人の口に戸は立てられぬ・・・・・395

~ 今 日 の 雑 感 ~


  
人の口に戸は立てられぬ



    人の口に戸は立てられないというが、本当に、その通りである。

    しかも、事実をそのまま第三者にしゃべってしまったというのなら、まだ、そんな人間を信用した自分が悪かったと後悔することも出来るが、自分には身に覚えのない事柄を勝手にでっち上げられて、

    「あの人、こんなこと言っていたよ」

    などと、内通されては、たまったものではない。

    わたしは、以前、傷心でふさぎ込んでいたある人に、激励の言葉をかけたことがある。ところが、その人から返ってきた言葉が、「おためごかしを言うなよ。本当は、喜んでいるくせに」と、いう思いもかけないものであった。

    あとで判ったことだが、その人は、別の知人から、わたしが落ち込んでいるその人を笑っているというようなデマを吹き込まれていたらしいのである。

    そういう誤解は、何処にでもあるものだが、一体だれの言っていることの方がより真実なのか、人間には、しっかりと見極める目が必要であり、それが見極められるか否かが、その人間の価値ともかかわって来るものだと、考える。

    人間は、弱いものである。

    仲間を募りたいと思えば、そのターゲットへの手土産の一つも持って行きたくなるというのが人情だろう。しかし、その手土産が、作り話や、でっち上げ話という場合も時にはあるのだ。

    いや、仲間を増やすことが目的の場合などは、そのほとんどがそうした類のものだといっても過言ではない。

    なぜならば、そういう尾ヒレを付けた話題の方が、断然、相手を引き付けやすいからだ。しかも、どういう訳か、そうしたでっち上げ話の方が、何処となく真実めかして聞こえるもので、特に、女性から男性、またその反対などの場合は、簡単に騙されてしまうという傾向もあるらしい。

    それにしても、どうして人間は、そういう卑劣な手段を講じてまでも、他人との関わりをあえて持ちたいと思うのだろうか?

    それほどの作り話を用意してまでも、仲間を欲しいと思うことが、わたしには理解できないことである。そんな刹那的な交わりを欲して、何か意味があるのか?たとえ、浅く希薄な友人関係でも、独りでいるよりはマシだと考えるのであろうか?

    まあ、いずれにしても、そうしたものは、わたしには、愚者の脆塊としか思えないのである。face03

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自分のことしか考えられない奴・・・・・394

~ 今 日 の 雑 感 ~


自分のことしか考えられない奴



    それにしても、世の中には、常に自分のことしか考えられない人間て、いるものなんですよね。

    お茶飲み話をしていても、話すことといえば、いつも自分の子供のことや会社のことばかり。わたしが、そんなことを聞いていったいどうしたらいいのでしょう?

    あなたの子供の話など、わたしに何の関係があるのでしょうか?それも、愚痴や悩み事なら相談に乗ることやアドバイスも出来るかもしれませんが、要は、自慢したいだけなのでしょう。自分の子供は、こんなに可愛いと----。face03

    そこで、こちらも、甥っ子の話など出して対抗するのですが、それには全く上の空。面倒くさそうな顔さえする訳で、自分の話だけを聞いて欲しいなんて、虫がよすぎるというものです。

    だいいち、わたしは、他人に向かって自分の子供を褒める奴が大嫌いです。

    自分の子供を「ちゃん」付けで呼ぶ親など、馬にでも蹴られてしまえと思います。(昔は、馬の手綱を引いた農家の人を道で時々見かけましたが、最近は、いませんね~)

    また、子供をダシに使って、「この子がいるから、そういうことは出来ない」と、保身に出る親をみると、虫唾が走ります。

    それに、こちらが何を話しても、そんなことは頭の隅にも置いていないものだから、何度も同じ質問を繰り返すので、わざとこの前とは違うことを言ってからかってやったりもします。まあ、それでも、ほとんど気が付かないのですがね・・・・。

    わたしは、もっと違う会話がしたいのですが、何を話していても、最後は自分の家族のことや、会社の上司の悪口ばかり。正直、疲れますし、飽きます。

    そして、ついに、「今度、どこそこへ食べに行かない?あそこの豆腐料理はおいしいよ」と、来る。

    わたしが、それは無理だと答えると、「え?----どうして?」

    「だってそこは、お座敷でしょう?わたしは、ダメじゃない」

    「どうしてダメなの?」-----ここまで来ると、もう、こいつの海馬は大丈夫かと疑いたくなります。わたしのブログをよく読まれている方なら、理由はお判りですよね?

    そういう奴なのです。

    世間には、自分のことしか頭にない人間は、確かに大勢います。いや、ほとんどの人がそうでしょう。わたしだって、人のことは言えません。しかし、自分の子供の話しか話題がないなんて、情けないじゃないですか。

    子供の存在は確かに癒しにはなりますが、それでも、本心からお子さんを可愛いと思っているのは、あなただけなのですよ。face03  続きを読む


「おもてなし」の極意・・・・・393

~ 今 日 の 雑 感 ~


「おもてなし」の極意



    「おもてなし」に極意などあるなら、誰も苦労はしないと、思う方は多いでしょうね。

    わたしも、そういうものがあるのならぜひ知りたいと思います。しかし、「極意」というほどのもではないにしても、わたしは、ある新聞の投稿記事で、なるほど、これはある意味、理のある方法だなァ・・・・と、感じたものがあるので、ご紹介しておきたいと思うのです。

    その女性は、横浜市の方なのですが、ある時、東京の銀座へ妹さんと用事に行かれたのだそうです。ちょうど、資生堂ビルの前を通りかかったので、三階のコーヒーショップに入ったのだといいます。

    そのコーヒーショップは、普段着の女性たちには、気後れするほどに上品な店で、真っ白なテーブルクロスの上に季節の可愛い花が飾ってあるような客席が並び、制服を着たハンサムなボーイさんたちがまるでドラマに出てくるような親切な態度で、椅子を引き、女性たちを腰かけさせてくれたのだそうです。

    ウェイターがスマートに手際よく注ぐコーヒーを堪能し、その後、ある種の好奇心からトイレも見てみようと入り、そこにいた他の客と立ち話をしてから、店内へ戻ると、ウェ―トレスたちが、独りで来ている客たちの話し相手をしていたというのです。

    女性は、格式ばったイメージだけではなく、こうしたやさしい思いやりに満ちた、客一人一人を退屈させたり孤独にさせないさりげない気遣いに、感銘を受けたということでした。

    「おもてなし」と、一口に言っても、その形式は様々ですし、また、それを受け止める客側の心理状態も一様ではありません。四角四面にきっちりとしたマニュアルに沿ってなされなければ「おもてなし」とは呼べないと、いう人もいれば、そんな心のこもっていないような対応では、満足できないという人もいるでしょう。

    わたしも以前、老舗高級ホテルと呼ばれるところのパーティーに出席したことがありますが、そこのウェイターたちは、まるでロボットのように無表情で、決まりきった行動しか取れない人たちで、実に奇妙な感じがしたのを覚えています。

    人間は、機械ではありませんから、人が集まる場所にはハプニングは付き物です。そういう思いがけない状況にも対処できる応用能力がなければ、本当の「おもてなし」とはいえないと思うのです。

    ワイン・ソムリエ世界一の座を獲得した田崎真也さんが在籍していたことでも有名な、東京のホテル西洋銀座では、昔からバトラーサービスというものがあるといいます。要するに、貴族に仕える執事のように、宿泊客が望むさまざまなサービスを提供するというコンシェルジュたちがいるのです。

    彼らのモットーは、「紳士淑女をおもてなしする私たちもまた、紳士淑女である」と、いうものだそうです。

    彼らバトラーたちは、ホテルと顧客の良好な関係を築く中で、それをより深化させ、顧客の好みを熟知し、顧客はそのホテルスタッフを愛することで、ホテルに快適さを感じるようになるのだというのです。

    そう考えると、「おもてなし」とは、即ち、そこで働く人々の「人間的魅力」なのではないかと思うのです。

    もしも、世の中に「おもてなしの極意」があるのだとしたならば、それは、「顧客の気持ちに寄り添う」-----これに尽きるのではないでしょうか。



    ***  写真は、「ホテル西洋銀座」の女性バトラー。   続きを読む


「いい女」って、呼ばれたい?・・・・・392

~ 今 日 の 雑 感 ~


「いい女」って、呼ばれたい?icon06



    この前、鳩山総理が、「小沢幹事長は、マスコミなどによって、あのような(ダーティーな)イメージを作り上げられてしまっているので、やっていることが全て悪いことのように国民に受け止められているきらいがある」と、いうような主旨の発言をしていましたが、やはり、イメージというものは、政治家などにとっては極めて重要なものなのですね。

    では、一般の人たちはどうでしょうか?

    よく聞く言葉に、「彼女は、いい女だ」とか、「出来る女性だ」とかいうものがありますが、これも、かなりイメージに頼っている言葉だと思うのです。

    では、あなたにとって、「いい女」と、いうのはどういう女性のことなのでしょうか?容姿の美しい人ですか?それとも、教養のある人?機知に富んだ会話の出来る人でしょうか?出しゃばらず、他人を立てることの出来る女性でしょうか?

    一口に「いい女」といっても、その感じ方は、十人十色ですよね。 

    でも、わたしは、未だかつて、「いい女」「出来る女性」などという人に、一度も出会ったことがありません。

    確かに、頭のいい女性や、仕事の効率のいい女性、会話のうまい女性、美貌に恵まれた女性、おしとやかな女性などには、あったことがありますが、「いい女」と、呼ばれるような人は、知りません。

    かつて、タレントの美輪明宏さんが言っていました。

    「今は、『麗人』がいなくなったわね。『美人』は、何処にも掃いて捨てるほどいるけれど、言葉遣いから物腰、立ち居振るまい、教養、品、人当たりの良さなど、すべてを兼ね備えている上に、分をわきまえている女性は、まったくお目にかからなくなったわ」 

    確かに、わたしもそう思います。たぶん、そういうかつての「麗人」こそが、「いい女」なのだと思うのです。 

    しかし、現在は、そういう「いい女もどき」が、多すぎて、本当の意味での「いい女」が、人々の間からは既に忘れられた存在となっているのだと思います。要するに、「カぺリン」を、「ししゃも」だと思って食べ続けているうちに、本物の「ししゃも」がどういうものか忘れ去られてしまったようなものです。(ちょっと、喩えが変ですかね?)

    でも、わたしは、この「いい女」には、もはや懐疑的です。この世の中の何処を探しても、そんな女性を見つけることなど出来ないでしょう。ですから、自分が間違っても、そんな風に呼ばれたいとは思いませんし、呼ばれること自体がむしろ迷惑な時代でもあると思うのです。

    確かに、20代30代の自分の容姿や健康に自信のある女性たちは、そんな風に呼んで欲しいと思う気持ちもあるのかもしれませんが、人間病気をして容姿も何もかもが衰えれば、「いい女」だろうが「悪い女」だろうが、そんなことはどうでもよくなるものなのです。

    人間の本性は、綺麗事では済みません。最後は、誰も醜く汚いものなのです。

    ですから、わたしは、これほど酷な言葉はないと思うのです。-----「昔は、よく出来たいい女だったのに・・・・」

    そんな言葉を聞かずに済ますためにも、若い頃から「いい女」「出来る女性」である必要はないと思うのです。

    あなたは、「いい女」と、呼ばれてみたいですか?face02  続きを読む


食後は疲れる・・・・・391

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食後は疲れる



    入院中、よく食事のあとで「疲れた」と、言ってひと眠りする患者さんが多かった。

    わたしは、あまり、そういうことは感じなかったが、年配の女性になればなるほど、その確率が高かったように思う。

    すると、この間、一人の70代の女性が、まったく、同じことを言っていた。その女性とは、よく共同浴場で顔を合わせるのだが、彼女は、お風呂から上がったあと、脱衣所の椅子に腰をかけながらゆっくりと服を着つつ、こんなことを話しだしたのである。

    「若い時分は、湯あがりに椅子に腰かけていつまでもおしゃべりし続けているおばあさんたちを見ると、どうして早く支度をして家へ帰らないのだろうかと、不思議に思っていたけれど、自分がこの年になってみると、その理由がよく判るわ。お風呂から出ると、本当に疲れてしまうのよね。すぐに服を着て、うちへ帰ろうという気力がなくなってしまうのよ。だから、いつまでも、ここでダラダラと、腰をおろしていたくなってしまうのよね」

    「そういうものですか・・・・。わたしは、さっさと家へ帰ってから休みたいと思いますけれど-----」

    わたしが言うと、女性は、

    「それは、まだ若い証拠よ。それに、近頃は、ご飯を食べたあとが疲れて疲れて、30分ぐらいは、茶の間で横になっていたい気持ちなの。でも、そのうちに、気が付くと眠ってしまっていたりして、主人に叱られてばかりいるのよ」

    「どうして、ご主人は叱るんですか?食後の休憩は、よく取れっていいますよね」

    「でもね、主人は、ご飯を食べ終わった後は、さっさと食卓を片づけないと気分が悪いらしいのよね。いつまでも、食べたあとのお茶碗などがそこに出しっぱなしになっているのが嫌いなのよ。だから、あたしがいつまでも休んでいて片付けようとしないと、ものすごく怒るの。でも、疲れているんだから、仕方がないんだけれど・・・・。食事の後片付けって、ホント、重労働なのよね。テーブルに出ている食器を片づけて、それを冷蔵庫へ整理して入れて、汚れたお茶碗を洗って、拭いて、戸棚にしまって、次の日のご飯が炊けるように炊飯器をセットして、生ごみを片づけて-----。全部終わるまでに、40分はかかるのよ。
    でも、主人は、そんな主婦の大変さなんて、まったく判らないから、自分は食後のうのうとしてテレビを観ているだけ。台所仕事って、男が考えているほど、簡単なものじゃないってこと、ぜんぜん判ろうとしないのよね」

    女性の愚痴は、延々と続きそうなほどであった。

    「若い頃は、何となくやってしまっていたことが、年を取るにつれて大変になるってこと、よくありますよね。若い時は、家の周りを花で飾って楽しんでいたけれど、年を取ってからは、花の苗を買いに行くことすらもおっくうになってしまい、いつの間にか、あれほど好きだった園芸もやめてしまうという話は、よく聞きます」

    わたしが、口をはさむと、

    「だから、そういう趣味も家事も、若い頃からほどほどにやっていることが大事なのよね。昔は、そんなんじゃなかったと、思うと、腹も立つから-----。もともと、ずぼらな性格だと思われていた方が、高齢になってからは楽なのよ」

    女性は、そう言って、ようやく立ち上がり、

    「やっと、楽になった・・・・。さて、帰るとするか」

    入浴道具一式をまとめて、共同浴場をあとにした。

    高齢になると、何をするにも疲れが先に来るようだ。それにしても、奥さんにご飯の後片付けをさせたまま、テレビを観ているだけの男性の身勝手さにも呆れかえる。もう、あの年になれば、別に仕事を持っている訳でもないだろうに・・・・。

    少しは、手伝おうという気にはならないのだろうか?それとも、下手に手を出されても、奥さんの方が迷惑なのか?

    うちの場合は、確かに、父に手を出される方がより時間がかかってしまうということがある。やっぱり、テレビを観ていてくれた方が、効率がいいかもしれないな。(爆)   続きを読む


無防備都市宣言て、何?・・・・・390

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無防備都市宣言て、何?



    中川村の曽我逸郎村長が、地域に軍隊を入れないことで住民を守ろうとする「無防備地区」宣言を同村がしてはどうか-と、村ホームページで投げ掛けているそうです。

    米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題を念頭に、「先手を打って(軍事力は不要と)意思表明できる」としているのだということですが、これって、曽我村長の意見にコメントを寄せた人の中にもあった感想だそうですが、

    「最初から、白旗を掲げて、どうぞお好きにしてくださいと、いうことですか?」

    と、問いたいように思います。

    しかしながら、もしも、そういう宣言がなされたら、中川村の周囲の市町村は、大変でしょうね。

    駒ヶ根市、飯島町、松川町、高森町、大鹿村、豊丘村、飯田市などが、その分の負担を強いられたり、また、中川村だけが自衛隊の防衛網から外れたことで、外国の軍隊が強引に居座ってしまっても、日本国は手出しが出来ない状態におかれるということにもなりかねないと、いう意見もあるようです。

    まあ、曽我村長が、自分の意見をブログに書くことなどはいいとしても、これを、村のホームページに書いてしまったことに対しては、村民からも異論が出ているそうで、確かに、その村長の持論を村民の総意だなどと思われては迷惑でしょう。

    「無防備都市宣言」は、事実、理想的な平和主義かと思いますが、また、村民を軍隊や戦争に巻き込みたくないという村長の気持ちも判りますが、万が一、他国に攻められた場合、中川村だけは自衛隊の防衛外地におかれるというのも現実的ではないように思います。

    曽我村長の真意がどこにあるのか、わたしにはよく判りませんが、それにしても、ユニークな発想といえます。

    かつて、ある経済評論家の男性が、テレビ討論の場でこんなことを話していました。

    「日本に、軍事力は必要ありませんよ。その分のお金を医療や福祉に回せばいいんです。もしも、外国が戦争を仕掛けてきたら、その時は、もう仕方がないから、国民みんなで死にましょう。昔、東アジアに日本という国があって、戦争が始まってもまったくの無抵抗のまま滅んだと、世界中の語り草になりますよ」

    まあ、この意見を口に出した途端、その評論家は、ゲストたちの猛攻撃を食らいましたけれど-----。face03
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国母選手の五輪スタイル・・・・・389

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国母選手の五輪スタイル



    何かと、大風呂敷を広げることでも有名な男子スノーボード・ハーフパイプ日本五輪代表の国母和宏選手(21・東海大学)が、バンクーバーに向けての成田空港を出発する選手団の中にあって、一人だけ公式服装の着方に乱れがあったことで、日本選手団の入村式を自粛させられた。

    そして、日本選手団の橋本聖子団長は、国母選手のオリンピック開会式出席も自粛させた。

    さらに、SAJ(全日本スキー連盟)は、同選手に大会出場そのものを辞退させる意向を示したが、橋本団長は、「子供たちへの夢を奪う訳にはいかない」と、競技への出場は認める意向を示した。

    この時のテレビ映像を観た多くの国民から、JOC(日本オリンピック委員会)やSAJ(全日本スキー連盟)に対して、苦情の電話やメールが殺到。電話は50件、メールは、500通にも達し、その内容の多くは、

    「スポーツマンらしくして欲しい」「国民の代表としてあり得ない」

    と、いうもので、国母選手の服装やスタイルに理解を示す内容は、ごくわずかだったということである。

    中には、「JOCは、もっとリーダーシップを発揮しろ!」という、強い調子のものもあり、選手管理の甘さを指摘する声も多いという。

    ただ、この反応には、インターネット上では、疑問を呈する記事などもあり、「そもそも、オリンピック選手は、学校の生徒ではないのだから、服装などについてまでいちいち事細かに注意される筋合いの問題ではない」とか、「いったい、誰に向かって注意をしているのだ?スノーボード・ハーフパイプの選手たちの常識を知っているのか?」などという、声もないわけではない。

    つまり、HPの選手たちとは、大勢(たいせい)への迎合を潔しとしないことが暗黙のルールとされているようなものなのだから、国母選手のシャツはみだし、ネクタイのルーズ結び、サングラスなど、最初から判り切っていたことであると、いうのである。

    「JOCは、いつから修学旅行の引率になったのだ!?」と、いうのである。

    しかし、この声にも、首を傾げたくなるところはある。つまり、国母選手は、誰から渡航費や練習費をもらい、今度の冬季オリンピックへの出場がかなったのであろうか?-----と、いうことなのである。

    彼は、それをすべて自分のお金で賄っているのではないはずだ。必ず、国民の税金が使われているはずなのである。要するに、そうした恩恵の下で代表入りしている以上、彼は、間違いなく公人であり、本来の自由を制限されることは、国母選手自身も判っていなければならないことなのだ。

    それでも、なお、自己のスタイルを貫くというのであれば、「メダルなどよりも、日本は礼節と秩序を重んじる」という方針の元、JOCやSAJが国母選手を選手団から外すこともいとわずとの、姿勢を取ることは当然であろう。

    オリンピック選手に最も大切なものは、何なのか?これは、元横綱・朝青龍の暴行問題にも通じるところがあるのだろうが、「実力よりも品格」であると、いうことを、今回の問題は明白に物語っているといっても過言ではないだろう。

    しかしながら、当の国母選手は、釈明のための記者会見の席でも、

    「ご迷惑をおかけしました~~」

    と、まるで、他人事のような話し方であった。

    もしも、彼が、これでメダル圏外などという不成績で今五輪を終えたなどということになれば、彼に対する国民からのさらなるバッシングは必至である。よって、これだけの図太い態度を示したのだから、何が何でも、勝たねば、彼にとってのすべての評価が地に落ちるというものである。

    彼だって、そんなことも判らないような愚かな人間ではないだろう。この非難をプレッシャーにしながら、持ち前の反発精神で、ぜひとも表彰台へ上って欲しいものである。icon09

    なお、国母選手には、今冬季大会終了後に、SAJから何らかの処分が科せられるとの報道もある。  続きを読む


嫁の本音(お正月は憂鬱)・・・・・388

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嫁の本音(お正月は憂鬱)



    「正月が来ると憂鬱だ。親戚一同が(本家である)我が家へ集まって来るが、次男や三男のお嫁さんは、ただのお客さんで食べてしゃべって楽しんでいるばかり。わたしは、長男の嫁なので、家事一切の仕事がわたしにかかって来る。座っている暇もなく動き続けて、それでもやり方が悪いと、気が利かない嫁だと叱られる。

    お正月が終わり、親戚たちが帰った後は、必ず体調を壊し寝込むこととなる。だから、子供もまだ小さいし、自分の身体の方が大事なので、今年は、お正月には家を出て、子供たちとホテルへ泊ってゆっくりと過ごした。これからは、毎年こうやって一年のリフレッシュをしようと思う」


    先日、このような内容の投稿記事が、新聞に掲載されていた。わたしは、興味深く読んだ。

    何故なら、わたしの知り合いの理容師の女性も、かつて、同じような愚痴をこぼしていたことがあったからだ。その女性も、やはり、長男の嫁で、お盆やお正月には、親戚が大挙して押しかけ、その中には、なんと、姑の兄弟までが入っていたのである。

    彼女は、文字通り孤軍奮闘。20人もの食事の用意をして、後片付けをして、布団を敷いて、上げて、親戚の子供たちを集めて外湯へ連れて行き、プールやスキー場へ送り迎えをし、洗濯までも引き受け、彼らが返ったあとは、へとへとで家の中のことなど何も出来なくなってしまうと、こぼしていたのである。

    そして、それに真っ先にブチ切れたのは、彼女の子供たちだった。親戚の子供たちと喧嘩が絶えなくなったのだという。おそらく、自分たちの母親をこき使う叔父や叔母の子供たちが憎らしくなったのだろうと、女性は話していた。

    しかし、そんな彼女も、今は、静かなお正月を過ごしているという。義理の両親が亡くなったことを機会に、盆や正月の集まりを一切なくしてしまったのだという。もしも、どうしても来たい場合は、自分で旅館を予約して来て欲しいということに決めたのだそうである。

    上記の投書に対しての反響は大きく、新聞には、気持ちがよく判るという共感や、長男の嫁なのだから我慢しろとの反論、または、次男のお嫁さんという人からの反省の弁などが多数寄せられていると聞く。

    わたしの家は、長男の嫁という訳ではないので、そういう集まりごとは経験したことがないが、それでも、親戚が集まるという時は、必ず近くの旅館や料亭を会合場所に使うことにしている。

    何故なら、いつも裏方に回らなければならないわたしが、ブチ切れるからである。(笑)

    楽しむ時は、みんなが楽しまねば意味がない。誰かを犠牲にしながら楽しい時間を過ごすなど、ナンセンスなのである。

    お正月に親戚一同が会するという光景は、確かに見ていて微笑ましいものだが、陰で生葱の皮をむきながら悔し涙を流している長男の嫁がいるという事実を、忘れて頂きたくないものである。icon09  続きを読む


真冬にノースリーブ?・・・・・387

~ 今 日 の 雑 感 ~


真冬にノースリーブ?




    テレビのバライティ・ショーなどを視聴していると、いつも気になることの一つが、若い女性タレントのノースリーブ・スタイルである。それも、真冬の番組なのにである。

    スタジオ内の温度が、相当に高いことが判る。

    地球温暖化が懸念されて久しい今日にあっても、テレビ業界の室温管理には、そんなものは関係がないと言わんばかりの様子が、彼女たちのファッションからも確実に知ることが出来るのである。

    しかしながら、そういう季節外れのファッションは、視聴者に対しても失礼この上ないもので、「あなたたちは、寒さを我慢しながら、このテレビを観ているのでしょうけれど、わたしは、暖かなスタジオ内で、とっても快適よ」と、いう、彼女たちの高慢な声が聞こえてくるようで、実に不愉快なのである。

    ご存知のように、日本の自然の美しさとは、他の国とは比べ物にならない、メリハリのある四季に裏打ちされたものといっても過言ではない。

    春は、桜、夏は、花火、秋は、紅葉、冬は、雪見-----それぞれの季節の風物詩を楽しむことが出来るのも、そういう変化に富んだ気候のなせる技なのである。にもかかわらず、ここ十年程の間に、この気候と風物詩が次第にマッチしなくなってきてしまった。

    街を行く若者のファッションを見ると、そのことが実によく判るのだが、真夏にニット帽をかぶり、真冬にノースリーブのワンピースドレスを着る。

    真夏に、ロング・ブーツを履き、真冬に、靴底に雪面用の滑り止めを付けながらも、パンプスを履く。

    自分自身は、それで満足なのかもしれないが、そんなチグハグなスタイルを見せられる第三者の気持ちはどうでもいいというのであろうか?

    「ファッションは、街の景観の一部である」と、言ったデザイナーもいたという。

    紅葉してシックな晩秋の風景を描く街路樹の下に、アロハシャツが似合うとでもいうのだろうか?真夏の日光がさんさんと降り注ぐビーチに、毛糸のアーガイル・セーターが似合うというのだろうか?

    これが、四季の美しさなどに関心のない外国人ならば致し方のない場合もあるだろう。しかし、少なくとも、日本人の若者には、やはり、季節を重んじたファッションを心がけて頂きたいものである。

    感性というものは、一朝一夕に培われるのもではない。長年の生活習慣の積み重ねによって、身体の隅々に少しずつ染み付いて行くものなのである。

    同じピンクでも、梅春物のピンクと、初春のピンク、晩春のピンクの違いぐらいは、せめて味わうことが出来る感覚を忘れてもらいたくはないのである。icon06



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一匹オオカミ?・・・・・385

~ 今 日 の 雑 感 ~


一匹オオカミ?



    わたしは、昔から他人と徒党を組むのが好きではない。

    誰かと一緒に何かを成し遂げるということに、達成感を得ることが苦手なのである。

    達成感なら、自分一人で何かを成し遂げた時だけに感じることが出来、他人と一緒の時は、どうしても、「あそこはもっとこうしたかった」とか、「あとでこっそり行って、直してしまおうかな」などとの思いがどうしても気持ちに引っ掛かり、すっきりしないのである。

    スポーツにしても、観戦するだけなら何でもいいのだが、自分で行なうのは、やはり、個人競技に限ると思っていた。負けても勝っても、自分の責任。他人を恨まずにすむからである。

    行きたい所があれば、人を誘うことなく、自分一人でも行ってしまう。

    食べたいものがあれば、周りが同じものを頼んでも、自分だけはそれに合わせることはない。食べたくない物を無理して食べて、お金を支払うほどバカげたことはないからだ。

    高校時代の制服のオーバーコートの襟を、ただ一人だけ開襟にしていたのは、わたしだ。

    その方が、断然恰好がいいと思ったからである。だから、これまでの人生でも、流行という言葉とはほぼ無縁の生活を送って来た。人真似が嫌いで、常に独立独行。

    だから、付き合いは幅広いが、心底信用できる人間は、ごく限られた人々に集約される。

    そのせいか、逆に自分が書く小説は、ほとんどが集団物である。仲間で何かを成し遂げることを主題におくことが多い。

    そういう題材の方が書きやすいし、その中で登場人物一人一人を描き込んでいく方が楽しいのだ。我がままと言えば我がままだが、他人に遠慮しながらの人生など、だいいち面白みがないではないか。

    人からいい人だなどと褒められることを望み、また、そうあらねばならないと思い込んでいるうちに、月日は矢のように過ぎるものである。

    生きるとはどういうことなのか?それは、決して他人に迎合することではない。

    どれほど親しい間柄でも、その他人が自分の人生を生きてくれる訳ではないのだから------。icon21

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インターネット・アレルギー・・・・・384

~ 今 日 の 雑 感 ~


インターネット・アレルギー



    政治家たちの間で、今、ツイッターが大人気だという。

    民主党の原口総務大臣や蓮舫議員、自民党の山本一太議員、そして、鳩山総理もツイッターを活用しているそうである。

    もはや、政治家は、インターネットを自由自在に操れないと、お話にならないという時代が来たようである。しかしながら、そういう政治家たちが相手にしている有権者の中には、まだまだ、インターネットなど何処の国の話か?----と、いう世代の人たちも多いのが実情である。

    わたしも、この一年ブログを書いてみたことで、ようやく、インターネットの玄関口をのぞかせてもらうことが出来た。パソコンという物体に触って、たった一ヶ月でブログを書き始めた訳だが、最初は、正直、何が何だかまったく判らず、ブログに画像を入れることも、コメントを書き込むことも、恐る恐るの手探り状態であった。

    しかも、未だに、日々試行錯誤の連続である。

    そんなわたしの両親など、まったくもってインターネットやパソコンなどというもの関しての知識は、ほとんど皆無である。上記のツイッターのニュースを観ていても、それがどういう代物なのかなど、さっぱり判らない。

    それらを想像するためには、その土台となる言葉や物体に対する知識がないとならないものだが、それすらない人間は、外国語を聞いているようなもので、イメージを組み立てることさえ出来ないものなのである。

    だから、こちらがそれについて説明しても、もともと覚える気がないし、興味がない訳であるから、たった一言、

    「面倒くさい!」

    と、いうことになってしまうのである。

    ところが、そんなインターネット・アレルギーの世代ほど、政治には関心がある。民主党が政権を取ったことで、その関心は今まで以上に高くなっているといっても過言ではない。

    民主党政治に対しての賛否はともかく、小沢幹事長の資金管理問題や、鳩山総理の財産贈与問題、また、八ッ場ダム、日本航空、沖縄アメリカ軍基地、地球温暖化、子供手当と、あらゆる問題についても、これまでの自民党政権では隠されて来たようなことまでも次々に表面に出て来ていることで、国会中継なども、興味深く観るようになってきたのである。

    しかしながら、そこで見える政治家たちの姿がすべてではなく、インターネットの世界では、また、別の素顔を見せる政治家たちがいる訳で、そういう彼らの別の側面に接することが出来ないインターネット・アレルギー世代は、そのことが不満でならないようなのである。

    これから、もしも、ブログなどでの選挙活動が可とされるようになり、選挙演説会などの開催が少なくなったり、選挙カーが街を行き来することがなくなるようなことにでもなれば、インターネットの世界からはみ出すことになる人たちは、極端な話、政治への参加も出来なくなるということになるのではないかと、懸念される。

    たとえ、インターネットが判らなくても、パソコンや携帯電話の操作が出来なくても、地デジの意味が理解できなくても、国民全員が参加でき、知ることができる、そんな政治のありようを、望みたいものである。  続きを読む


ゆっくり話も出来ない!・・・・・383

~ 今 日 の 雑 感 ~


ゆっくり話も出来ない!



    従姉が珍しく家にやってきた。

    高齢の両親を自動車に乗せているが、よそから頂いた野菜や果物などを我が家でも食べて欲しいと、持って来てくれたのである。

    こちらもご近所からの頂き物を、従姉におすそ分けしたのだが、彼女は、

    「親たちを自動車に乗せたままなので、時間がないんだけれど、ちょっと、話聞いてくれる?」

    と、言うので、わたしが、いいよと、答えると、

    「あたし、最近、血圧がやたらに高くなって、三ヵ月にいっぺん病院へ行って診てもらっているんだけれど、降圧剤を飲むように言われちゃったのよ。肝臓も悪いっていうんだけれど、この前は、地域の検診にも行って来たの」

    従姉は、とても不安そうに話しだした。

    「血圧が高いって、どれくらい?」

    わたしが訊ねると、薬を飲まないと、最高血圧が180ぐらいになるという。そうなると、頭が痛くなり、めまいがして、吐き気までするので、今は、降圧剤で130ぐらいまで落としているのだそうである。

    「-----で、先生は、とにかく太り過ぎが原因の一つだから、痩せなさいって言うんだけれど、あたし、もう一日中両親の世話で動きっぱなしでしょう。だから、あんまり食べてもいないんだけれど、とにかく太るのよ。痩せなさいって言われても、どうしたらいいのか判らないの」

    確かに、従姉は、一日中働き過ぎるほど働いている。両親の足腰が満足でないために、朝から朝食作り、掃除、洗濯、そして家庭風呂は嫌だという両親を自動車に乗せて温泉へ入浴させに行き、また、家まで戻り、買い物に食事作りと、それこそ寝る間も惜しんで動いている。

    それだけではない。今度は、親戚の叔母から連絡が入り、病院へ行きたいので連れて行って欲しいと言われれば、また、自動車で叔母を迎えに行き、病院の送り迎えも手伝うことになる。

    そして、ついに去年には、従姉自身が過労で倒れた。

    それでも、両親は、彼女に休みをくれようとはしない。少し元気になった途端、また、いつものように身の回りの世話をさせるのだ。

    「そんなことばかりをしているのに、ぜんぜん痩せないんだから、本当に不思議だよね」

    従姉は、我がことながら呆れるように話した。

    もっと話をしていきたかったようなのだが、ここで時間を取られていると、あとのことが出来なくなるというので、彼女は、そこまでで言いたいことを切り上げて、自動車のところまで戻ったが、わたしが、何気に、

    「また、時間見付けて話しに来てよ」

    と、声をかけた途端、彼女は、突然、キッとした顔をこちらに振り向けた。そして、一言、

    「こんな状態で、ゆっくり話なんか出来る訳ないじゃないの!」

    そう言うと、車内の両親を恨めしそうに睨んで、自分も運転席に腰掛け、自動車をスタートさせたのだった。

    この家族を見ていて、わたしはいつも思う。何故、彼女の両親は、もっと娘のことを気遣ってやれないのかと。どうして、自分の脚で歩こうと努力しないのだろうかと。

    今度こそ従姉が倒れて入院などしてしまったら、その時は、どうやって生活するつもりなのかと、高齢という理由に甘えている彼らの危機感のなさには、怒りすら覚えるのである。face09  続きを読む


共同浴場の声・・・・・382

< 不 思 議 な 話 >


共同浴場の声



    ある猛吹雪の夜、街には、ひとっ子一人姿が見えなかった。

    吹きすさぶ風は雪の渦を巻きあがらせ、家々の窓を激しく殴りつけていた。

    そんな夜は、厳しい寒さも影響して、たとえ近所の人たちといえども、共同浴場まで足を運ぶ者はほとんどいない。しかし、足あと一つない新雪の上を慎重に歩みながら、身体を大判のショールで包んだ女性が一人、正に、意を決して、外湯まで出て来たのであった。

    女湯のドアを開けて中に入ると、他には誰ひとり入浴していない証拠に、照明がすべて消されている。彼女は、電源のスイッチを入れると、蛍光灯の明かりが点いた脱衣所へと上がった。

    浴室内の電気も点いて、女性は、冷え切った身体を湯船につからせて一心地ついた時、不透明のガラス壁で仕切られている男湯の方へ眼をやった。

    男湯も、この悪天候のためか誰も入浴しているものはいないので、浴室内の電気は消えて、真っ暗であった。

    女性は、戸外に吹きすさぶ風の音を聞きながら、温かな湯の中で思い切り手足を伸ばし、独りきりの貸切風呂をゆっくりと満喫していた。ところが、そのうちに、彼女の耳に奇妙な音が聞こえてきたのである。

    「ザバーッ、ザバーッ!」

    その音は、男湯の方から聞こえてくるもので、明らかに誰かがお湯を使う音である。洗面器で汲んだお湯を、身体に掛けていると思われる気配の音が、はっきりと聞こえてきたのだった。

    女性は、誰もいないはずの真っ暗な男湯から聞こえてくるお湯を流す音に、思わず聞き耳を立てた。

    (誰か入っているのかしら?だったら、どうして、電気を点けないの・・・・?)

    そう思いながら洗髪をしていると、今度は、もっと不気味な物音が聞こえてきたのであった。それは、男性の低い唸り声のような音であった。

    「お~っ!お~っ!」

    女性は、思わず恐怖心を覚え、髪を洗うのもほどほどに、上がり湯を身体にかけると、慌てて浴室から出ようとした。----と、その時である。

    「あれ?もう、行っちゃうのォ?」

    「-------!?」

    まるで、女性の行動を見ているかのような男のくぐもり声が聞こえ、彼女は、仰天して、濡れた身体を拭くことも忘れ、脱衣所へと戻ったのであった。そして、急いで服を着ると、共同浴場から逃げ出すように吹雪の中へと駆け出したのだった。

    あの真っ暗な男湯の浴室内に、いったい何者がいたのか?-----今もって、謎のままである。

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Posted by ちよみ at 12:46Comments(0)不思議な話 Ⅲ

自殺・・・・?それとも・・・・・381

~ 今 日 の 雑 感 ~



自殺・・・・?それとも・・・・



    昨日午後三時頃、中野市草間の市道交差点で、ワゴン車がコンクリートの壁に正面衝突するという事故があり、事故車両内に胸を包丁で刺した男性が倒れているのが発見されました。

    近くの男性の通報により、岳南広域消防本部の救急隊が駆けつけた時は、運転席の男性(58)は、既に心肺停止状態で、搬送先の病院で死亡が確認されたといいます。

    死因は、失血死だったそうです。

    しかし、奇妙なのは、その亡くなり方です。

    男性の左胸には刺し傷がありましたが、ハンドルの支柱に運転席側に向かって木の棒が取り付けられていて、その棒の端に、包丁の柄がくくりつけられ、その刃は、車内に落ちていたというものでした。

    つまり、男性は、ハンドルに包丁をくくりつけ、その刃を自分の左胸にあてがった状態で、ワゴン車を走らせ、コンクリート壁に車を衝突させた衝撃で、自分の胸を突き、自殺を試みたと思われるのです。

    中野署は、事件性は薄いと見ているようですから、おそらくは、自殺だと思われますが、それにしても、何とも不思議な死に方です。

    普通、自動車を使った自殺と言えば、排気ガスとか練炭とかを使用するものだと思いますし、確実に死のうとするなら、もっと別の方法を取るのではないかと思うのです。

    このような方法では、万が一にも刺し所が狂えば、大変なことになります。

    男性は、どうして、このようなある意味不確実ともいえる方法を選んだのでしょうか?とにかく、生きていることが嫌になり、早く楽になりたいと、そればかりを思い詰めた衝動的な自死だったのでしょうか?

    それにしても、58歳は、まだまだ若すぎます。

    日本は、年間三万人もの自殺者を出すという、世界でも類をみない自殺大国だと言われます。わたしの知り合いにも、自殺した人が数名います。

    まだ充分に生きることのできる命を、どうして、あたら無駄にしようとするのでしょうか?その苦衷を誰かに相談することは出来なかったのでしょうか?

    この男性の死が、事実自殺だったとするなら、これほど壮絶な死に方はないと、衝撃を受けたニュースでした。

    ご冥福をお祈り申し上げます。







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靴が脱げない・・・・・380

~ 今 日 の 雑 感 ~


 
 靴が脱げない



    先日、ちょっとした用事で近所にあるクリニックへ行きました。

    クリニックの自動ドアを開けて中へ入ると、午後の診療時間が始まったばかりだというのに、既に、シューズボックスは満杯状態で、わたしは、その中からようやく一つの空きボックスを見つけて、自分の靴を入れ、スリッパを履きました。

    そして、待合室へと行こうとした時、先ほどから、傍らで靴を脱ごうとしていた八十代の女性が、声をかけて来たのです。

    「あの~、悪いんだけれど、靴、脱がしてもらえない?」

    「・・・・・・?」

    見ると、その女性は、片手で杖を持っているのですが、もう片方の手は、まったく麻痺した状態で、小さくすぼめたままです。履いている靴は、マジックテープ付きのリハビリ用シューズなのですが、杖を持っている方の手を放すと、身体が倒れてしまうのです。

    ですから、玄関で靴を脱ぐことが出来ずに、先刻からずっと悪戦苦闘していたというのでした。

    一緒に来てくれるような家族の姿も見えません。おそらく、不自由な身体でクリニックまで一人で歩いて来たのでしょう。脳溢血でも患ったのか、言葉も明瞭とはいえないため、何となくくぐもり声で話すので、他の患者さんたちには助けを求めることが出来なかったのだと思いました。

    わたしは、「大丈夫ですか?」と、言いながら、その女性の靴を脱がせ、彼女が待合室へ入りやすいようにドアを開けて待っていました。

    それでも、その歩き方は、ゆっくりです。そろそろと、足を擦るようにしか歩けないため、やっと待合室へ入り、空いている椅子を見つけて腰を下すまで、かなりの時間を必要としました。

    待合室は、大勢の患者であふれかえり、わたしが腰を下ろす場所も見付からないほどの込み具合です。正に、立錐の余地すらないと言った具合で、最近は、総合病院にしか行ったことがないものですから、本当に、驚きました。

    その後、用事を済ませて帰ろうとするわたしを、その高齢女性は、じっと見ていましたが、何故か、彼女は、お礼一つ、会釈一つしようとはしません。

    「さっきは、ありがとう」と、言うことが恥ずかしかったのか、それとも、あのような身体になってしまったことで、他人に助けてもらうことが当たり前になっているため、いちいちお礼など言うことが面倒臭くなっているのか、いや、もしかしたら、わたしに靴を脱がせてもらったことすら、早くも忘れていたのか-----。

    いろいろ想像は出来ましたが、結局、女性は、知らん顔でした。

    でも、彼女は、今度帰る時も、おそらく靴を一人では履けないでしょう。必ず、誰かに手伝ってもらわなければならないはずです。きっとまた、そんな女性を見兼ねて手を貸してくれる人はいるのでしょうが、それでも、

    「年長者に親切にするのは、若い者なら当然のことだ」

    と、いうように、女性はおそらく無言で帰って行ってしまうことでしょう。

    何だか、社会全体が、甘えの構造で成り立っているようで、ちょっぴり寂しい気持ちになったのでした。face07

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ブログは、年配者のツール?・・・・・379

~ 今 日 の 雑 感 ~


ブログは、年配者のツール?


    
    今日は、実に、想像通りの反応が返って来て、思わず笑ってしまいました。(爆)

    やはり、人間、まっとうな生き方をしていないと、常に足元を気にしなければならないものなのですね。

    どれほど、明るくふるまってみても、本心は隠せないものです。face06




    先日、インターネットのニュースを見ていたら、「ブログは、もはや、時代遅れ」というような記事が目にとまった。

    時代遅れなどといわれても、わたしなどは、ようやくパソコンという便利なものの存在に気付いたばかりだというのに、いったいどういうことなのだろうかと、記事を読み進めると、どうやら、十代、二十代の若者世代は、ブログのように長々と文章を書くことに、既に飽き始めているというのである。

    それよりも、ツイッターのように、短い文章で端的に意思を表し、簡単に文字会話が楽しめるようなシステムの方が、コミュニケーション・ツールとしては使い勝手がいいというのである。

    そもそも、若者世代は、携帯電話での会話などでも判るように、短文に絵文字などを入れての感覚会話が主流である。

    そういうところでは、最も大切な要素は、反応であって、思考ではないのだ。

    彼らの会話には、主義主張はむしろ邪魔なのである。そこに存在する物は、すべてにおいて同調以外の何物でもない。同調出来ない者は、会話に加わる資格がないといってもいいくらいである。

    しかも、その同調も、即座に反応しなければならない。投げかけた言葉に、24時間も間を開かせて答えたのでは、そんなものは答えとして認められないのである。

    つまり、そういう意味からしても、ブログのように長々と自身の主張を展開し、そこへコメントとして書き込まれる反応を辛抱強く待ち続けるような悠長なことを、若者たちとしては、とても我慢がならないのであろう。彼らには、一分一秒も惜しいのである。

    その反対に、30代以上の世代は、もちろん、短文会話も魅力的ではあるが、やはり、これまで自身が培ってきた経験や知識を、第三者にも聞いてもらいたいという気持ちが強い。

    そのため、とても、短文では伝えきれない話も出てくる訳で、そういう彼らにとってみれば、ブログは、これからもなくてはならない意見発表ツールであるといえるのだ。

    もちろん、そういうブログを書いている人たちの中で、ツイッターなどを併用している人は多いという。やはり、彼ら年配者も、ブログ上での主張は続けたいが、即座に返って来る会話も楽しみたいというのが本音なのであろう。

    こうなって来ると、これからの日本の中には、三つの世代が混在化するような気がする。

    パソコンや携帯電話などとは一切かかわりを持たない実社会のみが現実の世代。パソコンや携帯電話も使うが、実際の社会とはあくまでつながり続け、ブログなどの長文でコミュニケーションを図る世代。そして、バーチャル世界だけでも生きていけるツイッター世代。

    各世代間の壁は、今後、ますます高く、厚くなって行くのだとしたら、それは、実に寒々しく恐ろしい時代だといえるのかもしれない。

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非公開で見えたこと・・・・・378

~ 今 日 の 雑 感 ~


非公開で見えたこと



    先日、二日ほど、当ブログが非公開扱いとなりました。

    たった、二日のことでしたが、お問い合わせなど頂き、常にご愛読頂いている皆さまには、誠にご迷惑をおかけしました。

    この時の皆さまからの励ましのメールやコメントは、大変心強く、ありがたいものでした。改めて、感謝申し上げます。

    その一方で、この非公開を、当ブログの閉鎖と勘違いした方もおられ、わたしがブログをやめたことを友人に伝えるべく、嬉々として連絡を取り合ったという人もいたと、聞きました。

    しかし、その連絡を受けた方の一人は、そうした相手の態度に呆れ、

    「そういう配慮に欠けることを言うものじゃない!」

    と、諫めて下さったそうです。が、その方も、よもや、「愛」とか「親切心」とかをいつも口に出している人から、そのような中傷めいた言葉を聞くとは思いもかけなかったと、落胆しておられました。

    他人がブログを閉鎖するということは、そんなに嬉しいことなのでしょうか?相手をやっつけたような高揚感を得られるものなのでしょうか?

    その間、これまで全くつながりがないと思われていた人同士が、実は、水面下で連絡を取り合っていたという事実も、垣間見せて頂きました。

    そして、再び、当ブログが再開した時の、その人たちの驚きや悔しさは、想像に余りあるものだと実感しました。これまで、一年間、一日も欠かさず閲覧してくださっていた方が、パッタリと訪問されなくなったり、中には、如何にもと思われるほど挑発的なコメントを書き込まれた読者の方もいました。

    本来ならば、削除もやむを得ない内容でしたが、そこは、こちらも一応大人の対応を取らせて頂き、きちんとお返事を差し上げました。

    それにしても、わたしは、常々思います。

    どうして、それほどまでにブログの世界ばかりを重視する人がいるのだろうかと。もしも、わたしがブログを閉じたとしても、わたしがこの社会から消えてなくなる訳ではありません。

    わたしという人間は、やはりこれまでと同じように、その人たちの近くにいるのです。

    サイトから排除してしまえば、すべてが終わりだ、これで清々すると、本気で考えているのでしょうか?もしかしたら、街でいつも顔を合わせている間柄なのかもしれないではありませんか。

    ブログは、単なる意見や近況発表のためのツールにすぎません。わたしの足は、いつも実社会の方にウェイトを置いているのです。もしも、ブログの中だけにしか生活の意義を見つけられない人たちがいるのだとしたら、それこそ奇異なことだと言わざるを得ないのです。

    たった、二日間の非公開ではありましたが、実に、さまざまな人間模様を見させて頂いた、貴重な二日間だったと思います。



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買いたい物がない!・・・・・377

~ 今 日 の 雑 感 ~


買いたい物がない(-_-;)



    近頃、スーパーの衣料品売り場へ行っても、「買いたい!」と、思うものがあまりない。

    もう少し若い頃は、衣料品売り場には、わたし好みのジャケットやスカートが山のようにあり、どれを買ったらいいのか、迷いに迷って困ったものである。

    生地もしっかりした物が多く、デザインもシンプルで格好がいいし、とにかく着心地抜群で高級感があった。ジャケットなどは、目移りするほど多種多彩であったし、靴も底が程良い厚さで、今の物とは安定感が違った。

    それが、今のデザインは、どうだろう。重ね着は、まだいいとして、生地の素材の頼りないこと。ナチュラルとか自然派とか言えば聞こえはいいが、それを着ている女性たちを見ても、少しも魅力的に感じないのだ。

    だから、衣料品コーナーにディスプレイされている洋服を見ても、ほとんど触手が動かない。やたらに、体にフィットしているジャケットを着たマネキンの後ろ姿の貧相なことといったら、情けなくなってしまうほどである。

    こういう感覚になったのは、わたしが年を取った証しなのだろうか?-----とも思うが、一概に、そういう訳でもないらしい。

    やはり、二十代の若い女性たちの間にも、「お母さんの学生時代に流行ったファッションの方が綺麗だよね」と、いう声もあると聞く。そういえば、昨年の秋は、やたらにスウェードやベッチン、ベルベット素材のジャケットなどが流行した。

    これは、かつて、わたしたちが若かりし頃に流行ったファッションである。しかし、明らかに、わたしたちの時代の方が高級感は上だった。生地の毛足も長く、上品さがあったように思う。

    冬の定番ブーツにしてもそうである。何処となく、メーカーの意気込みが感じられない。不況の影響が社員の士気にも影響しているのだろうか?「これを売り出すぞ!」と、いうような気迫が商品デザインなどに感じられないのである。

    小手先のアレンジに終始しているようで、そんなメーカーの裏が垣間見られる商品に、魅力的なオーラなど生まれるはずもない。

    そんな訳で、わたしは、一通り売り場を冷やかして歩くが、いつも落胆して帰ることになるのだ。だから、もうしばらくは、これまで持っている衣類の着回しでしのぐこととする。

    そして、春には、「わ~!これ欲しい!」と、つい手が伸びるようなファッションが巷にあふれることを願っている。icon06



    

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介護用ベッド削減の是非・・・・・376

~ 今 日 の 雑 感 ~


介護用ベッド削減の是非



    テレビの国会中継を観ていたら、民主党の長妻厚生労働大臣が、政府は、自民党時代からの政策でもある、病院などの介護用ベッド数を削減する方向を基本方針として、今後も行くつもりだという答弁をしていた。

    つまり、介護は、出来るだけ各家庭で行なうようにして、医療費の削減に努めるということなのである。また、長妻大臣は、人生の終わりを病院で迎えるということよりも、やはり自宅で最期を看取るということを、希望する家族も多いためと、いう理由をあげていた。

    しかし、その一番の背景にあることは、やはり、病院の人手不足ということなのであろう。

    最近、よく問題視されることに、認知症の高齢者をベッドに縛り付けたり、つなぎの衣類を着せたりする、病院や介護施設における徘徊患者の拘束がある

    ベッドに手を縛りつけられた患者が、それをほどこうとして怪我をするという事例も多いと聞く。

    だが、拘束せずにおくと、夜中に勝手にベッドを抜け出して、病院内をさまよい歩いたり、下手をすると、外へ出て行ってしまう患者もいるなど、看護を担当する職員には相当の負担がのしかかることにもなるのだ。

    そういう徘徊患者を追いかけている間に、他の患者の容体が急変したり、点滴が終わったことに気付かずにいたりする事例が起これば、いったい、誰に責任を取ってもらえばいいのであろうか?

    わたしのような一般の患者側の立場からすれば、真っ先に、徘徊患者を病院に預けたままにしている家族に、責任があると考えてしまう。こういう医療事故を最小限にするためにも、これ以上回復の見込みのない患者を、いつまでも病院へ置いておくわけにはいかないという、国の考え方もある意味当然だと思うのである。

    認知症徘徊患者の身体拘束を、出来るだけ無くそうという、「身体拘束廃止」を宣言し、実践している病院や施設も各地にあるそうで、県内にも、県厚生連鹿教湯三才山病院があるというが、そこでは、患者の徘徊の原因となる心の不安を取り除いたり、個々の患者の行動パターンをつかむ、また、センサーなども活用するなどして、徘徊をなくす工夫を施しているそうであるが、それだけの手厚い看護体制が組める病院と、そうでない一般の総合病院とでは、やはり、医療目的にも大きな違いがあるものと考えるのである。

    国にとって、看護や介護にかかる人材の確保と、給料面での制度改正が急務であることは当然であるが、当面の医療崩壊を食い止めるためには、医療事故を防ぐという観点からも、介護用ベッドの削減もやむを得ない処置ではないかとも思うのである。

    認知症の老人に家へ帰ってこられても、家族が困る。拘束でも何でもしていいから、とにかく、病院へ置いておいてくれ。----と、いう声もある一方で、自分の親がベッドに縛り付けられるのは見ていられない。お金を払っている以上、もっと人間らしい扱いをして欲しい。-----と、いう家族の声もある。

    こういう国民の切実な声にどう応えて行けばいいのか?----長妻大臣は、個々のケースをしっかりと精査したうえで自宅へ帰ってもらうか否かを決めるとは言っているが、また、この線引きが難しいのだと、思うのである。  続きを読む


ダンダラ武士道

「 詩 」



ダンダラ武士道



顔も知らない  名も知らぬ

そんな奴らが  誠の下(もと)に

己が命と  武士道と

白刃の光  もろともに

旋風(かぜ)の京へと  集い来る




盾は忠義か  屍(しかばね)か

積んで冥土の  案内塚よ

涙かくして  鯉口切れば

今日もふるふる  都路に

赤き血潮の  糸時雨




生きるも死ぬも  同じこと

死地の土産の  段平さげて
 
京の夜風に  ふきさらす

浅葱羽織の  月光も

さえて悲しと  鴨に泣く





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Posted by ちよみ at 22:37Comments(0)