に歌い継がれてきたものと聞いていましたから、その頃から県歌となっていたのかと思っていたのです。
「信濃の国」は、長野師範学校の国語教師の浅井洌(きよし)が、信濃教育会の唱歌制作の依頼を受けて1899年(明治32年)に作詞し、同校の音楽教師の北村季晴(すえはる)が、翌年に曲をつけて完成したものでした。
しかし、実は、その前に別の作曲者が曲をつけていたのですが、あまり曲調が古風だったために、ほとんど歌われなかったのだそうです。わたしも、その以前の曲のバージョンを一度聴いたことがありましたが、確かに、単調な音階がつながるご詠歌のような感じで、とても、当時の子供たちが喜んで歌うようなものには思えませんでした。
「信濃の国」という県歌は、長野県民の八、九割が知っている、また、一、二番の歌詞ならば空で歌うことが出来るという、実に、特殊な知名度を持つ歌です。このように県民がこぞって空で歌うことが出来る県歌を持っている県民は、国内では、おそらく長野県民だけではないかと思います。
わたしも、この「信濃の国」は、好きな歌の一つで、二人の甥が小さい時からこの歌詞を紙に書いて、ピアノで伴奏しては教えていました。その理由の一つに、この県歌が歌えると、長野県の特産品や地理、有名な人物、歴史上の出来事などなどが、一度に覚えられるという利点があります。
また、歌詞の言葉の一つ一つがとても的確で、小気味よく、ポジティブなうえに、美しさまでも加味しているという理由もあります。そして、何より、曲の素晴らしさと巧みさには、脱帽の感すら持つのです。
殊に、四番のメロディーが変わる部分などは、しっかりと音楽教育的視点までも考慮した、驚くべき技巧といわざるを得ません。
長野冬季オリンピックの際には、入場行進にまでも使われ、正に、世界の「信濃の国」になった訳です。
これをテレビで観ていた各国の県人会の方たちは、あまりの郷愁と誇りに、思わず涙したとも言われています。
これは、以前、あるブロガーさんのコメント欄にも書かせて頂いたことですが、子供の頃からこの「信濃の国」を聴かされている県民の脳は、この歌を聴いている時に、どうなっているのか、脳波を調べた結果、モーツァルトなどの一般に癒しのメロディーといわれている曲を聴いた時よりも、「信濃の国」を聴いている時の方が、(リラックスしたり快感を感じている時に多出する)アルファー派が、より多く出ているということが判ったそうです。
つまり、「信濃の国」は、多くの長野県民にとって、間違いなく「心の故郷」といっても過言ではないのでしょう。
国会などでは、近年、道州制の議論なども巻き起こっているやに聞きますが、わたしは個人的には、信州は、やはり信州のままでいてもよいのではないかと思います。そうなると、「信濃の国」は、州歌ということになるのでしょうね。
他の県と統合して、この県歌が歌われなくなってしまうのは、如何にも寂しく、もったいないと思うのです。
わたしは、以前、アメリカに行った時、「どちらから来られたのですか?」と、ホテルの従業員に訊ねられて、即行、「長野です」と、答えました。極端な話、わたしの頭の中には、「日本」という概念はありませんでした。その従業員の方も、それで、判ってくれました。
わたしの中では、「自分は日本人だ」という気持ちよりも、「信州人だ」という気持ちの方が強いことを、意識しています。
わたしのような考えを持っている長野県民は、多いのではないでしょうか?そういう意味からすると、「信濃の国」という県歌は、今や、文字通り「信濃の国」の国歌なのだと、いえるのかもしれません。

職場の鬱憤は、病院で晴らす・・・・・140
2009年08月24日
~ 今 日 の 雑 感 ~
職場の鬱憤は、病院で晴らす
わたしが、入院していた時、同じ病室の五十代後半の女性が、とても深刻そうな顔付きで、近付いて来て、
「ちょっと、わたしの話、聞いてくれない?」
と、いうので、わたしも、どうせ暇を持て余していましたから、いいですよと、答え、二人して、病棟の談話コーナーへ行きました。
時刻は、午後の八時を過ぎていましたので、談話コーナーには、わたしとその人以外誰もいませんでした。
その女性は、乳がんで入院している患者で、もう手術も終え、毎日腕の上げ下げのリハビリをしているのです。乳がんの手術で、わきの下のリンパ腺まで取ってしまった患者さんの中には、一時的に腕が上がらなくなってしまう人もいるそうで、この筋肉を固まらせないためにも、毎日のリハビリは欠かせないのだといいます。
でも、その人は、いつも理学療法士さんの指示で真面目に頑張っていたので、その頃、腕はもうかなり良く上がるようになっていました。
おそらく、退院も間近だろうと思われるその女性が、何の話をしたいのかと、わたしは、訝しく思いながら聞いていたのですが、横並びの長椅子の隣に腰をかけながらしゃべり始めた女性の話を聞くうちに、わたしは、職場のイジメというものが、そこまですさまじいものなのかと、正直、仰天しました。
その女性は、地元の小さな会社の機械部品組み立て部門で働いているとのことで、社長も彼女の正確で手際のよい仕事ぶりを高く評価していて、特に、お得意先の会社からは、彼女に部品の組み立てを頼みたいと、指名されるほどの腕前なのだそうです。
そんな彼女の職場では、かなり以前からイジメが始まっていて、やはり有能な女性社員が一人、同じ部署の六十代の女性パート社員から頻繁にイジメを受け、体調を崩して会社を辞めてしまったことがあったというのです。そして、そのいじめのターゲットが、今度は、この女性になってしまったのだというのです。
社長の信頼も厚い彼女は、何かにつけて、その六十代の女性から嫌がらせを受け始めたのですが、ある時は、せっかく組み立てて、あとは納品するだけという製品を、故意に壊されたり、社内に不倫の噂を流されたりもしたのだといいます。
しかし、彼女の性格をよく知っている他の社員たちは、そんな噂を信じなかったので、とうとう六十代の女性は、キレて、彼女が社長室で次の仕事の指示を受けて出て来た時、階段を降りかけた彼女の後ろから近づき、いきなり背中を思いっきり押したのだといいます。
彼女は、階段を転がり落ちました。でも、幸いなことに、怪我は、手足の打撲で済んだのだといいます。彼女は、そのことを会社側へ話しましたが、如何せん、目撃者が一人もいなかったために、犯人の女性が、処分されることはなかったのだとか。
そんな陰湿なイジメや暴力は、六十代の女性の性格を表すに十分だと見えて、その女性のご主人も精神的に追い込まれ、自殺してしまったのだそうです。それからというもの、その女性はますます荒れはじめ、現在も、会社の鼻つまみ者なのだといいます。
しかし、このイジメによるストレスが原因で、彼女は、乳がんになってしまったのだと、担当医師も話していたのだといいます。
それでも、自分の中の気持ちを家族にぶつけると、家族も共に悩んでしまうだろうし、子供たちへの影響や、仕事をしているご主人の心痛を考えると、本当のことも言えず、退院してからも、再び、一人悶々と悩み続けなくてはならないので、今のうちに、言いたいことは全部誰かに聞いてもらって、すっきりした気分で、また仕事に復帰したいのだという話でした。
わたしも、聞いているうちに、本当に腹が立って来てしまいました。焼きもちも、ここまで来れば、間違いなく犯罪です。自分の不幸を八つ当たりで解決しようなどとしても、無駄なことは、その六十代の女性も判っているはずなのです。それでも、幸せな人が憎らしくてたまらない。
ふざけた話です!!
わたしは、「そんなバカ女、やっつけちゃって下さい!そいつが組み立てた部品、今度は、あなたが、躓いたふりでもして踏みつぶしてしまって下さい」と、言いました。
すると、彼女は、思いっ切り声を出して笑って、「そうね!今度、そうやっちゃおう。我慢しているなんて、バカ臭いもんね。こんな病気になったのだって、あいつのせいだもん。仕返しされたって、自業自得よね」と、晴れ晴れした顔で言いました。
でも、話をしてくれたのが、どうして、わたしだったのか?と、その女性に訊ねると、
「だって、病室の中で、一番元気そうだったから-----」
「・・・・・は、そうでしたか」

まあ、何はともあれ、お腹の中にある嫌な気持ちは全部吐き出してしまった方が、病気も退散するでしょう。自分の身体が大事だと思ったら、我慢して「耐える女」を演じる必要などないと思います。
それにしても、こんな経験から思いました。病院には、患者の話を何でも聞いてくれるカウンセラーのような人が必要だと。それも、気軽に話が出来るような立場の人が------。
患者は、憤懣の塊なのだから、諭されるような話は聞きたくないのです。
ともに、拳を振り上げてくれるような味方の出現を待っているのです。

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ブログの意図は伝わりにくい・・・・・139
2009年08月24日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ブログの意図は伝わりにくい
以前、あるブロガーさんが、「ブログのコメントには時差が出来るので、どうしても、気持ちを伝えるまでに色々と考えてしまい、疲れる」と、いうような趣旨のことを書いておられたことがありました。
どんなに詳しく書いても、やはり書き足りないこともありますし、やたらに、うがった読み方をする天の邪鬼な方も中にはおられて、いきなり喧嘩腰でコメントを書いて来る読者も中にはおられます。
でも、これが、もしも、新聞へ書かれているコラムや、雑誌のエッセーだったとしたら、そんなに簡単に反論を喧嘩腰で書き込むことが出来るでしょうか?まずは、いったん考えて、断念するのが普通だと思います。
しかし、これが、一度でも実際に顔を合わせているブロガ-同士となれば、話は変わります。
相手が、相当自分の意図と反する記事を書いていたとしても、「あの人のことだから、このくらいのことは書くだろうな」とか、「ここで、喧嘩をしてはまずいだろう」などというブレーキがかかり、トーンダウンしてしまうものなのです。
しかも、顔を合わせるという効能は、他にもあります。つまり、安心感です。
「あの人とは、もう顔見知りなのだから、わたしの悪口や陰口など誰かに話すはずはない」「顔も見たことがない相手よりは気心が知れるので、この人の言っていることの方が正しいだろう」
そんな、ある種の親密感が生まれる訳なのです。メールよりも手書きの手紙、手紙よりも電話、電話よりも実際に会うことの方が、ずっと、その人を身近に感じる-----それが、人間の本能というものです。
メールで読んだ文章よりも、実際に会って声で聞いた話の方が、信憑性が高いような気がする-----と、いうのも、よくある思い込みです。その、思い込みマジックが、ブログを書く人々の中には、とかく蔓延しがちなのです。
要は、ブロガーは、皆、常に疑心暗鬼の中で記事を書き、コメントを書いているのです。
「こんな風に、いつも楽しくコメをやり合っているのに、このブロガーさん、実はわたしよりも親しくしているブロガーが他にいるんじゃないかしら?」
これこそ、インターネット症候群の一歩手前といえるでしょうね。
でも、この記事を書けば、あのブロガーに悪いとか、この文章は、あのブロガーに支障が出るとか、そんなことばかりを考えていては、自分の思い通りの記事など書けなくなってしまいます。
ですから、わたしは、もう、そういうことは一切無視することにしました。これからは、好きなことを好きなように書かせて頂きます。面相臭いことは、こりごりですから。正直、気を遣いすぎて、疲れました。
文句があるなら、コメント欄に書き込んで来なさい。すべて、論破して差し上げます!!
いっぺん、こんな風に大声で叫んでみたいものですね。(爆) 続きを読む
大空のミステリー・・・・・138
2009年08月23日
~ 今 日 の 雑 感 ~
大空のミステリー
奇妙な話とか不思議な話というと、とかく、地上の出来事ばかりに目が行きがちですが、ミステリースポットは、何も地上に限ったことではありません。
わたしたちの頭の上------「空」でも、謎の事件はいくつも起きているのです。
第二次世界大戦のさなか、各国の戦闘機パイロットの間では、よくこうした空のミステリーが語られたものだといいますが、 「ハインケル戦闘機」の話も、そんなミステリーの一つとして有名です。
「ハインケル戦闘機」は、ドイツの代表的な戦闘機であり、皆さんもよくご存じの「メッサーシュミット」と並んで、その実力を高く評価されていました。
ところが、この「ハインケル戦闘機」は、その名前を世界の航空史にとどろかせてはいるものの、実際は、一度も出撃することはなかったという、幻の戦闘機なのです。
しかし、1940年のイギリス本土防衛戦がたけなわの頃、イギリス人戦闘機パイロットの中から、幾度もこの「ハインケル戦闘機」と、空中戦を行なったという者が何人も現われたのでした。
「どこか、スピットファイアに似ている機影が何機も背後から襲ってきたが、あれは、間違いなくハインケルHE113だった」
「われわれは、四機編隊で飛んでいたが、突然現れたハインケルHE113の一群に襲いかかられ、やっとの思いで振り切った」
などという、目撃証言が幾つも出て来て、ドイツ空軍は、実際の「ハインケル戦闘機」を、一度も飛ばすことなく、空中戦を制したといっても過言ではないのです。
それにしても、どうしてこれほどまでにイギリス人パイロットたちは、いる筈のない戦闘機を見たなどという気になったのでしょうか。つまり、これこそが、ドイツ軍の心理作戦の巧みな罠だったのです。
架空の機体の噂とスチール写真だけで、戦場心理のひずみを突き、恐怖感をあおって、イギリス側に、幽霊軍用機を見せてしまうという、空中錯乱効果をもたらしたのでした。
そして、こうした幽霊戦闘機の目撃談は、太平洋戦争の真っただ中にもありました。
アメリカ軍のBー24リベレーター爆撃機が、アリューシャン群島のアッツ島を空襲した時、いきなり、予期しなかった日本軍の零戦に襲われたというのです。しかも、その零戦は、「液冷エンジン付き」というもので、そんな零戦は、実際は、日本軍には一機も存在しないのです。
しかし、そのリベレーターの乗員は、間違いなく、そうした零戦を目撃したというのでした。
航空専門家たちは、それは、陸軍の三式戦闘機「飛燕」か、海軍の艦上爆撃機「彗星」を見間違えたのではないかと、想像しましたが、そうではありませんでした。
つまり、この「液冷エンジン付き零戦」の機体に関しては、他のどんな幽霊戦闘機ともその存在の仕方が違っているらしく、未だに、謎の解明がなされていないという、言わば、唯一の「幽霊戦闘機」と、呼ばれているのだそうです。
大空には、わたしたちが思いも付かない、ミステリーゾーンが、今現在も口を開けて待っているのです。
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ミスコンテストに物申す!・・・・・137
2009年08月22日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ミスコンテストに物申す!
昨日のブログで、「ミス・志賀高原コンテスト」の話題を取り上げました。
未だに、日本各地では、こうしたミスコンテストなるイベントが盛況に行われていますね。
最近は、ミスユニバース・コンテストに出場した日本人女性が、グランプリや準グランプリを獲得するなど、国内の美に対する感覚も、かつてのような可愛さや美しさ重視から一転、逞しさ、強さ、聡明さ、博識重視などという方向へ、移行しつつあるように思えます。
ただ、しかし、これは、国を代表するような言わば、ミスの中のミスを決めるという大会ですから、こんな状況になっているのだと思いがちですが、あにはからんや、こうした現象は、国内の小さなミスコンにも間違いなく影響しているといわれるのです。
国内のあるミスコンテストでは、参加者に武道が出来ることを条件にしているものもあるそうですし、単なる美しさよりも、どれほどそのミスコンの趣旨に出場者が適しているか、また、その趣旨を彼女たちが理解しているか-----というところを重視する方向に、審査基準も変化して来つつあるといいます。
ところが、そういう基準で選考するとなると、地元出身者の出場を優先的に考慮するやり方がよいということになろうかと思いますが、ことミスコンという言葉を聞いた途端、特に、地方の若い女性たちは、近所の目や職場などの世間体もあるでしょうから、二の足を踏んでしまうのが常のようです。
コメントのレスにも書きましたが、数ヶ月の応募期間を経ても、三名ほどの応募者数しか集まらないという状況になってしまったミスコンもあったと聞きます。
では、どうしたらよいのか?わたしは、ミスコンなどという言葉はやめて、年齢も、既婚未婚も関係なく、すべての女性に門戸を開放するというやり方に変えればいいのではないかと思うのです。
その地域の産業や特産品、観光、自然などをPRするためには、何もミスである必要などありません。
未婚女性イコール美しい-----などという、大時代的な考え方は、もう現代には当てはまりません。
もしも、自分の妻がグランプリになったら、妻の広報活動に、夫も協力すればいいことです。いいえ、もしかしたら、八十代の優勝者がでても、不思議ではないのです。その方が、よほど、そのコンテストは、マスメディアの注目を集めることでしょう。
「八十歳のミセス・志賀高原が、山ノ内町をPR------」
ものすごいインパクトです!!
もしかしたら、この「ナガブロガー」の中から、グランプリを取るミセスが現れる可能性も無きにしも非ずです。
若い女性でなくては、広報担当の資格がないとか、美しければ何でも大目に見てもらえるとか、おかしな既成概念の踏襲や男性の目を気にするあまり、最も大切な 地域をどれだけ愛しているかという視点が、ボケ続けて来た、これまでのミスコンだったような気がします。
もう、この辺で、ミスコンテストを、いっぺん根本から考え直してみるべきではないではないでしょうか?

避暑地の舞踏会・・・・・136
2009年08月21日
~ 今 日 の 雑 感 ~
避暑地の舞踏会
数年前、テレビで観たあるファンタジードラマに、わたしの大好きな物語がありました。

題名は忘れましたが、それは、夏の信州の避暑地を舞台にしたものでした。これを制作したスタッフは、おそらく、軽井沢辺りを想定していたのではないかと思います。
それは、こんなストーリーでした。
女性は、ひどく不機嫌そうで、どうやら、男性が予約しておいてくれた筈の有名なホテルに、その予約が入っていなかったということのようです。
「それで、今日は何処で泊まるわけ?まさか、自動車(くるま)の中なんていうんじゃないわよね」
女性は、恋人の男性に、不満をぶつけます。男性は、何処か別のホテルを見付けるから、心配するなよと、女性をなだめながら、自動車を運転して行きますと、目の前に、一軒の高級そうなリゾートホテルが現われました。
もっけの幸いと、二人は、そのホテルのフロントで、宿泊を頼みますが、フロント係の男性は、
「今の時季、避暑のお客様で、生憎当ホテルも満館です。申し訳ございません」
と、すまなそうに言います。しかし、どうしても、諦めきれない二人は、そのままロビーのソファーに、座り込んでしまいました。しばらくすると、そんな二人を見付けて、ホテルの支配人らしき中年男性が声をかけて来ました。
「お客様、どうしても、当ホテルにお泊りになりたいと言われるのでしたら、この新館は満室ですが、旧館の方に、一室空きがございますから、そちらへご案内いたしましょう」
願ってもない話に、二人は、安堵し、その旧館へと、支配人に案内してもらいました。
確かに、旧館というだけあって、部屋もややカビ臭く、やたらにレトロで、テレビもありません。汗を流そうと、女性が入った部屋付の浴室も、蛇口からは水しか出ず、どうやら、お湯は、ホテルのボーイが運んでくるというシステムになっているようでした。
「もう、何なの、この部屋?古いといったって、限度ってものがあるじゃない」
「そうカリカリするなよ。一晩、屋根の下で眠れるだけ良しとしようよ」
「なによ、こうなってしまったのは、誰のせいだと思っているのよ!」
二人が、またも口喧嘩を始めた時です。館内の何処からか、弦楽器が奏でる美しいクラシック音楽の響きが聞こえてきました。
不思議に思った二人が、部屋を出て、その音楽の方へと廊下を歩いて行くと、そこには、重厚そうな木製の扉があり、音楽は、どうやらその扉の向こうから流れて来ているようです。扉の中を覗いてみようとそのドアノブに手をかけて瞬間、ゆっくりと扉が左右に開き、そこに大きなダンスフロアーが現われたのです。
そのダンスフロアーでは、大勢の紳士淑女が三つ揃えのスーツや煌びやかなドレスに身を包み、如何にも楽しそうに、ワルツ音楽に乗って、優雅なステップを踏んでいたのでした。
「何なの、ここ------?まるで、社交界の世界ね・・・・・」
女性は、思わず溜息をつき、男性は、目を丸くしたまま、言葉を失いました。すると、そんな彼らを見た一人の品の良い婦人がそばへ近付いて来ると、優しげな目で、
「まあ、こんなお若い方が来て下さるとは、なんて、今夜は素敵なのかしら・・・・。さあ、あなた方も、フロアーにお入りになって。ご一緒に踊りましょうよ」
「え・・・・?でも、あたしたち、ダンスなんて出来ないし・・・・。それに、こんな恰好じゃァ-------」
女性が慌てて遠慮すると、その品のいい婦人は、いきなり、自分が肩にかけていたオーガンジー(薄絹)のショールを、彼女のショートパンツ姿の腰に巻いて、
「ほら、これでいいわ。綺麗になってよ------]
「・・・・素敵、ドレスみたい」
女性は、うっとりした表情になり、恋人の男性のエスコートで、ダンスの輪の中に入りました。ひとしきりダンスが続いた後で、司会者と思しき男性が、おもむろに人々の前に歩み出ると、こんなことを言いだしたのです。
「お集まりの紳士淑女の皆様、ここで、今年の『ひまわり娘』の発表に参りたいと存じます。『ひまわり娘』は、このひと夏を、ヒマワリの花のように、もっとも朗らかに、優雅に楽しく過ごしたと思われる女性に与えられる栄誉であります。------では、今年の『ひまわり娘』に選ばれたご婦人は、〇〇氏夫人の〇〇様であります!」
瞬間、会場中の視線が、いっせいに一人の年配の女性に集まりました。それは、今しがた、女性の腰にショールを巻いてくれた、あの婦人でした。
若い二人も嬉しくなって、会場の人々と一緒に、その年配の婦人へ、思いきり拍手を 送ったのでした。
「ちょっと、お客様、起きて下さい。こんな所で、眠られては困りますよ。お客様------」
「・・・・・・・・?」
肩をゆすられた二人が、ふっと目を覚ますと、そこには、如何にも迷惑顔で覗き込んでいる、ホテルのフロント係の男性がいました。彼らは、どうやら、ホテルのロビーのソファーに座り込んだまま、疲れのためにいつしか眠りこんで、そのまま翌朝を迎えてしまったらしいのでした。
「え・・・・・?今のは、夢・・・・・・?」
男性が、寝ぼけ眼で呟くと、女性も、また、
「ダンスフロアーは・・・・?」
不思議そうに、首を傾げます。そして、二人は、その後そのホテルをあとにしましたが、何故か、気持ちは、とても清々しく、幸せそのものでした。
自動車に乗り込んだ二人は、お互いが同じ夢を見ていたことを奇妙に思いましたが、それが、ただの夢ではなかったことは、判っていました。何故なら、助手席の女性の腰には、あの婦人のショールが、巻かれたままだったのですから・・・・・。

性同一性障害の認知度・・・・・135
2009年08月20日
~ 今 日 の 雑 感 ~
性同一性障害の認知度
世界陸上の女子八百メートルで、二位の選手と二秒以上もの大差をつけ優勝した、南アフリカのキャスター・セメンヤ選手(18歳)が、実は、女性ではなく男性ではないかとの疑惑が出ていて、国際陸連は調査を始めたという記事を読みました。
しかし、セメンヤ選手本人は、生まれてからずっと女性として育って来たと語っているとのことで、結果は数週間後に出るといいます。
また、先日、身体の性と、心の性とが一致しない「性同一性障害」についての理解促進活動を行っている「GID(性同一性障害)シンポジウム2009実行委員会」が、意識調査のアンケートを行ない、その結果を公表しました。
アンケート調査は、一定条件を満たせば、戸籍の性別を変更できる性同一性障害特例法が施行され、この七月で五年となったことから実施されたものですが、全国の男女1038人を対象に、インターネットを通じて行なった結果、「現在の社会が当事者を受け入れる社会になっていると思うか」との問いには、「なっている」と、答えたのは、わずか0.7パーセント。「ある程度は受け入れられる体制になっている」と、答えたのを合わせても、36.3パーセントにとどまったということでした。
因みに、最高裁によると、2007年度末までに、性別変更が認められた性同一性障害の患者は、841件だったそうです。
そして、「もしも、友人、知人、家族が、性同一性障害だった場合、事実をオープンに出来るか?」という問いには、「できない」「おそらく出来ない」としたのは、友人、知人の場合は39.6パーセント。家族では、66.5パーセントとなったのでした。
確かに、この問題は、頭では理解できても、気持ち的にはすべてを受け止めるのは難しいと思う人は多いでしょうね。
未だに、年配の人の中には、病気ではなく、単に根性がおかしいからだと、考える人もいるくらいですから、社会に意識改革を根付かせることは至難の業かもしれません。
でも、こういう病気を抱えて生まれて来てしまった人たちは、心身ともに本当に大変な苦痛を感じながら、人生を歩まなくてはならないのだと思うと、考えさせられることが多々あります。
実は、わたしの知り合いの男性にも、この病気で苦しんでいた人がいました。知り合いとはいっても、特別話をしたことはありませんでしたが、まだ、世の中が今ほどこの病気に対して認識を持っていなかった頃のことですから、一家の恥、変わり者と言われて、家族からも実質抹消された状態の男性でした。
それでも、彼は、生きて行かなくてはなりませんから、俗にいう「おかまバー」で、女装をして働いていました。本人は、自分を女性だと思っていましたが、世間はそれを許しません。
わたしは、まだ子供でしたが、何処か気持ちの中で、「本人が女だというのなら、それでもいいじゃない」と、思っていたことを覚えています。つまり、それほど、その人は、女性的だった訳です。
そんな、世間からつまはじきにされている彼でしたが、不思議とわたしの祖母とは気が合い、彼は祖母の良き茶飲み友達でもありました。祖母は、とかく自暴自棄にもなりかかる彼に、「あんまり酒を飲むな」とか、「風邪をひくから、夜はちゃんと布団に入って寝ろ」など、事あるごとに忠告していました。
しかし、彼の不眠症は年々ひどくなり、睡眠剤を常用するようになると、身体も次第に弱って来てしまい、仕事に出ることもままならなくなってしまいました。
そして、ついにある冬の日、近所の人が回覧板を持って訪ねたところ、炬燵に入ったまま、眠るように亡くなっている彼を発見したのです。アルコールと大量の睡眠剤を一緒に飲んだことによる事故死でした。
まだ、四十歳になったばかりでした。
自治会から、その知らせを受けた彼の実家では、何と、遺体の引き取りを断って来たのです。
しかし、彼が、お骨になった時、一人の小柄な老女性が、まるで人目をはばかるように、自治会の責任者の家へ現われ、何度も頭を下げると、泣きながら、その遺骨をもらって行きました。
その老女性は、彼の、母親でした。
いくら女のような格好をする息子だったとはいえ、自分の子供に変わりはないと、長男夫婦の反対を押し切り、遺骨を引き取りに来たのでした。
性同一性障害者は、亡くなってまでも、阻害される------。かつては、そんな時代もあったのです。
このアンケート実施のニュースを知り、ふと、そんな昔の出来事を思い出した一日でした。
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何とも、呆れる話・・・・・134
2009年08月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
何とも、呆れる話
わたしの家の近所に、二人の子供がいながら、家事育児のまったく出来ない主婦がいます。
出来ないというより、おそらくは、する気がないのです。何故なら、家事や育児は、女性がやるものではなく、結婚相手の男性がやるものだと、真面目に信じているからなのです。
それでも、結婚する前は、一応の花嫁修業のまねごともして、料理教室やマナー教室にも通いました。しかし、ひとたび結婚してしまったら、夫とは、洗濯も、掃除も、食事の用意も、お互いに分担しようと決めたものの、ほとんど自分ではやらず、夫が会社へ行ったあとは、さっさと実家へ戻ってしまい、夜まで、そこで娘時代と同じように、まったりとして過ごしているのでした。
そして、夫が会社から帰る時刻になると、ようやく二人の家へと帰るのです。ですから、もちろん、食事の用意などはしてありません。会社から、疲れて帰った夫が、夕飯を作るのです。
そして、子供が生まれた後も、このやり方は変わりませんでした。しかし、つい、最近になり、その主婦が、
「わたしの人生は、こんなはずじゃァなかった。主婦業にも母親業にも疲れたので、実家へ戻ります」
と、言って、とうとう実家で寝泊まりするようになり、夫も、子供も、ほったらかしなのです。
これには、心優しい夫も、ついに堪忍袋の緒を切りました。
「いままで、何一つ主婦らしいことをしてこなかったくせに、主婦業に疲れたとはどういう言い草だ!ふざけるにもほどがある!このままなら、もう離婚だぞ!」
と、怒鳴ったところ、この女性は、こんな驚きの、言い訳を口に出したのでした。
「だって、わたしは、ずっと、花嫁のままでいたかったのよ。綺麗な服を着て、レストランで食事をして、旅行をして、優雅に暮らしたかったのに、あなたは、わたしの夢を皆ぶち壊してくれたんじゃない。わたしの実家の母は、何一つ、自分でやらなかったわ。料理も、洗濯も、掃除も、庭の草取りも、みんな父がやっていたのよ。それが、男の仕事でしょ?」
これを聞いた夫は、もう、呆れてものが言えなかったそうです。要するに、この女性の父親は、婿養子だったのです。それで、結婚した当初から、食事の味付けの仕方が判らないという、この女性の母親のために、男の自分がすべて食事の用意から、後片付け、家事全般何もかもを、やって来てしまったのだといいます。
それを見て育ったこの女性は、それが当たり前の世間の常識だと、思い込んでいたのです。
こんな母親に、子供たちも、憤慨し、
「バカ女、もう二度と家へ戻って来るな!」

と、カンカンです。
しかし、この女性は、世間体だけは気にする性質(たち)で、離婚だけは嫌だといっています。
そんな訳で、現在は、何とか元の家へ戻り、夫や子供たちとも一緒に暮らしてはいますが、正直、これまでの家族間の溝が埋まったとは言えません。
わたしの住む地域では、こんな言葉があります。
「婿取りの娘は、嫁にもらうな。しんしょ(財産)をつぶすぞ」
まあ、お婿さん取りの母親を持つ娘さんが、全員こういう碌でなしに育つ訳ではないでしょう。本当に一生懸命に、家事や育児を頑張っている女性も大勢います。
しかし、婿養子に入った父親が、家付き娘の母親に遠慮して独楽鼠のように働いた結果、こういう娘が出来たとすれば、それは、やはり世間からずれている育て方をしてしまったといか言いようがありません。
本当に、こういう主婦が世の中にいるとは、何とも、呆れかえる話です。

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捜査本部は、うち?・・・・・132
2009年08月17日
~ 今 日 の 雑 感 ~
捜査本部は、うち?(・・?
これは、もう、かなり以前になりますが、我が家のすぐ近にあった無人の小屋が、全焼するという火事がありました。
この小屋は昭和の初めに建てられたもので、古いうえに、もう何年も前から空き家になり、その頃は、不良少年たちの溜まり場にもなっていたのでした。
わたしが家にいると、何となく辺りが煙ったくなって来て、きな臭いにおいが充満し始めました。これは、変だと思い、家から外へ飛び出すと、道路を少し下ったところにあるその小屋が、もの凄い炎と真っ黒な煙を噴き上げて、燃え盛っているのを発見。
しかし、問題は、この無人の小屋から、何故火が出たのかということでした。地元の警察署は、これを放火と断定し、消防車が去るのと入れ違いに、今度は数台の警察車両が乗り付け、即座に現場保存。捜査関係者による、近所への聞き込みが始まりました。
「不審な人間が、小屋の中へ入るのを見ませんでしたか?」
「日頃、小屋は、どういう状態だったんですか?」
特に、第一発見者の近所の主婦は、そうとう根掘り葉掘り事情を訊ねられていました。そうこうする間に、夕方になり、辺りが暗くなりかけて来た時、一人の年配の捜査員が、我が家へ入って来て、父に、話を聞きたいと、言いながら、事務室のソファーに腰を下ろしたのです。
そして、父は、その捜査員と世間話を始めました。お茶を飲みながら、色々と話をしていると、今度は、そこへ別の若い捜査員が入って来て、何やら先の捜査員と耳打ちを始めましたので、父は、そこから奥の居間へ移動しました。
すると、次には、また別の捜査員たちが二人ほど合流し、会議を始めてしまったのです。
母は、彼らに、お茶を出しながら、「ご苦労さまです」と、挨拶をすると、先に入って来た捜査員が、
「すみません。少し、ここをお借りしたいのですが------」
と、頼むので、母が、どうぞお使い下さいと、答え、すると、捜査員は携帯を取り出し、こう相手に伝えました。
「〇〇さんのお宅に集合してくれ」
え?-----ここが、捜査本部?マジっすか~!?
いつしか、他にも制服の警察官なども加わって、ちょっとした捜査会議が始まってしまったのです。
当時、父は、地元の防犯協会の会長などもやっていたので、警察関係者が顔を出すことはさほど珍しいことではなかったのですが、これほどの人数の刑事さんやお巡りさんが顔を寄せ合って話し込む様子は、初めて見ました。
-------で、肝心の放火犯人ですが、後日聞いたことによりますと、どうやら、近隣に住む中学生のいたずらだったことが判りました。その頃、近くの市や村でも不審火が相次いでいたため、警察も、力を入れて捜査をしていたようです。
しかし、この火事は、その一連の不審火とは、関係がなかったようでした。

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認知症の兆候・・・・・131
2009年08月16日
~ 今 日 の 雑 感 ~
認知症の兆候
皆さん、右手と左手でそれぞれキツネを作って下さい。
その右手のキツネの顔を自分の方へ向け、左手のキツネの顔を外側へ向けて下さい。
そして、その両手を近づけ、右手の人指し指には左手の小指が、また右手の小指には、左手の人差し指が重なるようにつけ、それを、今度は、右手のキツネを外に向けて、左手のキツネを内に向ける------これを、交互に繰り返してみて下さい。
上手に出来ましたか?
これは、8月1日の信濃毎日新聞に紹介されていた、認知症の兆候を見付ける簡単なテストの一つだということです。
もちろん、上手に出来れば認知症の心配はなし。うまく出来なければ、少々問題ありということで、専門医の診察を受けてみた方が良いということでした。
まあ、このような、簡単な認知症の兆候を発見するテストは、色々あるようですが、わたしが、今回ここで話させて頂きたいのは、わたしの周りで、このような症状になってしまった人たちが、その最初の兆候としてどのような行動を取り始めたかという、一つの例です。
わたしの家の近くに住んでいる七十代前半の女性が、二人、ごく最近立て続けにアルツハイマー型の認知症になってしまいました。
一人は、つい最近まで薬剤師として働いていた、高学歴の真面目な女性です。家族は高齢の姑と、元会社員のご主人。結婚と共に他県へ移り住んだ一人息子さんがいますが、現在は三人家族でした。
女性は、現在でいうマザコンのご主人と、性格の強い姑とに、若い頃からほとんど苛めにも近い嫌がらせを受けながらも、自宅で開業している薬局の仕事を誠実にこなして来た、非の打ちどころのない聡明な人でした。
しかし、姑が亡くなり、ご主人に胃癌が発見された頃から、次第に言動がきつくなり、共同浴場で一緒になっても、やたらと声を荒らげるようになって来たのです。そして、わたしに向かって、ご主人の癌のことを話し出すと、いきなり声をあげて泣き出してしまったこともありました。
わたしが、今の時代、癌といっても、それほど心配することはないし、すぐに元気になりますよと、慰めると、ようやくほっとした顔になり、「わたし、最近、感情がコントロールできなくて・・・・」と、困惑していました。
しかし、それから数日後の早朝、今度は、その女性が自宅の前の道を行ったり来たりしている姿を、わたしの母が見付け、「奥さん、どうしたの、こんな朝早く?」と、訊ねると、女性は、「主人の姿が見えなくなっちゃったの。朝、起きたら、家にいないのよ」と、いうので、母が、「ご主人、もうお帰りになったの?まだ入院しているんじゃないの?」と、言った途端、彼女は、はっと我に返った顔になり、「そうだった。まだ、病院にいるんだった。わたし、何やっていたんだろう・・・・」と、言って、自宅へ入って行きました。
ご主人は、その後手術をして退院しましたが、とても、病み上がりの身に女性の介護は荷が重すぎるということで、彼女は、養護老人施設へと、入所することになってしまいました。
もう一人の女性のケースは、これもまた、同じ共同浴場でのことでした。
その女性は、自分が脱いだ服と、他人が脱いだ服の区別が判らなくなってしまい、脱衣所で身体を拭いたのち、誤って他人の下着を着てしまったのです。
一緒に入浴していた娘さんは、母親の突然の異変に仰天し、慌ててその下着を脱がせると、まだ浴室内にいたその下着の持ち主の婦人に、ことの訳を説明して、何度も頭を下げて詫びていました。
この女性のご主人は、一度家を空けると半年は海外暮らしという仕事をしていたために、結婚生活のほとんどを、二人の娘さんとの三人で過ごすという状態を続けていて、そのご主人が定年になって四六時中家にいるようになると、ご主人への気遣いに疲れ果て、常にカルチャーセンターに通い詰めるという、実に変則的な日常を送っていたのでした。
そして、そのカルチャーセンターでも、一年ほど前から、やたらに同じ教室の仲間に食って掛かるような態度を取るようになっていたのだそうです。
そんなことがあって、女性は、カルチャーセンターを休むようになり、そんな矢先の共同浴場での出来事だった訳です。
そして、その女性も、現在は、身の回りのことをすべて面倒見てもらえる、認知症のお年寄りが暮らす宅老所のような施設へ入所しました。
それでも、始めのうちは、その娘さんが一生懸命、母親の面倒を見ようとしていたのですが、妻が認知症になったストレスからか、このご主人もまた、胃癌になってしまい、そちらの面倒も見なければならず、夫と三人の子供の世話もあり、とても、母親の世話までは出来なくなってしまったのでした。
実は、ちょうどこの頃、この女性の家の隣の、やはり七十代の主婦も、認知症になっていたのでした。
一家の主婦が認知症になると、家庭全体が崩壊状態のようになってしまうという例を、目の当たりにして、どうして、このような病気が主婦に起きやすいのか、わたしには、何とも不思議でならないのです。
彼女たちの生活習慣に、何か、他の人たちとは違う共通性があるのでしょうか?
また、ご主人たちが、同じ胃癌になっているということも、単なる偶然なのでしょうか?
何か、特殊な原因でもあるのではないかと、疑問にかられる今日この頃なのです。
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空に消えたヒロイン・・・・・130
2009年08月15日
~ 今 日 の 雑 感 ~
空に消えたヒロイン
皆さんは、アメリア・イアハートという女性をご存じだろうか?
今から七十二年前、世界一周の冒険飛行中に消息を絶った、アメリカの国民的ヒロインである。そのイアハートが漂着した可能性のある太平洋の島で現地調査を行なうため、遠征隊に参加する資金提供者の募集を開始したとの記事が、つい先日のニュースサイトに掲示されていた。
イアハートが、同乗者と共に漂着したとみられる島は、遭難海域に近いキリバス領のニクマロロ島で、1940年には、キャンプ跡と、漂流者の遺骨が発見されたほか、2007年には、女性の化粧道具のコンパクト用とみられるガラス片などが見付かっている。このため、イアハートは、搭乗機の着水後に同島へ漂着し、死亡するまで孤島生活を送っていたのではないかとの説が浮上しているのである。
しかし、ここに、別の説も存在する。
イアハートは、サイパン島で、当時駐留していた日本軍の捕虜になり、病死、もしくは衰弱死したのではないかという説である。
アメリア・イアハート・プトナム夫人は、「女リンドバーグ」とも呼ばれ、女性のアマチュアパイロットとしては、アメリカで国民的なヒロインとして、その名を馳せていた。
しかし、彼女は、その名声に飽き足らず、自力で世界一周飛行成し遂げ、その名を名実ともに我が物にしたいと願ったのである。そして、彼女は、当時最新鋭のロッキード・エレクトラ双発機に、老練な航空士であるフレッド・ヌーナンとコンビを組んで、1937年6月1日、フロリダ州マイアミ飛行場を出発したのであった。
イアハート機は、予定通りに各国を経由しながら、南大西洋を横断し、ちょうど一ケ月で、三五〇〇〇キロメートルを飛びきって、6月30日に、ニューギニア島のラエに到着。いよいよ最後の、そして最長の南太平洋横断一二〇〇〇キロメートルのコースへと飛び立ったのであった。
この前代未聞の長距離洋上飛行のために、アメリカ海軍と沿岸警備隊は協力体制を敷き、ホーランド島には、沿岸警備隊のカッター船「イタスカ」号を停泊させ、イアハート機の方向探知機を誘導するための無線局としていた。
しかし、イアハート機は、ラエ飛行場の滑走路を飛び立ったのち、永遠に姿を消してしまったのである。
最後の通信で、イアハートはこう伝えて来ている。
「わたしたちは、確かにイタスカ号の上空にいるはずなのに、イタスカ号が見えない。燃料は、どんどん減って行く。三一〇五キロサイクルの音声で、応答して下さい。・・・・イタスカ号、応答して下さい。陸地が見えない」
しかし、それきり、イアハート機は、忽然と空に消えてしまったのである。
「イアハート機、消息を絶つ」の報道は、瞬く間に全世界の注目を集めた。アメリカは、国の威信をかけてイアハート機の大捜索を行なったが、十六日間を経ても結局何の手がかりもつかめず、そして、十八ヶ月後、イアハートとヌーナンは、法律的に死亡したものと確認されたのであった。
しかし、その後、サイパン島で、奇妙な目撃談がささやかれ始める。第二次大戦中の1944年に、アメリカ軍がサイパン島に進攻した時、海兵隊員が、日本軍が放棄したバラック小屋の中で、イアハートの写真を見付けたというのである。また、1946年には、現地人の娘が、「十年ぐらい前に、男のような格好をして、髪を短く切ったアメリカ人の女性パイロットを見た」と、証言したのである。
他にも、サイパンでの目撃談はあとを絶たず、漂流していたイアハートとヌーナンは、現地人の漁船に助けられたあと、日本軍に引き渡され、きびしい訊問の末、二人とも衰弱死したという説まで流れたのだった。
果たして、真相は何処にあるのか?また、どうして、イアハートは、眼下にある筈のイタスカ号を見失うようなことになってしまったのか?疑問は、数限りなくある。
空には、魔物が住んでいる。------そう言った戦争中の多くのパイロットたちもいる。
空のヒロイン、アメリア・イアハート消息不明の謎は、未だに、闇の中なのである。
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大浴場の怪(後)・・・・・129
2009年08月14日
<不 思 議 な 話 >
大 浴 場 の 怪 (後)
「香苗!!何処へ行くつもり!?」
かおりは、なおも叫びますが、香苗にその声は届きません。驚いたかおりは、慌てて部屋を飛び出すと、階段を駆け下り、戸外へと走り出しました。そして、香苗のあとを追うと、闇の中に彼女の浴衣姿を見付け、背後からその腕をつかみました。
「ねえ、香苗、何処へ行くつもりよ?」
すると、香苗は、おもむろに、かおりを見て、
「やだ、驚いた。-------どうしたの、かおり?もう、お風呂からあがったの?早かったじゃない」
「何言ってんのよ。あんたこそ、何処へ行く気なの?それより、いったい、誰と話をしているの?何がそんなにおかしいのよ?」
「誰って、仲居さんが、山の上にある露天風呂へ案内してくれるっていうから、連れて行ってもらうのよ。そこから見える麓の夜景が、とても綺麗なんですって。それに、仲居さんたら、面白い話を、いっぱい聞かせてくれて、-----ねェ?」
そう言って、香苗は、自分の前方にいる筈の仲居の方へと目を移したのですが、何故か、そこには誰の姿もありません。
「あれ-----?変ね、誰もいない・・・・。だって、あたし、今、その仲居さんと話をしながらここまで来たのに・・・・・?」
かおりも、香苗も、急に恐ろしさを覚えて、今来た道を旅館の方へと引き返し始めました。と、その目の前に、俄に現れたのは、旅館の女将でした。
「あれ、お客さんたち、どうしたんです?こんな夜中に外を出歩いたら危ないですよ」
そこで、かおりは、今、香苗を露天風呂へ連れて行こうとした仲居の話を女将にしました。すると、女将は、まあ、と、驚きの声を上げ、
「この旅館には、露天風呂はありませんよ。それに、そんな仲居さんもうちにはいません。こんな道を上まで上っても、崖があるだけですから、危険ですよ」
と、言います。二人は、背筋が凍る思いで、再び旅館へ入りました。
そして、かおりもまた、今し方、大浴場で見た恐ろしい妖怪のような女の話を、女将にしました。それを聞いた女将は、ああ・・・・と、大きく声を出して溜息をつくと、
「やっぱり、出たのね・・・・・」
「出たって、何なんですか?」
急き込むように訊ねるかおりと香苗の顔を、女将は、かわるがわる見比べながら、
「実は、あの化け物が原因で、この旅館は、もう何年も前から、閑古鳥が鳴いているの。今まで何人もいた仲居さんも皆やめてしまって、今では、わたし一人がここを切り盛りしているというわけ・・・・。でも、これでも、代々続いた、地元では一応名前の通った旅館だから、わたしの代でつぶすわけにもいかなくて・・・・・。ごめんなさいね、怖い思いをさせてしまって・・・・・」
女将は、本当にすまなそうに二人に頭を下げました。
一睡も出来ぬ間に、朝を迎えたかおりと香苗は、携帯電話でタクシーを呼ぶと、女将に見送られながらも、逃げ出すように、その老舗旅館をあとにしました。
すると、そのタクシーの中で、やおら、運転手が奇妙なことを言い始めました。
「ところで、お客さんたち、朝っぱらからあんなことろで何をしていたんだい?」
「・・・・・どういうことですか?」
かおりが、訝しげに訊き返すと、運転手は、いきなり大きな笑い声を立てて、
「だって、あんな山の中のつぶれた旅館の前庭の草っ原で、二人の若い娘が、ぼうっと突っ立っているんだもんな。誰だって、変だと思うだろう。昨日は、同僚の運転手が、あんたたちを乗せたそうだけど、なんで、あんな十年も前に営業をやめた旅館に行きたがっているのか、おかしな女の子たちだって、首を傾げていたぜ」
「何ですって------!?」
「それじゃァ、あの女将さんは------!?」
二人が、愕然と声を上げると、運転手は、なおも声を出して笑い、
「女将さんなんて、あそこにはいないよ。あの旅館には、もう誰もいないんだよ。もしかして、タヌキにでも化かされたかね?」
「うっそ~~~~~!!」
かおりも香苗も、真っ蒼になり、恐る恐る今来たばかりの旅館のあった方角を振り返りました-------。
今度、あなたが泊まろうとしている旅館は、本当に現実のものですか?そのパンフレット、もしや、十年も前のものではないでしょうね------?

< お わ り >
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大浴場の怪(前)・・・・・128
2009年08月13日
< 不 思 議 な 話 >
大 浴 場 の 怪 (前)
山の奥の旅館には、とかく幽霊やお化けの話題が付き物ですが、これもまた、そんな怖い出来事のお話です。
長野市のとある会社でOLをしている山本かおり(仮名)は、同僚の佐々木香苗(かなえ・仮名)と、短い夏休みを利用して、長野県内の山奥にある温泉旅館へ、二泊三日の小旅行に向かいました。
その温泉旅館は、パンフレットにも「信州の秘境」と、書かれているだけのことはあって、最寄りの駅からタクシーで一時間以上も走った山の中腹にあり、うっそうと生い茂る雑木林に囲まれた、実にひなびた一軒宿でした。
古くは、明治時代の有名な文士や政治家も宿泊したことがあるという老舗の名宿ではありましたが、高級ホテル志向が一般的な現代にいたっては、このような湯治場を兼ねた旅館は、もはや、宿泊客のニーズに合わないということなのか、この日の泊り客は、彼女たちの他には誰もいないという、宿の女将の説明でした。
それでも、二人は、日々の多忙な騒々しさから解放されて、旅館の二階部屋に流れ込む深山の蝉の声や、谷川のせせらぎの音を聴きながら、心からの安らぎと、身体のリフレッシュを覚えたのでした。
夜は、宿の女将自慢の山菜や川魚の素朴な料理を堪能し、やがて、かおりは、香苗に、
「あたし、ひとっ風呂浴びて来ようと思うんだけど、香苗も一緒に行かない?」
と、誘いました。しかし、香苗は、
「ううん、あたし、まだいいわ。もう少し部屋でテレビでも見ているから、かおり一人で入って来て」
と、言います。そこで、かおりは、一人浴衣に着替えて、入浴道具を抱えると、先ほど女将が教えてくれた階下の大浴場へと向かったのでした。
浴場の脱衣室で浴衣を脱ぎ、湯船のある浴場へと入ると、古びた木目が時代を感じさせる檜(ひのき)の浴槽からかけ流しの天然温泉が、おしげもなくあふれ出し、たちこめる真っ白な湯気の中に、かおりは、自らの裸身を座らせました。そして、一杯、二杯と、かけ湯をした時、ふと、自分の目の前の湯気の中に、もう一人の髪の長い女性の背中を見付けたのです。
(おかしいな?あたしの他には、脱衣棚を使っている人はいなかったはずなんだけど・・・・。先客がいたんだわ)
かおりは、そう思いながらも、せっかく、旅の宿で一緒に風呂へ入ることになったこの先客に、一応挨拶をしておこうと、彼女の後ろから声をかけました。
「こんばんは、いいお湯ですね。ご一緒に入らせて頂きますね」
「・・・・・・・・」
でも、相手は、まったく返事をしません。かおりが、不思議そうに首を傾げた時、その女性は、背中まである長い黒髪を束ねることもなく、そのまま湯船の中へ入ったので、かおりも、その女性から少し離れて湯につかりました。
女性は、髪で顔が隠れていて、かおりの所からは、その容貌は判りませんでしたが、まだ若い女性のようでした。すると、その女性の黒髪が、お湯の表面に広がるように漂うと、次第に、かおりの方へと近付いて来るような気がしました。
気味が悪くなったかおりが、慌てて湯船から出ようと立ち上がった時、その女性は、ゆっくりと、かおりの方へ首を向けたのでした。かおりは、女性の顔を見た瞬間、思わず、悲鳴を発しました。
「キャァ~~~~~ッ!!」
何と、その女性には、顔がなく、ただ耳まで裂けた大きな口だけが、真っ赤に開き、こう言ったのです。
「出てお行き!ここから、早く、出てお行き!」
その恨みがましい怒りの声を聞いたかおりは、恐怖で仰天し、転がるように脱衣室へ戻ると、濡れたままの身体に浴衣をひっかけ、必死で階段を上がり、香苗の待つ部屋まで戻ったのでした。
「香苗!!い、いま、お風呂で、化け物が-------!」
かおりは、叫びながら部屋の襖を開けて、室内へ飛び込みましたが、何故か、そこに香苗の姿がありません。
「こんな旅館には、泊まれない。香苗を探して、早くここから出て行こう」
かおりの焦りは頂点に達していました。彼女が大急ぎで服に着替え、荷物をまとめ始めた時、開けられた窓の外の方から、突然、香苗の笑い声が聞こえて来たのでした。かおりは、すぐさま窓の方へ寄り、身を乗り出すように外を見ます。
そこには、眼下の真っ暗な木立の中を、懐中電灯の灯りを頼りに、旅館の裏山へ向かう一本道をたった一人で登って行く香苗の浴衣姿が、あったのでした。
「香苗!!」
かおりは、大声で香苗の名前を呼びましたが、彼女は、まったく気付かぬ風で、まるで誰かと話をするように楽しげな声を響かせながら、歩いて行くのでした。
< つ づ く >
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